夏期休暇
試験の結果が発表され、解答用紙が返され、前期試験を終えた学院は夏期休暇に突入する。
つい先ほどまで全校生徒の集会があり、そこで学院長からお言葉を受け、夏期休暇中の注意点についても色々と説明を受けた。
話は非常に長くて、前世の記憶でも、こういう集まりというのは世界が違っても同じように長いものなんだなと途中で少し意識を飛ばしてしまった。
……まあ、要は学院の生徒として恥ずかしい行動は慎むように、ということである。
夏期休暇は一ヶ月半。
夏の最も暑い時期を避けるためだ。
それに夏場は社交シーズン真っ只中なので、貴族が多く通うこともあって学院側はそれならばいっそ長期の休みを設けて生徒の負担を減らそうという意図もあるらしい。
この時期は地方からも多くの貴族達が社交の場に出るために王都へやって来る。
そして王都も増える貴族達にお金を落としてもらおうと、大通りの屋台も増え、普段よりもずっと賑やかになるのだ。
教室に戻ってきたわたし達だが、アイラ先生からもう一度、今度は短くだけれど夏期休暇中の行動について注意された。
「いいですか、この学院に通う皆さんは一人一人がこの学院の名前と伝統を背負っています。夏期休暇だからといって気を緩めず、悪事に手を染めず、正しい行いを心がけてください。そして宿題も忘れないように」
先生の注意にクスクスと笑いが広がった。
「さあ、これ以上は先生もしつこく言いません。皆さんも良い休暇を過ごして下さいね」
ちなみに夏期休暇だからと言って成績表を渡されることはない。
代わりに前期試験の結果は各家に通知されている。
成績が下がって憂鬱な者もいれば、成績が上がって喜ぶ者もいるし、同じ成績を維持した者もいて、その辺りは前世の学校とそう変わらない感じがした。
最後の授業を終えて、クラスメイト達はそれぞれ席を立って帰ったり、友人と話をしたり、自由に過ごし始めた。
わたしもカバンを手に立ち上がる。
「リュシエンヌ、今日も生徒会室に寄って行っても良いか?」
お兄様の言葉に目を丸くしてしまう。
「今日もお仕事があるのですか?」
「いや……。今帰ると正門のところで男爵令嬢と会ってしまうかもしれないだろう? 時間をズラしたいんだ」
「なるほど」
今出れば、一年生や二年生と帰宅時間が被る。
そうなればオリヴィエと鉢合わせる確率は高いし、彼女のことだから近付いてくるかもしれない。
そういうことなら、と頷いた。
「あ、私も行ってもいいかい?」
「私もご一緒したいですわ」
と言うロイド様とミランダ様と共に教室に残っていたクラスメイトに挨拶をして廊下へ出て、ルルとお兄様の護衛の騎士と合流して三階へ移動する。
そうして三階の生徒会室横の休憩室に入る。
席に着いて不意に気付く。
「時間を潰すならカフェテリアでも良かったのではありませんか?」
あちらの方が軽食などを頼めていいだろう。
けれどお兄様とロイド様が首を振った。
「あそこだと探しに来るかもしれないだろう?」
「それに『夏期休暇中、是非我が領地にいらっしゃいませんか?』っていう誘いをかけてくる人達からもここなら逃げられるしね」
ロイド様の言葉に思わず「まあ……」と驚いた。
それは何とも露骨なお誘いである。
……でも公爵家や王族と親しくなりたければ、自分から行くぐらいでないと縁を作れないかもね。
お兄様が学院に入ってからの二年間、夏期休暇に私的なお出掛けをしたのは確かアルテミシア公爵領とクリューガー公爵領だけだ。
他は全て公務だった。
きっと学院で沢山のお誘いを受けて、全て断ってきたのだろう。
もしくは公務という名目で出掛けたのかもしれない。
私的な訪問と公務での訪問では意味が大きく違う。
「でも、わたしも一度くらいは旅行してみたいです」
この世界では旅行どころか王都の外に出たことすらないしな、と思いながらポロリと零すと、ルルとお兄様がパッとこちらを向いた。
同時に部屋の扉が叩かれる。
護衛の騎士が対応し、扉の向こうからエカチェリーナ様が姿を現した。
「やはりこちらにいらっしゃいましたか」
「ああ、下校時間をズラしたくてな」
エカチェリーナ様が入ってきて、お兄様が一度席を立ち、隣の椅子を引く。
面白いことに毎回座る場所がみんな同じなので、その人がいなくても、自然とその席が空いているのだ。
そこにエカチェリーナ様が座るとお兄様も席に戻る。
「なんのお話をされておりましたの?」
エカチェリーナ様の問いにロイド様が答えた。
「毎年ある避暑地のお誘いの話から、リュシエンヌ様が旅行をしたことがない、という話に移っていたところだよ」
ロイド様の言葉にエカチェリーナ様が口元に手を当てて驚いた。
「まあ、リュシエンヌ様はご旅行をされたことがございませんの?」
「そうですね。宮には庭園や池もあるし、少し気分を変えたい時にはお兄様の宮に遊びに行っておりましたし、それで十分楽しくてどこかに遠出したいともあまり思いませんので」
「そういえばリュシエンヌは昔からそうだったな」
お兄様が考えるように腕を組んだ。
ミランダ様が身を乗り出す。
「それでしたら、これを期に一度ご旅行を経験されてみてはいかがでしょう?」
わたしは目を瞬かせた。
「わたしが、ですか?」
「そうですわ。ご結婚されてからでは、それはそれで出掛け難いでしょう。なら今年しかありませんわ」
ミランダ様の言葉にロイド様が頷く。
「それは一理あるね。過保護なニコルソン男爵がリュシエンヌ様を旅行に連れ出してくれるとは限らないし……」
全員の視線がルルに向いたので、思わずわたしも振り返ってルルを見上げた。
灰色の瞳と視線が合うと細められた。
仕方ないなぁという風にルルが苦笑する。
「リュシーが出掛けたいならいいよぉ」
「いいの?」
「いいよぉ。それにどうせオレも行くしねぇ」
……それもそうだ。
ルルと旅行と考えるとなかなかに魅力的である。
「いいなら、行ってみたいです。でも、わたしの我が儘で国民の税金を使うのはちょっと……」
旅行と言っても前世のような気軽さでは行けない。
使えるのは馬車か馬だけだし、王女のわたしが動くとなれば大勢に迷惑をかけてしまうだろう。
お金もかなりかかるはずだ。
腕を組んで聞いていたお兄様が口を開いた。
「なら、わたしの公務について来るのはどうだ?」
「公務にですか?」
「そうだ、私は他領の視察に行く予定があるだろう? その時に一緒に来て、途中の、そうだな、クリューガー公爵領に数日泊まって、私が戻る時にまた一緒に戻ってくればいい」
「それは素晴らしい案ですわ」
お兄様の提案にエカチェリーナ様が身を乗り出し、賛同するように大きく頷いた。
「我がクリューガー公爵領には有名な避暑地がございますので、夏期休暇のご旅行にはピッタリですのよ。大きな湖のある森ですが、凶暴な獣もおらず、いくつか別荘も建ててあるので、お好きな別荘で過ごすことが出来ますわ」
どこかで聞き覚えのある言葉に首を傾げる。
……どこで聞いたっけ?
避暑地、大きな湖のある森、安全な場所、公爵領──……
「……もしかしてウィルビレン湖ですか?」
「あら、ご存知ですのね」
「はい、学院に通う前に教師の方の一人が話してくださいました。大きな湖で、湖の中にはいくつも小さな島があって、特に朝日が昇る頃と夕日が沈む頃は非常に美しいそうですね」
わたしに教育をしてくれた教師の一人が以前、休暇でそこへ行って、とても美しい場所だったと教えてくれた。
ダンスの先生だったけれど、厳しい女性で、普段は礼儀作法などについて色々と教えられることはあっても、そういった私的な話をあまりしない人だったので印象に残っていたのだ。
エカチェリーナ様が頷く。
「ええ、その通りですわ。一部は観光地として開放しておりますが、ほとんどが貴族の避暑地用ですから警備も万全ですし、王都とも近いので初めてのご旅行でも疲れずに目的地に到着出来ます」
「私の公務について来る形だから、別々に行くよりも良いと思う」
お兄様の後押しする言葉に考える。
……一度くらい旅行してもいいかな。
「そうですね、お父様が許してくださいましたら……」
お兄様が明るく笑う。
「許可すると思うぞ。何せ父上もリュシエンヌのことは可愛いからな。むしろやっと外の世界に興味を持ってくれたと喜ぶだろう」
……ああ、まあ、わたしって引きこもりだもんね。
* * * * *
何もかもが計画通りにならない。
たった一人だけ残された教室は、窓から夕日が差し込み、全体を濃いオレンジ色に染めていた。
原作ならば一番好感度の高い攻略対象がオリヴィエのところを訪れて、夏期休暇中に一緒に出掛けないかとデートの約束をしに来るはずだった。
現在、一番好感度が高いのはレアンドルであったが、そのレアンドルは婚約者と婚約を解消して以降、オリヴィエを明確に避けている。
それでも、もしかしたらという希望をかけて、オリヴィエはずっと教室に留まった。
レアンドルがダメならアンリでもいい。
攻略対象の誰かが来れば、繋がりは作れるはず。
でも夕方になってもオリヴィエの下を訪れる者は誰もいなかった。
「おーい、そろそろ教室を閉める、ぞ……」
聞こえてきた声にオリヴィエはパッと顔を上げた。
教室の出入り口にいたのはリシャール=フェザンディエだった。
「リシャール先生!」
オリヴィエは思わず立ち上がった。
そしてリシャールへ駆け寄っていく。
そのリシャールの顔が僅かに強張っていることに、オリヴィエは気付かず、前に立つ。
「すみません、勉強をしていたので遅くなってしまいました」
「へ、へえ、そうなのか」
オリヴィエは原作のヒロインと同じ言葉を口にしたが、リシャールの目には、何も載っていない机が映っていた。
「とにかく、もう下校時間だ。早く帰るように」
教室から離れようとするリシャールにオリヴィエは焦った。
せっかく現れた攻略対象を逃がしたくないという気持ちから、オリヴィエはとっさに、リシャールの纏っていたローブの裾を掴んでいた。
「先生、実は試験の問題で分からないところがあったので聞きたくて。……お休み中でも、学院に来れば会えますか?」
オリヴィエは自分が一番可愛く見える角度でリシャールを上目遣いに見上げた。
「悪いが夏期休暇中は学院にいない。質問があるなら今してくれ」
「え、」
予想していたのとは違う淡々とした反応にオリヴィエは目を丸くした。
オリヴィエは外見に自信があった。
何せヒロインなのだから、庇護欲を誘うこの可愛らしい外見に見とれない男はいないだろう。
街に出ればナンパなんてしょっちゅうだし、レアンドルだってオリヴィエが笑いかけるだけでいつも少しだけ頬を赤く染めていた。
……それなのに。
「質問しないなら俺は会議があるから戻るぞ。いつまでものんびりしてないでさっさと帰れよ」
そう言って、スルリとオリヴィエの手からローブの裾を取ってリシャールは行ってしまった。
待って、というオリヴィエの声は虚しく溶けた。
伸ばした手は何も掴めなかった。
静かな夕暮れにリシャールの足音が遠ざかって、そして何も聞こえなくなった。
「…………んで、」
俯いたオリヴィエが唇を噛み締めた。
切れた唇から僅かに血が滲む。
「ふざけんな!!!」
ガツンと近くにあった机をオリヴィエは蹴った。
怒りのままに、何度も机を蹴りつける。
「何で! ヒロインに! 振り向かないっ、のよ!!」
ガン、ガツン、机と椅子がズレて、後ろの机とぶつかった。
それでも構わずに蹴り続ける。
「私はヒロインなのよ?! ヒロインが見つめたら、攻略対象は、可愛いって言いなさいよ!! 何のための、攻略対象よ!! 使えない、わね!!」
ついに蹴られていた机の向きがズレて、床へ倒れたが、オリヴィエは倒れた机をまだ蹴った。
机の表面に靴から土埃が移ったが、オリヴィエはやめなかった。
「ムカつくムカつくムカつくムカつくムカつく!!!」
「クソがっ!!」と机に怒りをぶつける。
それからしばらく、オリヴィエの怒りは続いたのだった。
* * * * *
オリヴィエのいる教室から一つ空き部屋を挟んだ教室。
その開けっ放しの扉の陰に座り込み、リシャール=フェザンディエは黙って聞こえてくる声と音を聞いていた。
……聞いてたよりヤバい奴だな。
先ほどのことを思い出す。
生徒が残っていないか確認をしに来たら、最悪なことに、オリヴィエ=セリエール男爵令嬢がいた。
近付かないようにしていたのにうっかりした。
こっそり教室の中を窺っておけば良かった。
男爵令嬢は勢い良く立ち上がると、リシャールが逃げる間もなく駆け寄ってきた。
そして聞いてもいないのに「勉強していた」と口にしたが、今しがた男爵令嬢が座っていた席の机には勉強道具は一切置かれていなかった。
それにリシャールはゾッとした。
今日の授業は午前中だけだ。
時間を潰す道具がないということは、ずっと、あの席に座ってこの時間までいたのだろう。
何とか逃げようとしたが、男爵令嬢はリシャールのローブの裾を掴んで引き留めた。
しかも、明らかに計算したような可愛らしい上目遣いで見上げながら夏期休暇中に会えないか聞いてきた。
それにはさすがのリシャールもイラッときた。
夏期休暇中は婚約者と会いたいし、休みと言っても教師の仕事は色々とある。
だからリシャールは苛立ちのまま、淡々と対応し、その場を離れた。
そうしてあえて別の教室に隠れて、男爵令嬢がどのような反応をするか待った。
見極めがしたかった。
その結果が断続的に聞こえる鈍い音と、聞くに耐えない言葉の数々であった。
……もう絶対に近付かないようにしないとな……。
粘着されたくないし、利用されたくもない。
座り込んだまま、リシャールは聞こえてくる音に小さく息を吐く。
……男爵令嬢がいなくなったら確認するか。
学院の備品は公共の物だ。
それに八つ当たりするなど常識的に見ても、ありえないことだ。
まるで幼い子供が酷い癇癪を起こしたようだ。
せめて備品を壊さないでくれ、とリシャールは座り込んだまま、もう一度深く息を吐いたのだった。
* * * * *




