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第18話 決戦、ヘカトンケイル

 乾いた大地に、夕陽が鮮血の色を滲ませていた。


 霜巡の終わりを告げるかのように冷たく澄んだ空気が、戦場に立ち込める埃と血の匂いを運び、どんよりとした雲が夕焼けの光を遮っていた。


 トシオの目の前には、想像を絶する光景が広がっていた。


 赤黒く焼けただれたような皮膚を持ち、背から無数の太い腕を生やし、頭部からは無数の瞳がじっとりと光を放つ巨大な怪物──ヘカトンケイル。その異形の存在は、盗賊たちを赤子を捻るがごとく、いとも簡単に薙ぎ倒しながら、こちらへと向かってきていた。


 逃げ惑う盗賊たち。それを追う辺境伯軍。両者の間を分かつように立ちはだかる忌まわしき魔物の姿。大地は揺れ、風は唸り、すべてが形を失っていくかのような恐怖と混沌が渦巻いていた。


(これは……まさに"クレーム対応の極み"と言いましょうか……)


 トシオはシェリルを抱きかかえたまま、ヘカトンケイルを見据えていた。ネクタイが風になびき、眼鏡の奥の瞳は冷静さを失わない。彼の腕の中で、シェリルの肩が微かに震えていた。


 そのとき、後方から駆け寄る足音がした。


「シェリル様!」


 振り返ると、一人は鎧に身を包み、一人は眼鏡をかけた女性が、こちらへと全力で駆けてきていた。黒髪の女性の剣には既に血が滲み、褐色の髪の女性の指先には銀色の糸がまとわりついている。


(お仲間が仲間がいらしましたね。ええ、これでお嬢さんも安心でしょう)


 トシオはゆっくりと身体を傾け、抱きかかえていたシェリルを二人の女性に引き渡そうとした。


「お嬢さんを、お願いいたします」


 だが──シェリルは微かに手を伸ばし、トシオのスーツの襟元をそっと掴んだ。


「ま、まだ少しだけ……」


 囁くような声。頬には淡い紅が差していた。


「え?」


 トシオは首を傾げたが、二人の女性が迫っており、やむなくシェリルの指を静かに解きほぐし、引き渡した。シェリルの表情には、微かな不満と、言いようのない名残惜しさが浮かんでいた。


「ご、ご安心ください。あなたの仲間が、ちゃんと見守ってくれますよ」


 トシオはそう言うと、ためらいのない足取りでヘカトンケイルに向き直った。


 営業部係長の名刺から流れ込んだ力は、まだ彼の体内に充満している。心を落ち着かせ、眼鏡を押し上げ、覚悟を決めて立ち向かおうとする。


(どこから手をつけましょうか。あの目の数を見るに、弱点はおそらく……)


 いざ、という瞬間だった。


 スーツの裾を掴むような感触がした。


「……?」


 トシオが困った顔で振り向くと、そこには先ほどまでの凛々しい表情とは打って変わって、しおらしい表情を浮かべたシェリルが、トシオのスーツの裾を掴んでいた。その翠の瞳には、熱いまなざしが宿っていた。


「え、え~と、お嬢……さん?」


 対応に困りつつも丁寧に声をかけるトシオ。どのような事態になっても、礼儀だけは忘れない。


「も、申し訳ございません……ですが、あなたのお名前を……」


 シェリルの声は小さく、しかし芯のあるものだった。その声音からは、普段の威厳や気高さを感じさせないような、まるで幼い少女のような愛らしさがにじみ出ていた。


 その様子に、後ろから駆け寄った二人の女性が目を見開いた。


「シェ、シェリル様?」


 眼鏡の女性が、信じられないものを見るような目で呟いた。


 その瞬間、銀髪をなびかせた影がトシオの横を駆け抜け、シェリルの腕をつかんだ。


「主様から手を離せ!」


 アルウェンだった。彼女の表情には、怒りと嫉妬が露わに浮かんでいた。銀髪が風に舞い、その瞳には戦場の埃にも負けない炎が宿っていた。


「何をする!今、主様は戦おうとしておられるのだぞ!」


 シェリルは眉を顰め、その態度を一変させた。


「無礼者め!辺境を治める者に向かって、そのような物言いとは!」


 まるで別人のような威厳と高貴さが、シェリルの身体を包む。彼女の姿勢はピンと伸び、その視線は氷のように冷たくアルウェンを見下ろしていた。


「私の腕に軽々しく触れるとは……百年の刑に処すぞ!」


 アルウェンも負けてはいない。


「何者だと? 我らは主様と共に暮らす者たち!おぬしこそ、どこの小娘か!」


 二人の間に火花が散る。トシオはというと、状況が読めず、困惑するばかり。


(これは……顧客同士のトラブルといったところでしょうか……いや、でもこちらは戦場でして……)


 黒髪の鎧の女性とメガネの女性が焦った様子で二人の間に割って入った。


「シェリル様、落ち着いてください!」


「申し上げにくいのですが、淑女であればここは落ち着かれては……」


 二人の仲裁に、シェリルはようやく我に返ったかのように、深く息を吐いた。しかし、その視線は未だアルウェンから離れない。


 アルウェンも同様に、シェリルを睨み続けている。まるで二匹の猫が背中を丸めて対峙するような緊張感が、その場に満ちていた。


 トシオは眉間に皺を寄せながら、二人の様子をただ眺めていた。


(二人は何に怒っているのでしょうか──いやいや、そんな場合ではないでしょう!)


 その時だった。


「トシオ殿!」


 鋭い声が風を裂いた。ヒノエの声だった。


 ハッとして振り向くトシオ。視線の先で、ヘカトンケイルの無数の目が怪しく光り始め、禍々しい波動をまとい始めていた。


 その恐ろしい光景に目を奪われたその隙に、ヒノエが風のように駆け抜け、太刀を振りかぶってヘカトンケイルに斬りかかった。


「肢韻ノ構──鋭影ノ一太刀!」


 風が唸り、岩をも断つ刃がヘカトンケイルの巨体を貫いた。だが、怪物は体勢を崩しながらも、その目から黒い光線を発射した。


「危ない!」


 トシオの胸の内で、なにかが弾けた。名刺の力が目覚め、さらに深いところから溢れ出してくる。


 両腕を前に突き出すと、呪文も詠唱もなく、彼の指先から眩い光が放たれた。


 次の瞬間、光り輝く金色の半透明の大きな盾が出現し、光線をいなした。激しい爆発音と光の粒子が弾けるような轟音が響き渡る。


 だが、その盾を生み出した代償は大きかった。


 トシオの体を激しい脱力感が襲う。膝から崩れ落ちながら、彼は額に浮かんだ汗を拭った。


「これは連発できそうにありませんね……」


 呟きながら膝をつくトシオ。その様子を見たミーナが驚愕の声を上げた。


「い、今のは、もしや第八階域魔術、セイクリッド・フィールド!? しかも無詠唱なんて……」


 続くようにセリアも絶句した。


「なっ! 第八階域! そんな高位の魔法、人が扱えるしろものじゃありませんよ!?」


 まるで幻を見たかのように、シェリルもミーナもセリアもヒノエも、唖然とした表情でトシオを見つめている。


「ト、トシオ殿は賢者なのか……?」


 シェリルの震える声が、静かに場に響いた。


 だが、アルウェンだけはなぜか勝ち誇ったような表情を浮かべていた。


「我が主様なら当然だ。我らが聖者が、そのような力を持っていて何が不思議か」


 そのドヤ顔に、周囲がさらに驚きの表情を浮かべる中、地面が揺れた。


 ヘカトンケイルが、ふらふらと巨体を揺らしながら再び立ち上がり始めたのだ。


 トシオは膝をついたまま、息を整えながら呟いた。


「これはまずいですね……」

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