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第9話 凛麗の氷姫

 夜明け前の森は、霜に覆われた静寂そのものだった。


まだ空が白む前、枝の先に凍りついた水滴が音もなく落ち、落葉の上で砕け散る。風はなく、音はなく、生命の気配さえも沈黙している。だが、彼女は知っていた。


 この静けさは、ただの自然ではない。そこに潜む者たちの息を殺した気配──それが、この場にあるすべての音を、死なせているのだと。


 シェリル・フォン・アルベルトは馬上にあって、森の中に視線を走らせていた。


 その瞳には、夜の闇よりも冷たい深緑の光が宿っていた。気配は六。伏兵が二、陽動の配置が四。浅い。動きが読める。だが、罠を張っているつもりなのは向こうのほうだ。


「……おろかだな」


 短くそう呟くと、彼女は剣を引いた。


 月の光を受けて、刀身が淡く青白く輝く。金属の音さえ発さずに抜かれたその刃先が、空を切る。


 そして次の瞬間、彼女の口元がわずかに動く。


「……氷剣――展開」


 世界が、凍った。


 否、凍りついたのは空間の構造そのものだった。


 彼女の周囲に、蒼白い光が瞬く。空気中の水分が凝結し、形を得る。


 それはまるで氷の羽。鋭利な剣の群れである。


 六本、八本、十二本。次々と生成され、宙に浮かぶその姿は、まるで“精霊の輪陣”そのもの。


 刃たちはゆるやかに回転を始める。


 風もないのに旋回する氷剣の群れが、彼女の周囲を巡るその様は、意志を持った護衛機構のようですらある。


 それらの刃が、次の瞬間、霧を裂くようにして前方へと走った。


 ──一閃。


 氷剣の一つが、木の陰に伏せていた盗賊の一人を喉元から貫いた。


 叫ぶ間もなく絶命する。


 それに気づいた他の者たちが身を翻したとき、既に別の刃が足を裂き、肩を断ち、背を削っていた。


 氷の刃は、命を削る冷たさと共に、正確無比に舞っていた。


 飛び道具ではない。追尾し、追撃し、逃げ道を封じる。まるで意志を持っているかのような動き──


 一人が斬られ、残った者がようやく剣を構えたとき、


 シェリルはまだ馬を降りてすらいなかった。


 刃が、自らの代わりに全てを断ちに行く。


「な、なんだこの魔法は……!?」


「ぐ、ぐああっ……!」


 叫び声が上がるたびに、氷剣が交差する。


 切られた傷は凍りつき、血は噴き出すことなく凝結する。


 その死に様は、まるで氷の中に封じ込められるかのようだった。


 数息のうちに、森の中には五体の屍が横たわった。


 残るは一人。


 背丈のある男が剣を手に立ち尽くしていたが、膝が震えている。


 戦意など、既に消えていた。


「ま、待て……! 我々は盗賊じゃない!……命令で……そう、上からの命令だったんだ……!」


 震える声に、シェリルは眉ひとつ動かさなかった。


 しかし、その言葉には確かに“上”の存在を指す響きがある。


(やはり、貴族派か。……最初から繋がっていたな)


 馬上から冷ややかに見下ろしながら、彼女は静かに最後の詠唱を口にした。


「氷花に埋もれ散るがいい、下郎。氷絶月花(ひょうぜつげっか)……!」


 ──空気が、音を止めた。


 空中に残っていた全ての氷剣が、月光を受けて一斉に輝き始める。


 それはまるで、夜空に咲く凍結の花弁。


 花びらの如き刃が、円を描いて空を旋回し、次の瞬間、一点に収束する。


 その中心にいたのは、震える男。


 逃げる間もなく、氷の花が彼の体を包み込んだ。


 音はない。衝撃もない。


 ただ、花が咲き、そして散った。


 氷片がふわりと宙を舞う中、男の姿は跡形もなく消えていた。


 風が吹いた。


 森が息を吐き、凍っていた空気がわずかに動く。


 シェリルは静かに剣を納めた。


 凍てつく世界が、徐々に霧に呑まれていく中、彼女はただ一言、呟いた。


「……これで、帳が一枚剥がれたな」


 何もない空を見上げるその瞳は、剣と同じく、凍てつくほどに静かだった。


 静寂が戻った森の中で、シェリルはしばらくのあいだ、動かなかった。


 氷片のきらめきが霧に溶け、風のない空気にただ舞い続ける。その全てが、死を纏っていた。彼女の周囲には血の臭いもなく、ただ冷たく、清浄な静謐だけが広がっていた。


 剣を納めると、凍った空気がわずかに揺らぐ。


 ──終わった。だが、これはただの掃除にすぎない。


 静かに手綱を引く。馬がためらいもなく歩き出すのを確認すると、彼女は視線を先へと向けた。薄明かりの中、木々の隙間からわずかに空が白み始めていた。夜が明ける。光がこの地を照らせば、さきほどまで交差していた殺意もまた、霧と共に消えていく。


 背に迫るのは、未だ形を成さぬ混沌の気配。


 “上”の存在──命令、補給、誘導。その全てが裏を示していた。


(……報告には、骨が折れそうだな)


 肩越しに一度だけ森を振り返り、シェリルは何も言わずに踵を返した。


 山を下り、尾根を抜け、広がる平原の端に灯が見えたのは、それからしばらくしてのことだった。


 陽はすでに昇っていた。だが、曇天に近い朝靄が地表を這っているせいか、野営地全体は薄墨を塗ったような色をしていた。帷幕の列、焚火の灯、規律正しく配置された槍盾の影──整然とした空間に、戦地特有の緊張が染みついている。


 彼女が駆ける馬の足音が、整地された土を叩くたび、近衛たちが気配に反応するのがわかる。騎士の一人が素早く手を挙げ、出迎えの動きを取った。


 野営地の空気が、彼女の帰還によってわずかに引き締まるのを感じた。


 それは、剣を携えた帰還者が持つ重み──たとえ口にしなくとも、誰もが察する殺気の名残である。


 シェリルは一度、軍靴の音を響かせながら歩を進めた。会議用の天幕が、焚火の向こうにある。


(さて──次は、“言の葉の刃”を振るう番か)


 皮肉にも似た思考を胸に、彼女はゆっくりと帷幕をくぐった。


 帷幕の内は、静かだった。


 焚火の煙が遠ざかると、外のざわめきも次第に薄れ、空気には張り詰めた予感だけが残された。


 シェリルは天幕の中へ歩を進める。中にいた三人──辺境伯軍の中枢が、無言のまま立ち上がった。


 最初に頭を下げたのは、軍令官ヘルムート・ガライン。


 寡黙なその男は、無駄な言葉を一切持たぬ、戦術全体を統べる現場主義者であり、シェリルにとって“最後の判断”を預けられる数少ない参謀だった。


 次いでミーナ・クラリエ。


 軍政補佐官であり、幼少の頃からの付き人でもある。眼鏡越しの冷ややかな視線には、数字と文の世界で鍛えられた切れ味があった。資料を携えた彼女の姿は、まさに剣でなく“筆で軍を支える者”だった。


 そして、レオニス・ヴェルトラン。


 第二騎士団の団長にして、辺境でも名を知られる猛将。


 鎧の隙間から覗く浅黒い肌と、静かに燃えるような眼差し。戦の最前線を預かる者にふさわしいその立ち姿は、常に火薬と血の匂いを伴っていた。


 最後に、第一近衛隊長──セリア・ユーヴェル。


 シェリルの親衛を一身に預かる若き女騎士。礼儀と忠義の鎧に包まれたような彼女は、主の到着と共に自然に膝をついた。


 この四人。軍の策を描き、金と兵を動かし、剣を振るい、そして主を守る。


 彼らこそが、今この野営地──この辺境そのものを支える柱である。


 シェリルは天幕中央の椅子に腰を下ろすと、ゆっくりと手袋を外した。


 沈黙を破るように、淡く声が落ちる。


「……待たせたな、皆の者。掃き残しの処理に、少々手間取った」


 剣呑な皮肉を混ぜたその一言に、ミーナがすぐさま机の上に巻物を広げた。


 彼女が用意したのは補給路と接触報告のまとめであり、軍政を預かる者ならではの緻密な記録だった。


「こちら、補給物資の痕跡です。干し肉と薬草、いずれも騎士団の刻印入り。……正式な軍流通に通じた補給と見て、まず間違いありません」


「ふん、どうりで妙に傷の癒えが早かったわけだ」


 レオニスが腕を組みながら唸る。戦場を肌で読む彼にとって、こうした異変は感覚でわかるのだ。


 それに被せてセリアが、表情を崩さぬまま淡々と口を開く。


「第一観測斥候が、東の谷間に“誘導された形跡あり”との報。……盗賊……いえ、盗賊もどきの正規の抜け道として扱われていた可能性がございます」


 彼女の言葉は常に簡潔で、主を危機に晒す要素を最も早く提示するよう訓練されていた。


 それは、守護者としての職責を担う者の習いでもある。


 シェリルは視線を地図へ落としたまま、ゆるやかに息を吐いた。


 セリアの報告により、最後の一点が確信へと変わった。


 地形、補給、戦力、そして逃走経路。すべてが“あまりにも滑らかに”つながりすぎている。


 偶然ではない。いや、偶然にしておくにはあまりにも都合が良すぎた。


 誰かが用意し、誰かが整え、そして自分たちは――その意図すら知らされぬまま、その“道筋”の上を歩かされた。


 「……整いすぎているな」


 椅子に背を預けることなく、まっすぐに姿勢を保ったまま、シェリルは静かに言葉を落とした。


 その声に、天幕の空気がわずかに収縮する。


 「盗賊共の逃走を助ける地形に、補給の裏付け。誘導まであれば、あとは“追う者”がいれば筋書きは完成する。──我々は、その“役”を与えられていたというわけだ」


 ガラインがわずかに眉を動かす。その表情には否定も驚きもない。ただ、事実を受け止める沈黙がある。


 「……貴族派ですか」


 ミーナが呟くように言い、手元の巻物を静かに一枚めくった。


 視線は淡々としているが、その瞳の奥には明らかな警戒が宿っている。


 「補給記録に空白があります。しかも、不自然に繰り返される“曖昧な署名”。発注元が別なのに、筆跡はすべて酷似している」


 「ご丁寧に、共通の帳簿も使われてる。……まるで“見つかるように”仕掛けられていたみてぇだ」


 そう続けたのはレオニスだった。語気は荒げずとも、その拳は机の下で小さく鳴っている。


 「……我らが“駒”にされている可能性は?」


 沈黙を割ったのは、再びセリアだった。


 その言葉に、シェリルはわずかに口元を動かす。


 笑みともつかぬ、曖昧な弧。けれどそれは、全員にとって確かな“答え”だった。


 曖昧な笑みを浮かべたまま、シェリルは卓上の地図から視線を外さなかった。


 だが、誰よりも早くその表情の意味を読み取ったのは、他でもないミーナだった。


 無言のまま立ち上がった彼女は、天幕の隅に据えられた簡素な木台から脚付きの銀杯を手に取ると、瓶の封を静かに外す。


 注がれるのは、香草を漬け込んだ深紅のワイン。湯気とともに立ちのぼる柔らかな芳香が、張り詰めていた空気にわずかなゆるみを与えた。


 「お疲れでしょう、シェリル様。少し、温まります」


 控えめな声音とともに差し出された杯を、シェリルは手袋を外したままの指で受け取る。


 口をつけると、温かな液体が舌の上を滑り、苦味の奥に隠れた微かな甘みが喉を伝っていった。


 重くなりかけていた思考の輪郭が、ほのかに和らいでゆく。


 静かに杯を置いたそのとき、ミーナが視線を戻さぬまま、ぽつりと呟いた。


 「第二王子……あの縁談をお断りなさった代償が、こうも大きく出るとは思いませでしたね……余程癪に障ったのでしょう」


 乾いた声だった。だが、そこに含まれた温度は、冷ややかでも痛烈でもなく──ただ、長年付き従ってきた者の、飾らぬ本音だった。


 「……王族に非ずば、ただの戯言として笑い飛ばしていたところだ」


 シェリルは杯の縁に指を添えたまま、淡々とそう返す。


 侮蔑ではない。皮肉ですらない。ただ、事実を述べただけのように聞こえるその口調が、むしろ一同の胸をざわつかせた。


 「……不敬でございますよ、シェリル様」


 ガラインが低く苦言を呈する。


 声音にとがったところはなかったが、その言葉の裏には、静かな忠誠と、主の軽率を良しとしない律があった。


 「見め麗しく文武に優れたシェリル様には、もっと真にふさわしき方でなければ」


 セリアが真っ直ぐに言葉を継ぐ。


 その瞳に揺らぎはない。彼女にとっては、皮肉ではなく、信念の言葉だった。


 「フッ……そんな人物、この大陸にいるんですかね」


 レオニスが溜息まじりに肩をすくめる。


 場の空気を崩さぬよう意図された軽口だが、そこに込められた“現実”は、誰の胸にも重かった。


 「いたら紹介してほしいものだ。できれば、あの愚王子より多少は見どころのある男であってほしいものだな」


 シェリルは静かに、だが確かにそう言った。


 その声に棘はなかったが、冷笑にも似た切れ味が、天幕の隅々まで沁み渡る。


 「……またそんなことをおっしゃって。そのせいでいき遅れても、私は知りませんからね?」


 ミーナがわずかに眉を寄せながら、帳簿の巻を整えた。


 小言のようでいて、親しみの滲む声音だった。


 「そうだな……その時は──出奔して冒険者にでもなるか?」


 ぽつりと落とされたその一言に、場の空気が揺れ笑みがこぼれた。


 「その折には、どこまでもお供いたします」


 セリアがすかさず、真顔でそう返した。


 場の誰もが一瞬だけ目を見張ったが、当の彼女は至って真剣だった。


 沈黙が落ちる。


 そして──シェリルはふっと、口元をゆるめた。


 笑ったのは、それが今日初めての“安堵”だったからか。


 あるいは、自身の運命をすでにどこかで受け入れていたからか。


 誰にも分からない。けれど、少なくともその瞬間だけは、彼女はひとりの若き女として──笑っていた。


 滅多に見せない本音の笑みが、ほんの一瞬だけ灯って──すぐに消える。


 椅子の背にもたれず、まっすぐに背筋を正したまま、シェリルは空気を静かに引き締めた。


 「……なにはともあれ証拠が足りない。だが、動く準備は整えておけ」


 その言葉には、皮肉も感情もなかった。


 ただ、次に進む者の口から発される、冷徹な現実だけがあった。


 場に再び緊張が戻る。


 ミーナが巻物の端を押さえたまま、手元を一瞥して言った。


 「この件……王都に報告する前に、“裏”を押さえるべきですね。根拠なき告発は、相手に言い逃れを与えます」


 それは忠告でも助言でもない。


 シェリルが当然のように考えていた判断を、隣に立つ者の口から言葉として補完しただけだった。


 「このまま行けば……」


 地図を睨んでいたガラインが、ぽつりと呟く。


 その言葉を、シェリルが自然に引き継いだ。


 「ああ。決戦は──ペオル村で間違いないだろうな」


 それが単なる予測ではなく、意志を伴った“決定”であることを、誰もが察していた。


 天幕の内に、再び静けさが満ちる。


 そしてその静寂の中で、シェリルは視線を外へ向けた。


 ──天幕の開口部、その隙間からちらちらと揺れる焚火の残光が見える。


 風が吹き込む気配に、肩の鎧が小さく鳴った。


 そしてその音に背を押されるように、彼女はゆっくりと目を閉じた。


 「……父上。私は、貴方の背に──どこまで近づけているでしょうか」


 小さく呟いた問いは風に紛れ、誰の耳にも届かない。


 だが、その言葉は確かに、己の内に刻まれていた。


 外では、火が静かに揺れている。


 空は陰り、辺境の空はますます暗く、そして深く──音もなく広がっていた。

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