第7話 これが俗にいう「なんかやっちゃいました?」ってやつですね……?
湯から立ち上る朝霧のような湯気が、トシオの身体を包み込んでいた。温泉との思いがけない出会い、そして恐るべき魔物「森の暴虐者」ディアルガとの戦い──まるで夢のような出来事が、あまりにも短時間のうちに彼の周りで展開していた。
トシオは丁寧に衣服を整え、名刺ホルダーをそっとポケットに収めると、湿った髪を掻き上げながら帰路につこうとした。異世界の太陽が木々の間から差し込み、彼の影を地面に長く伸ばしている。
「さて、参りましょうか」
一人呟いて、森の小道へと足を踏み出した瞬間──不意に背後から、かすかな気配を感じた。振り返ったトシオの目に映ったのは、思いもよらぬ光景だった。まるで小学校の遠足列のように整然と並んだハイエルフの一団。銀髪のアルウェンを先頭に、十数名の美女たちが無言でトシオの後ろに続いている。全員が、食い入るように彼を見つめていた。
時間が止まったような沈黙。
「え、あの……皆さま?」
トシオは右手をぼさぼさの髪に突っ込み、左手で思わず胸元を隠すような仕草をした。
「え?帰り道が同じとかですか……? というか、ついて……きてますよね?」
トシオの言葉が森に響き、一瞬の間。緑の葉が風にそよいだだけだった。
アルウェンが一歩前に出て、まるで当然のことのように頷いた。
「ええ。あなたに確認すべきことがありまして……」
その青い瞳には断る余地を与えない威厳があり、口調には高貴な血筋ゆえの絶対的な自信が満ちていた。まさにエルフを束ねる者とした佇まいである。
「は、はあ……」
トシオは口をパクパクさせた後、観念したようにため息をつき、肩を落とした。
「──わかりました。では、こちらへ……」
彼は仕方なく、森の小道を先導することにした。背中に十数の視線を浴びながら歩くのは、まるで新入社員時代にやらされた朝の朝礼のようだ。不安と緊張で喉がカラカラになる。
ふと振り返ると──ディアルガ戦で助けた少女が、頬を明らかに赤らめながらトシオを見つめているのに気がついた。目が合うや否や彼女は慌てて視線を逸らしたが、先端だけが銀色に光る黒い耳がぴくりと動いたのを見逃さなかった。
(こういう視線にはなれませんね……ええ、心臓に悪うございます……)
ひたすら目線を地面に落とし森の小道を進みながら、彼は密かに溜息をついた。いつもの帰り道が、こうも大勢の美しい耳長族に囲まれるとは──まさに異世界ならではの展開だった。
やがて鬱蒼とした森が開け、小高い丘の斜面に一軒の家が姿を現した。
「到着でござい──」
振り返ったトシオの言葉が途中で止まる。エルフたちの表情が、見るからに変わっていた。
「これは……」
アルウェンの声が震える。
大きな切妻屋根、煙突、磨き上げられた木製の外壁に石造りの基礎。庭には薬草と季節の野菜が整然と植えられ、垣根には野の花が咲き乱れている。まさに絵本から抜け出したような"異世界の別荘"。
「神殿……いや、聖域……?」
アルウェンの言葉が、風に乗って静かに広がる。
「風の流れすら……制御されている……」
「精霊の囁きが……聞こえる……」
次々と呟きが重なり、やがて口々に驚きの声を挙げるエルフたち。いつの間にか彼女たちは家の周りを取り囲み、まるで神殿を巡礼するかのように手を伸ばし、壁に触れ、空気を感じ取っていた。
トシオはただ呆然と、持ち前の髭を撫でながら、その様子を眺めていた。
(名刺スキル──大工と建築士の合わせ技ですが……ええ、そこまで驚かれるとは……)
「いえ、これはただの素材屋の住まいでして……」
丁寧に配置された石、木と石を組み合わせた構造、静謐な気配を放つ庭の佇まい──彼にとっては週末の趣味の成果物にすぎなかったが、どうやらエルフたちには別格の存在に映るらしい。
「どうぞ、お入りください」
トシオは玄関扉を開け、一同を中へと招き入れた。しかし、彼の言葉も届かぬほどに、彼女たちはすでに興奮の渦に飲まれていた。
室内に足を踏み入れたエルフたちの驚きは、さらに大きくなった。
「風と光が……完璧に調和している……」
「壁に宿った木の精が……まだ生きている……」
「ここは……精霊歌の中にある伝説の『木精庵』のような……」
トシオはそんな彼女たちの間をすり抜け、台所へと向かった。どうやら一筋縄ではいかない状況になりそうだ。
「せっかくの初めてのお客様です。お茶でも淹れましょうかね」
言いながら、彼は手早く茶葉を摘み、湯を沸かし始めた。やがてテーブルには、湯気を立てる香り高い茶と、手作りの煎餅、そして甜菜の根から作った砂糖で焼き上げたクッキーが並べられた。
「これは……何でしょう?」
恐る恐る指を伸ばした少女の手が、一枚の煎餅を摘み上げる。その仕草は、まるで宝物に触れるかのように慎重だった。
パリッ、と一口。
「っ!!」
少女の目が見開かれる。その耳がピンと立った。
「これ、あまじょっぱい!?」
その声に、他の者たちも次々と手を伸ばした。
「こ、これは甘い!?」
「しょっぱいのに甘い!」
「煎ってある……!」
「砂糖って王族しか手に入らないと聞いておりますが!?」
部屋中が興奮の声に包まれ、エルフたちの耳がぴこぴこと踊るように動いていた。
「あ、こちらはトウキビで作ったお茶でございます。どうぞ……」
トシオが差し出すカップを受け取り、一口すすると──
「これもまた別の甘さ!!」
「生命の輝きを感じる……ッ!」
少女たちは感動しすぎて、互いの肩を叩き合っていた。まるで蜜を初めて口にした蜂の群れのように、部屋中が喜びの声と興奮で満ちている。
(どうやら、彼女たちの普段の食事は、かなり質素なようですね……)
トシオは思わず微笑みながら、彼女たちの様子を見つめていた。
「あれは何ですか?」
窓の外を指差す少女の視線の先には、庭の端に立つ小さな鳥居と、簡素な祠があった。トシオが懐かしさから作った日本風の装飾だ。
「ああ、あれですか。あれは……」
言い終わる前に、エルフたちは嵐のように外へ飛び出していた。少女たちが鳥居の前に集まり、興奮した様子で話し合っている。
「これは神殿の門?」
「霊気が漂っている……」
「精霊様への入り口……?」
「通ったらご精霊様の祝福があるのでは?」
少女の一人が恐る恐る手を伸ばし、鳥居に触れる。何も起きないのを確認すると、今度は勇気を出してくぐってみた。
シーン、と静寂が流れる。
少女はその場に立ち尽くし、全身を巡る感覚に集中しているようだった。
「ど、どうですか?」別の少女が小声で尋ねる。
「身が……清められた気がします……」
その言葉に、他の者たちも次々とくぐり始めた。
トシオはやや離れた縁側から、静かにその様子を見ていた。
(ええ、完全に気のせいでございます……それ、ただの木で作った飾りなのですが……)
彼にとっては郷愁を誘う装飾に過ぎなかったが、彼女たちにとっては何か神聖なものに映るようだった。
祠に続く小道をたどり、裏手に回ったエルフたちは、そこにある小さな小屋を発見した。
「ここは一体……?」
木と石の融合で作られた"清潔すぎるトイレ"に、また彼女たちは驚きの声を上げた。トシオ特製の小型スライム排水処理システムのおかげで、そこには臭気がなかった。
「これは浄化の祭壇では!?」
「いや、これは"地母精"への懺悔室……!」
「座り込み、自らの過ちを悔い改める場所なのでしょう」
「水の精霊を敬う浄化の間!」
彼女たちの間で激論が交わされる中、アルウェンがトシオに近づいてきた。彼女の目は輝き、声には畏敬の念が満ちていた。
「大地の精霊に祈る空間をここまで完璧に……トシオ様はもしや精霊神官では!?」
トシオは小さく咳払いをして、できるだけ丁寧に答えた。
「いえ……何度も言いますが、ただの、素材屋でして……」
言いにくそうに言葉を継ぐ。
「ちなみにそこはトイレでございます」
一瞬の沈黙。
少女たちが口々に「えっ」「は?」「トイ……レ?」と呟く。
一瞬の沈黙の後、恥ずかしさに赤く染まる彼女たちの顔を見て、トシオは慌てて付け加えた。
「いや、その、文化の違いでございますので……ええ、むしろ私の方こそ説明不足で申し訳ございません」
場の空気が一変してしまった。
トシオは何とか状況を立て直そうと、彼女たちを家の横にある畑へと案内した。
「こ、こちらに少々、野菜を育てておりまして」
緑豊かな畝には様々な野菜が美しく育っていた。人参、大根、キャベツ、唐辛子──村から購入した種から育てた家庭菜園だった。
しかし、エルフたちの表情が突然こわばった。彼女たちは言葉を失ったように、互いの顔を見合わせる。
「……外の種が……育っている……」
アルウェンが小さな声でつぶやいた。まるで目の前の光景が信じられないかのようだった。
「なぜだ……? この禁忌地の土壌は特殊な魔力を帯びており、外界の生命を拒む性質がある。かつて私たちも幾度となく植物を育てようとしたが、芽すら出なかったのに……」
彼女の言葉に、少女たちも静かに頷く。一人が恐る恐る葉に触れた。
「葉も実も健やかです。むしろ他で見るよりも元気に見える」
アルウェンの瞳が輝きを増した。
「これは……トシオ様が大地の精霊に愛されている証拠です!御身の存在が禁忌地の拒絶を和らげているのでしょう」
彼女の声には確信があった。別の少女が小さく囁く。
「じゃあここは、禁忌地唯一無二の"再生の大地"なのでは……?」
(初耳ですね……確かに、作物の育ちはいいですが、それがこんなに特別なことだったとは……アルテシミア様のご加護でしょうか、それとも名刺の力?)
トシオは自分の手のひらを見つめ、考え込んだ。
エルフたちが家の外観や庭を散策する間に、微かに鳥の鳴き声も夕方特有の調子に変わりつつあった。高い枝から聞こえていた囀りは、今や帰り支度を急ぐような短い声に。森全体が、一日の終わりを告げる準備を始めていた。
トシオは何度かお茶の湯を沸かし直し、エルフたちに供し続けた。驚きと発見の声が一段落し、彼女たちの動きもゆっくりとなった頃、西の空が朱に染まり始めていた。
トシオはアルウェンを室内に招き入れ、向かい合ってテーブルに座った。他の少女たちは庭でクッキーと煎餅の争奪戦を繰り広げていた。
アルウェンはトシオの顔をまっすぐに見つめ、静かに頭を下げる。
「あの場で助けていただいたこと、決して忘れません」
その声は真摯で、トシオは少し居心地悪そうに手を振った。
「いえいえ、ええ、たまたま……旅は道連れ世は情け、ともいいますからね」
トシオのそのゆったりとした口調と飾り気のない応対に、アルウェンの顔から緊張が解けていくのが見てとれた。彼女の背筋がわずかに緩み、肩の角度が柔らかくなる。
「お茶、もう一杯いかがですか?」
トシオが差し出すと、彼女は静かに頷いた。
竹細工の湯飲みから立ち上る湯気が、二人の間を優しく包む。
「トシオ様」
アルウェンは湯飲みを両手で包むようにして持ち、ゆっくりと口を開いた。
「私たちのような者が、このような場所に居合わせたのは偶然ではないのかもしれません……」
「それは……どういう意味でしょう?」
彼女は少し目を伏せ、静かな声で語り始めた。
「私たちは、毎年 萌巡——春の芽吹きの時に『居を移す』習わしがあります」
トシオは興味深そうに頷いた。
「引っ越しのようなものですか?」
「ええ。表向きは先祖からの伝統、精霊の導きに従う儀式と称していますが——」
彼女は少し苦笑した。その表情があまりにも人間的で、トシオは思わず見入ってしまう。
「実のところは、単なる防衛策です。一か所に長く留まれば留まるほど、魔物は我々の気配を察知し、集まってくる。だから移動し続ける。暖かい季節のうちに次の住処を見つけ、寒い時期を安全に過ごすのです」
彼女は窓の外の少女たちを見やり、声を落とした。
「私は彼女たちの導き手。守るべき者たちを、安全な場所へ連れていかねばならない」
トシオは静かに頷いた。その責任の重さが、彼女の言葉の端々から伝わってくる。
「ですが、今回は違った」
アルウェンの眉間にうっすらと皺が寄る。
「どういうことでしょうか?」
「予定よりも早く、拠点を捨てざるを得なかったのです」
彼女の声にわずかな怒りと悔しさが混じる。その感情の揺らぎは、彼女らしくないものだったが、それだけ事態が深刻だったことの証だろう。
「季節の変わり目を待たず、荷物もろくに纏められないまま……私は彼女たちを危険に晒してしまった」
「何があったのですか?」
トシオが静かに尋ねる。
アルウェンは窓の外の空を見つめ、言葉を選ぶように間を置いた。
「……魔物が急増したのです。それも突然に」
彼女の瞳に、恐怖の色が蘇る。
「これまでの百年の記録にもないほどの数が、しかも通常よりも気が立っていて凶暴化して押し寄せてきた。まるで……」
「まるで?」
「まるで何かから逃げてきたかのようでした」
その言葉を聞いた瞬間、トシオの脳裏に鮮明な記憶が蘇った。
(あ……)
インフェリアルに降り立った初期の頃——。
夜明けの森に響く弦の音。名刺の力を試すため、ひたすらこの辺りの魔物を狩った日々。朝も昼も夜も、あらゆる時間帯で。「狩人」「剣士」「罠師」「弓術師」……そのたびに名刺を入れ替え、戦い方を変え、力の使い方を覚えるために、彼は狩り続けた。狩って狩って狩りまくった。
その結果——最近は少し遠出をしないと魔物に出くわさなくなった。
(……あ~うん、なるほどなるほど)
トシオはようやく、この辺りで魔物が極端に少なくなった理由を理解した。彼の周辺に魔物が寄り付かなくなり、彼らは仕方なく別の場所へと餌場や縄張りを移した。その行き先こそが——
(ああ、これはあれですね、俗にいう、「私なんかやっちゃいました?」ってやつですね、ええ……)
胸の奥が締め付けられるような罪悪感に包まれ、トシオは誤魔化すようにお茶をすすった。湯飲みの縁に唇を触れたまま、冷や汗を浮かべアルウェンの方をちらりと見る。
彼女は両手を膝の上に置き、真剣な面持ちで考え込んでいた。
「きっと何か、魔物たちの脅威となる存在が現れたのでしょう」
その言葉を聞いて、トシオは思わず茶をむせそうになった。唇を閉じ、鼻から息をこらえる。
「強大な力を持つ魔物か、あるいは……人知を超えた何かが……」
アルウェンは静かに続けた。その口調には確信があり、それだけに余計にトシオの心に突き刺さる。
「魔物たちの生息圏を根本から覆すような、絶対的な力の存在——」
トシオは思わず茶を吹いてしまい、慌てて口元を押さえた。しかし間に合わず、テーブルの上に茶液が飛び散る。
「トシオ様!?」
アルウェンは驚いて立ち上がり、トシオの元へ駆け寄った。彼の背中を優しく叩きながら、心配そうに顔を覗き込む。
唇を必死に拭いながら、トシオは弁解した。アルウェンの美しい顔があまりに近く、その距離にも戸惑いを感じる。
「い、いえ、なんでもございません……ただ、熱かっただけで……」
トシオは深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとした。何とか平静を装い、茶を拭き取る。アルウェンは心配そうに見つめたまま、ゆっくりと自分の席に戻った。
アルウェンが静かに吐息をもらし、視線を落とす。その表情には、これまで見せたことのない弱さが浮かんでいた。
「……実を言えば、このまま行くあてもなく」
彼女の声は、風に揺れる葉のように繊細だった。
「そこでその……恥を忍んで、お、お願いがございます!」
アルウェンはテーブルに両手をつき、トシオの前でかしこまって頭を下げた。その長い銀髪が、テーブルの上に滝のように流れ落ちる。
「どうか、この地に住まわせていただけませんでしょうか?」
彼女の言葉には、自らの誇りを捨てるような覚悟が滲んでいた。
「こ、ここにですか!?」
アルウェンは押し黙ったまま、更に頭を深く下げた。
トシオは窓の外に目をやった。庭では少女たちが楽しげに煎餅を食べながら笑い合っている。束の間の安らぎを味わう彼女たちの笑顔が、夕陽に照らされて輝いて見えた。
(安息の日々が……いや、私が無意識のうちに彼女たちをここへ追いやったようなものか……)
責任感と庇護欲が胸の内で膨らみ、トシオは断りきれない気持ちになっていた。
「ふう……ええ……まあ、住まいなど相談させていただければ……」
その言葉を聞いて、アルウェンの顔が一瞬で明るくなった。まるで陽の光が差し込んだかのように、彼女の目が輝きを取り戻す。
「本当ですか?」
トシオは照れくさそうに頷いた。アルウェンは喜びのあまり思わず立ち上がり、窓の外の少女たちに向かって合図を送る。
「やったー!!」
「ここに住めるのですか!?」
「これで明日も煎餅が食べられる!」
「クッキーも!」
窓の外から歓声が次々と上がり、少女たちが嬉しそうに飛び跳ねる。その様子はまるで桜の木の下で踊る妖精のようだった。
トシオは思わず苦笑しながら、頭をかいた。
(やれやれ……この流されやすい性格、なんとかせねばなりませんね……)
そう呟きながらも、彼の心は不思議と温かくなっていた。
――こうして、禁忌地の小さな家に、まったく新しい物語が始まろうとしていた。




