9、準備
婚約が決まってから、あっという間に一ヶ月が過ぎた。
結婚式まで、あと五ヶ月。
その間に、実家への挨拶や、結婚式の準備、結婚後の生活についてを決めなくてはならない。
「……長いと思ったけど、時間が足りない……」
働きながらだと、ここまで早く時間が過ぎるとは。
職場の机に張り付いて書類を捌いていたアディスは、小さく溜息をついた。
いつの間にか消えてしまった一ヶ月に、焦りを感じていた。
特に問題なのは、挙式の準備。
半年後に結婚するという前提の婚約期間だ。
結婚するからには貴族の男としては当然、結婚式を挙げたい。婚姻届を出してから式の準備をすることもできるだろうが、入籍から三ヶ月以内には式をあげるのが一般的だ。どちらにせよ、今から準備しなければ到底間に合わない。
式場探しに、衣装や結婚指輪の用意、当日招く客人たちのリストアップ。
何ひとつ妥協したくないのに、五ヶ月では全く時間が足りない。
アディスはちらりと自分の左腕を見た。
銀色の針が時を刻む腕時計は、もらった日から毎日つけている。
(……ダメだ。まだにやけそうになる……)
口元が緩みそうになって、アディスは慌てて片手で口元を隠した。
よくよく聞いてみれば、全部彼女の要望で自分のためだけに作られたオーダーメイドの一品で。
自分のためを思って作ってくれたものを、いつも身につけていられるなんて最高すぎる。
しれっと、とんでもないことを返してくるラゼには、本当に敵わない。
(……今週は、うちに来るのか……。ここ最近ほぼ毎週会ってるな……)
ラゼがセントリオール皇立魔法学園を退学してから、彼女と会う機会はめっきり減った。
今になって、毎日教室で会えていたことが奇跡のように思える。
彼女の仕事が仕事だけに、元気にしているのかは常に気になって。一歩踏み出して連絡先を取り付けることに成功してからは、定期的にお菓子を送って近況を確認していた。
(一緒に住むことになったら、家はどうするのがいいんだろう。俺の実家じゃ、肩身が狭いかもしれない……)
ラゼの家の住所は知っている。定期的に手紙を出しているから。
訪ねることは自重しているが、市井の住宅街であることは把握していた。
(家を買うことも考えないとか……。いい土地、まだ残ってるかな)
残念ながら自分の父親はまだまだ現役。隠居はしてもらえないはずだ。
ひとりで突っ走りすぎているかもしれないが、まあ、リストアップくらいはしておいてもいいだろう。
「ア、アディスさま……」
「…………はい」
「よかったら、お茶を淹れたので召し上がってください!」
「……ありがとうございます」
考えに更けていると同僚の女性に声をかけられる。
部署にいる時は、必ず誰かしらが気を利かせてお茶や差し入れを持って来てくれるのだが、裏で女性陣に噂されているのを嫌でも自覚しているので気まずいものだ。
もちろん、そう思っていることは顔には出さない。
彼女たちの厚意を無碍にするのは、紳士ではないから。
「あ、あの。……その腕時計、すごく素敵ですね!」
「――ああ、これですか……」
カップを机におくと、話題を振られて。
アディスは初めて腕時計について指摘され、内心どきりとした。
「見たことないデザインですが、洗練されていてアディス様にぴったりです。どちらで手に入れられたものなんですか……?」
「……人にもらったもので。特注品らしいんです」
「えっ……。そ、そうなんですね?」
彼女は目を見張った後、パチパチ瞬く。
「装飾品には興味がないって言ってたくせに、まさかこんな品を用意してくれるとは思っていなくて、俺ももらった時は驚きました」
「へぇ……。とても親密な方なんですね……?」
「そうですね。今、俺にとって一番優先したい大事な人です」
探りを入れられているのは察していた。
これまではやんわり流していたが、それもやめよう。
自分にはもう心に決めた人がいて、他になびくことがないことを、これからどんどん周囲には分かってもらえればいい。
……でも、それはラゼの逃げ場をなくすのと同じだ。
だから、明言はできない。結婚して式を挙げて、彼女が自分の唯一だと言える許しを得るまでは。
「紅茶、ありがとうございます。ひと息入れたら仕事に戻りますね」
「……………………え。あ……は、はい……」
愕然と立ち尽くした同僚を、笑顔で送り出す。
(……また、ラゼが淹れてくれたお茶が飲みたいなぁ)
机に残されたカップを見て、アディスはそう思わずにはいられない。
こういう時だけは学生時代に戻りたいと思うのだが、今はあのラゼが婚約者だ。戻りたくない。
絶対に叶わないと思い込ませていた彼女との婚約が果たされたというのに、欲ばかりが深くなる。
浮かれてはいけないと言い聞かせても、どうにも抑えがきかなかった。
◆
「どう!? この服!! もっと落ち着いてた方がいいかしら!? それともやっぱり、こっちの緑のドレス??」
人は自分以上に浮かれている人を見ると、冷静になるものだ。
アディスは実家ではしゃいでいる母親を見て沈黙する。
流石に、自分はここまで浮かれていないはずだ。
「ねえ、アディス。あなたはどう思う?」
「…………好きな服でいいんじゃない? 今更張り切って着飾るような仲でもないんでしょう……」
挨拶に来ると決まってから、バネッサは見ているこちらが引くくらいに喜んでもてなしの準備をしている。
「何を言っているの!? それとこれとは話が別よ!狼牙ちゃんが娘になるんですもの。義母として受け入れてもらうためにも、気合を入れて準備しないと」
「…………」
気のせいだろうか。
今、バネッサの発言にものすごい違和感を覚えたのだが?
「甘いものが好きなのは知っているけれど、何か苦手な食べ物はなかったかしら……。狼牙ちゃんはとても食べっぷりがいいから、見ているこっちも幸せになれるのよね。あの小さい口をもぐもぐさせているのが、子リスちゃんみたいで本当に可愛いの。信じられる? あのプリティさで、本業は軍人だなんて。そんなの反則よ。形式張らない食事の席の方がリラックスして頬を膨らませてくれるから、シェフに相談してコースじゃなくて、一度に色んな種類の料理を並べてもらおうと思っているの。あ! 手ぶらで返させる訳にはいかないから、お土産も準備するつもりよ。ひとり暮らしは長いって聞いているし、食べるのが好きとも知っているけれど、ちゃんと休めているのかしら……。いつでもうちに来てくれてもいいように部屋をひとつ改修しているの。これも気に入ってもらえるか不安だわ。今度来たらチェックしてもらわないと。表情を隠すのがとても上手だから、本音を見極めるのは至難の業ね。私ったらひとりで盛り上がってちゃって、お泊まり用のお洋服も買っちゃったんだけれど、サイズは本当に合っているのかしら? 小さ過ぎて心配よ。そうよ!! 今度一緒にお買い物にいけるようにお願いしないと! きゃー! 楽しみ!! 演劇とか一緒に見に行って、お茶したいわ!! それに――」
「――ちょっと、そこまでにしてもらっても??」
怒涛の勢いで話を進めるバネッサに、アディスは待ったをかけた。
薄々勘づいてはいたが、今ので確信に変わった。
この人は、自分が想像しているよりも遥かにラゼ・シェス・オーファンを慕っている。
「…………彼女は結婚の挨拶に来てくれる訳であって、貴女の娘になるのとは話が違うよ……」
「同じことだけれど??」
真顔で「何を言ってるんだコイツ」みたいな即答をされるが、こっちが言いたい。――何言ってるんだ、この人。
「狼牙ちゃんは私の娘になるのよ。もう、う〜〜〜んと甘やかすって決めているんだから」
私の邪魔をするなら容赦はしない――。
先ほどまで浮かれていた声のトーンとは打って変わって、少し低くなった「ガチ」の声がそう語っている。
そういえばラゼとの婚約が決まったことについては、自分のことのように「よかったわね」と喜んでいたが、「おめでとう」とは一言も言われていない気がする。
(もしかして、俺と結婚してラゼが義娘になることについてしか見えてないんじゃ――)
思わぬ伏兵が現れてしまった。
このままでは、ラゼと会う時間を母親に独占されてしまいそうである。
「――め、だよ」
「――? 何か言ったかしら、アディス?」
「……ダメだよ。……それは……俺の役目だから」
バネッサはぽかんと口を開けて目を丸くした。
そして彼女はアディスが何を言いたいのか理解して、徐々に口角をあげる。
「あらあら。アディス、あなた自覚があったの?」
「…………。婚約者を大事にするのは当然でしょ……」
「ふうん。なるほど……?」
目が弧を描いて笑っている。
母親のその視線に、アディスは今すぐこの場を逃げ出したくなった。こういう時の笑い方は父と似ているのが気に食わない……。
彼女のいう「自覚」が何についてなのか、言葉にせずとも分かるから居心地が悪かった。
「まあ、それはそれね。私は私で狼牙ちゃんを大事にしたいの。だから、アディスはアディスで頑張りなさいな」
「言われなくても、そのつもりだよ」
母親に婚約者を独占されるなんて、そんな情けないことだけにはしたくない。
バネッサがどれだけラゼを大事に思っていようが、自分の方がそれよりもっと彼女を想っていることは負けたくないし負けられない。
「ところで、アディス」
「……なに?」
「その腕時計、狼牙ちゃんから貰ったんでしょう」
「――。そ、そう、だけど……」
今日はよく腕時計の話になる。
アディスは少し警戒しながら、バネッサに答えた。
「よかったわね……。流石、狼牙ちゃんだわ。あなたのことちゃんと大切にしてくれてるのね」
愛おしそうな眼差しが腕時計に注がれる。
――そんなことは、自分が一番分かっている。
彼女が彼女なりに自分のことを考えて、婚約者として向き合ってくれていることくらい、もう十分すぎるほど感じている。
だが、それを実際に他人から言われてみると、アディスの脳は茹で上がりそうだった。
「せいぜい愛想を尽かされないように頑張らないとね。お互いに」
「………………分かってるよ……」
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