4、婚約
「――こ、婚約指輪……」
「いらないとは言わせないよ」
アディスに圧を込めて微笑まれる。
曲がりなりにも貴族同士の婚約だ。
適当に済ませてもらって構わないのだが、アディスの体裁を思えば、それは許されない。
「一緒に買いに行く? それとも俺が選んで平気?」
「……あまり、装飾品には詳しくなくて……。強いて言うならシンプルなものだと……」
「分かった。気に入ってもらえるように準備するよ」
ふわりと綻んで、アディスは腰を上げた。
アクセサリーにこだわりや興味がないことも、彼にはお見通しらしい。
「指輪のサイズが知りたいんだけど。左手、貸してくれる?」
「……ハイ……」
言われるがまま、自分の隣に座ったアディスに左手を差し出す。
アディスの大きな手が、自分の手を掬ったかと思えば、シュルリと布が擦れる音がして。
風に乗って、アップルパイの箱を止めていた赤いリボンが、彼の手元に流れてくる。
「指輪、仕事の邪魔になるかな」
「……魔石狩りの時は汚れるので、外したいです……」
「じゃあ、チェーンも用意してもらおう」
アディスは話しながら、ラゼの薬指にリボンを通す。
「キツくない?」
「……はい」
赤いリボンに跡をつけると、彼はそれを懐にしまった。
「本当は婚姻届けも出しておきたいところなんだけど……」
ちらりと銀色の瞳が窺ってくる。
彼が問題ないなら籍を入れてもいいのだが、ラゼは答えに詰まった。
(……他国の姫様とは絶対に結婚したくないんだな……)
自分と結婚してまで阻止したいのには、どんな理由があるのだろうか。
……何にせよ、彼の邪魔になることだけはしたくない。
ちゃんと貴族令嬢の嗜みを頭に入れておいたほうが良さそうだ。
「……時間をいただけますか。一応、貴族令嬢としての作法はひと通り学んでますが、最近の流行とかまでは追いきれていなくて」
「流行?」
アディスはきょとんと首を傾げる。
「社交界に出るなら、多少の備えはないと」
「そんなの気にしなくていいよ。絶対に俺がフォローするし、何より国の英雄を慮ることもできない方が無礼だ」
それを聞いて、ラゼは何も言い返せなかった。
彼が自分を尊重してくれていることが、ありありと伝わってくる。
学生時代から気の周る人だと思っていたが、それが自分にどばどば注がれている感覚だ。
「結婚するのは時期尚早かな。君の言う通り、少し時間を取ろう。……とりあえず……三ヶ月……いや半年でどう?」
「はい。十分です」
平民としてのラゼを知られているとはいえ、結婚となればもっと互いを知る必要があるだろう。
その半年で、自分がどんな人間なのか、アディスには改めて知ってもらわないといけない。
縁談を断られなかったからには、彼もこちらに多少の好感は持ってくれていると思うが、それはあくまで友人としてのはずだ。
本当に結婚することになったら、友愛だけではいられないだろう。
(アディス様にも、女性の好みはあるはずだし……)
一緒にいるのには困らなくても、生理的に無理かもしれない。
(……考えすぎかな。まあ、でも、そういうことも大事だよね……。アディス様には継ぐべき家があるんだから)
正直なところ、本当に結婚できるとは思っていない。
仮に結婚できたとしても、上手くいくとも思っていない。利害の一致だけの関係なんて、いつかは破綻するだろう。冷め切った家庭を育むのだけは御免だ。だったら、一生ひとりでいい。
アディスも今は焦っているだけで、実際に自分と結婚するかもしれないとなれば、考え直すはずだった。
「今度、ご両親へ挨拶に行かせてもらってもいいですか?」
「――っえ、来てくれるの?」
アディスは目をまたたく。
「大事なご子息と婚約させてもらうんですから当然ですよ。都合のいい日を教えていただけると助かります」
「……わかった。伝えとく。……場所はどうする? うちに来てくれてもいいけど、レストランの方がいい?」
「どちらでも大丈夫です」
持参する手土産を考えておく必要がありそうだ。
アディスは婚約指輪を贈ってくれるようだし、彼にも何か準備しよう。もらいっぱなしではいられない。
こういう時に頼りになるのは、同じ皇国軍人のジュリアス・ハーレイだ。カノジョには一度、悪役令嬢の婚約破棄を肩代わりするために、婚約してもらえないか頼んだこともある仲である。
あの時の延長だと思えば、気は楽だ。色々と相談に乗ってもらうために、食事にでも誘おう。
「忙しくなりますね。……余計なお世話かもしれませんが、無理だけはしないでくださいね。仕事を優先してもらって大丈夫ですから」
「心配してくれてありがとう。……君も、ひとりで考え込まないでね」
「……はい」
そろそろ休憩時間も終わりだ。
アディスは席を立った。
「城の近くまで送りましょうか?」
「それ、本当は男が言うべきセリフのはずなんだけどな」
「ハハ。残念ながらこれから私と一緒にいる限りは、ずっと私のセリフですよ」
「…………また君は、そういうことを……」
彼は少しの沈黙の後、小さく息を吐く。
「今日は寄るところがあるから大丈夫。それに君はまだアップルパイ、食べてる途中でしょ。ゆっくりして」
食べかけのアップルパイ。
アディスと話すだけで時間があっという間に過ぎてしまったから、皿の上にまだ残っていた。
「――じゃあ、また」
「はい……。お気をつけて」
アディスの気遣いに感謝して、ラゼは彼を見送った。
ひとりになった後、皿に残ったアップルパイを食べ終わるのには、五分と経たなかった。
◆
「話し込まれていたみたいですが、また何か新しい仕事でも?」
「いや。婚約することになったから挨拶してた」
「なるほど。こんや………………は??」
食べ切れなかったアップルパイの箱を持って、執務室に戻るとクロスに問われてラゼは答える。
「……え? だ、誰が? 誰と……?」
「私がアディス様と」
クロスは絶句した。
何の前触れもなかったはずだ。一体、何がどう転んだら、そんなことになるのだろうか。
「えっと、その、いつの間に……。お、おめでとうございます……?」
「ありがとう。と言っても、半年は様子を見ることになってるんだけどね」
通常運転のラゼに眉根を寄せた。
踏み入った話をするつもりはどうかとも思うが、彼女の場合、きちんと真意を確かめておかなければ、自分の腕が折れることになる。
いつかの夜、ラゼが婚約すると聞いた邪神……ごほん。「死神の玩具屋」ことセルジオ・ハーバーマスが暴れて、病院送りにされた記憶がクロスに蘇っていた。
「……プロポーズされたんですか?」
「いやいや! 違うよ!!」
「………………」
だから、ぶんぶん頭を横に振って否定されて、彼の疑念は深まっていく。
「では、代表が?」
「……うーんと。その、ウェルライン閣下が打診をしてくださって、有り難く話を受けることにしたんだ。最近、狼牙宛に他国からも縁談が来てたみたいで、私も顔も知らない人に嫁ぐのは嫌だったから……」
ラゼは軍人だ。この国の僕と言ってもいい。
だからたとえば、他国の王子と結婚しろと命令されれば、相応の理由がない限り命に従う。
そのことを踏まえても、「青の貴公子」なんて呼び声高い青年と結婚させてもらえるのは、たぶん――否、確実に幸運なことなのだ。
「私に話が回って来るくらいだからアディス様にも色々と事情はあると思うんだけど、話を受けたからには彼の負担にならないように頑張りたいんだ。ザース家には、本当にお世話になっているし、あれだけ私のことを分かってくれている家族もそういないでしょ? ……少しでも役に立てるように準備しないとね」
ラゼは自分の前に片付けておいた書類を寄せる。
彼女が真剣に婚約を考えているのが分かって、クロスは閉口した。
前回、婚約騒動を起こした時には、相手の家族のことまで考えていなかった。
それに、こんなに不安そうな顔もしていなかった。
ちゃんと自身の結婚に向き合っているからこその表情だった。
「…………アディス様、婚約指輪、くれるんだって……。私も何か贈りたいんだけど……。どんな物が喜ばれるんだろう」
資料……ではなく先ほどリボンを巻きつけられた指から視線を離して、ラゼは前を向く。
彼女と再び目があったクロスは、胸を撫で下ろした。
――ちゃんと悩んでくれるくらいが、彼女には丁度いい。
潔く、仕事のためだからと全てを飲み込んでしまうより、断然。
「代表が真剣に考えて選んだものなら、きっと何でも喜んでもらえますよ」
だから、クロスは笑って告げる。
きっと大丈夫だ。この婚約はそう悪いものじゃない。
何故なら、相手はあの青髪の彼だ。
ラゼがセントリオール皇立魔法学園に潜入中、バトルフェスタでは彼女のために警戒心剥き出しの視線をこちらに向けてきた男だ。学園祭でも、楽しそうにふたりで出し物を回っていた仲だ。
あの青年は間違いなく、ラゼのことをちゃんと気遣っていた。――そう。ただのラゼ・シェス・オーファンという少女のことを。
何処の馬の骨ともしれない男に嫁ぐと言われるくらいなら、彼の隣にいてくれたほうがいい。
「そうかな……。……アディス様、優しいからなぁ……」
それに、ラゼもわかっているのだ。
彼が自分に優しくしてくれるだろう、ということは。
嫁いでもいいと思えている時点で、芽はある。
「大丈夫ですよ。まあ、もし本当に嫌なことでもあれば言ってください。その時はうちの部隊全員で抗議しますから」
「そ、それは頼もしいけど、ちょっと困るかな??」
ラゼはツッコミを入れるが、クロスは割と本気だった。
普段は自由人な仲間たちも、彼女のこととなれば団結する。
この先、たとえ彼女が自分の幸福を捨てる選択をしても、それを周りは許さない。
――愛され慣れていない人なんだよなぁ、と。
まだ年端もいかない時から軍人として独身生活を送っている上司に、クロスは肩をすくめた。
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