居酒屋「S」のこと
独身の頃、よく友達と呑みに行った居酒屋がある。
官公庁街の近くにあるその「S」という店は、非常に汚い佇まいだった。最初は高校生の頃、確か母に連れられて行ったと思う。私は、そういう清潔感のない店を母が好むとは思っていなかったので意外だった。
大将は、一見して「足を洗った人」とわかった。2本ほど「欠指」していたからだ。しゃべり口調は関西弁、高校生の私を「ガキの来る所やないで」と言わんばかりにギロッと恐ろしい目で一瞥したが、母の娘だとわかるとしゃあないな、とカウンターの一番奥に座らせた。
「たまに変なん来るからな」
本当に恐ろしい顔だ……最初はまともに大将の顔を見ることができなかった。禿げかかった頭を坊主にし、眉毛もない。瞳がグレー掛かっていたのが印象的だった。身長はそんなに高くはないが、がっしりしていて腕も太かった。
聞けば野菜と米は自分で育てているという。どの野菜も味が濃く、大きかったが例えばキュウリでも大味ではなくぎゅっと詰まった味がした。
他の食材も厳選し、特にフランス産の地鶏の焼き鳥は、噛みごたえがあるのに硬いわけではなく、ぎゅっ、ぎゅっと噛むとじわっと肉汁があふれ自家製のタレがよく合っていた。
夏は自分で太い青竹を山から切ってきて凍らせ、ビールジョッキやそうめんの器にした。ビールは泡が細かくなりなかなか消えない。そうめんは確か四国の半田麺か何か、ちょっと太めだが絶妙のゆで加減でぷりっとした歯ごたえ、少しピリ辛のタレにつけて食べれば、またその後いくらでも食べられそうだった。
自分で魚を釣ってきて作ったすり身のごぼう天は、揚げたてをそのままレタスにくるみ、カウンター越しに「口、開けや」とそのまま突っ込まれたが、これもジューシーでたまらなくおいしかった。
私が「納豆が嫌い」というとその場でもやしと納豆を炒め卵でとじ「騙された思うて食うてみ」。これがおいしくて、逆に納豆が大好きになった。
他にもゴーヤが嫌いと言えば絶品のゴーヤーチャンプルーを、手順を見せながら作ってくれた。この二つのメニューは、今でも私の得意料理になっている。
冬になれば、野菜たっぷりの鍋をしてくれたり味のよくしみたおでんが、湯気を立てて待っていた。
大将の手元が見える位置に座ってその作業を見るのが好きだった。一見恐そうな大将だったが、女性には滅法優しかったし安くしてくれた。その代り男性からは倍くらいとっていた気がする。
私は高校を卒業してからは友達を連れて行くようになった。女性が「えー!すごい、美味しい!」とキャアキャア言うのを、大将がとても喜ぶからだ。
大将の話は面白かった。
「儂はろくに学校行ってへんけどな、刑務所おる時にこーんないっぱい本読んでん。せやから大抵の事は知ってるで」
その言葉通り博識だった。客のどんな話にも合わせ、時にうんちく垂れたりちょっと人を小馬鹿にしたような客は論破し店を追い出した。
ああ、そうそう。一度だけ、酔っぱらった客が来ていきなり「そうめんくれ」と言った時のこと。この店において、そうめんは「〆で頼む」のが暗黙の了解のようになっていた。そこにこの客だ。
大将は開口一番「隣のうどん屋に行け」、すると客も負けじと「俺にはそうめんくわせんって言うんか」と応戦。常連客はもうヒヤヒヤだ。
「ちょっと、おじさん、最初っからそうめんはないやろ、ここ居酒屋やけん」
と一人の常連が声をかけると、まだごねるおじさん。
「儂はなあ、最初っから酔っぱらった奴は嫌いやねん。儂が怒らんうち出ていきや」
と大将が少し苛立って言うと
「なんか、この店は客を選ぶんか」とおらんだや否や。
ドスッと、肉切包丁をカウンターにいたその客の目の前に突き立てた。
思わずひるんで席を立つおじさんに、周りの客が「もうやめとけ」「出た方が身のためやけん」
しかしそのおじさん、それでも出ては行かず警察呼ぶぞ、と悪態をつく。もう、周りの客は本当に勘弁してよ、これ以上怒らせたら……とヒヤヒヤ。
「ほんまもんのドス出す前に出て行け!」
初めて聞く大将の本気の怒号に、その場にいた全員が一気に酔いを冷ました。銃刀法違反だから多分、多分……多分本当は持っていない(と思いたい)だろうけど、それは震えあがるほどの恐ろしさだった。そして、カウンターから包丁片手に出てこようとしてやっと、そのおじさんはあたふたと逃げ帰って行ったのだった。
常連ばかりで幸いだった。皆、大将がこんなに怒ってもおそろしくても、実はいい人だとわかっているから、誰も帰ることはなく、なんとなくそこにいた皆で「飲み直しやな」と盛り上がった。
大将は「すまんかったな」と少しおどけた声で言い、また黙々と料理を作っていた。
ずっと「結婚したい人できたら連れておいでや、おっちゃんが品定めしてやるからな」と言われていた。一人、もしかしたら、と思う人を連れていったが、彼は大将とは口をきこうとせず(元々無口な人だったが)、大将も彼がトイレに行った時私に「あれはあかんで」と言った。その彼とは1年もせず別れた。
そして、今の旦那を連れて行った時……関西出身同士ということもあり、旦那と大将は大いに盛り上がった。社会経済に始まり政治や株の話をしたかと思うと、バカ話や緩い話をふってくる大将に全て答えた旦那を「合格や」と言った。確かに、他の男性客に対してもこんなに楽しそうに話す大将を見たことがなかった(女性とはとても楽しそうに話すが)。
実を言うと、私の中でこの判断は結構重要だった気がする。
大将は現役時代の話をあまりしたがらなかったが、何故か旦那には大阪を揺るがす大抗争の時死ぬ目にあった話をしてくれた。
どこまで本当か知らないが、まるで映画の中の話のようでにわかには信じられなかった。それでも、やはりそういう世界にいた人なんだ、と再認識するには充分な話だった。
やがて旦那と結婚し子供ができたあとも、子供を抱き時々食べに行った。子供の事も孫を見るような顔で見ていた。どうみても恐ろしい顔だが、なぜか子供は大将の顔を見て泣いたりしたことは一度もなかった。
しかし、このあたりで私にとって少し不都合な事になった。大将が、猫を溺愛するあまり店に猫を入れるようになったのだ。もちろん客の多い時間には入れないが、準備中や遅い時間になると猫がいる。
私は重度の猫アレルギーの為、猫が鎮座していた座布団に座るだけで重篤な発作を起こすので、次第に足が遠のくようになっていた。足を洗った時にできるだけ縁のない所に、と来ていたので家族はいなかった大将が、どれだけ猫を可愛がっていたか知っているので、またそれについて言えなかった。
さあ、3年位行かなかっただろうか。
ある日の地方情報誌に「S」の大将を悼む、という特集が出ていたのを、本当に偶然目にした。目を疑った、あの、何したって死にそうにない大将が……?
その記事が出る1カ月ほど前……丁度、桜が満開の頃に、肝臓癌で亡くなった、と。
私は大声をあげて泣き崩れた。親族の誰が亡くなった時だってあんなに泣いたことはなかった。ああ、なんて不義理をしてしまったのだろう……あんなにかわいがってもらったのに……
それからしばらくは、台所に立つ度大将の「料理は手際やで」「塩はこうしてな」「米をとぐ時は」「包丁は食材によって持ち方ちゃうんやで」そんな大将の声が聞こえてきて、泣いて泣いて、なかなか進まなかった。
「何泣いてんねん、あかんで。女の子は笑顔や、なあ、GALAちゃん」
わかってるってば。わかってるけど。ごめん、大将、ごめん。
思い出話ができるひとをネットでも探し回り、広島の男性が大将が亡くなる少し前に行った時に意気投合し、なぜかお手製の大きな擂り粉木をもらったから、半分に切って分けてあげましょう、と送ってくれた。
私にできるせめてもの事は、大将に習った料理を家族に作り伝えて行く事。そう思い、今も色々思い出しては作っている。
桜の時期に逝ったのが大将らしい。今でも桜を見ると、不義理を詫びつつ、大将の言った通り料理頑張ってるよ、と話しかける。
大将が逝ってそろそろ10年が経つが、店はあのまま取り壊されもせず残り朽ちてきている。そこだけ時間が止まっているかのように……
今度の桜の時には、酒でも持って行こうか。のれんからひょいと顔をのぞかせ
「今日はなあ、なんもないけど、なんでもあるで。どんなん食べたい?」
と、大将が出て来るかもしれない。




