40.王都へ
ヴェンの目ですら見通せない無明の闇。四方を見渡しても何も映さない、冷たく孤独な空間。天地すら定かでない世界に漂いながら、ヴェンは確信する。
――これは夢だな、と。
明晰夢とは珍しいと思いながら、何もない空間を漂う。長時間居れば気が狂いそうな空間だったが、夢だと分かっているとむしろ心地いい。そう呑気に構えていたヴェンだったが、突然現れた、少なくとも突然現れたように感じた力の波動に飛び起きた。
夢の中で起きるというのも、天地の知れない空間で起きるというのも奇妙な話だったが、とにかく身を起こし、油断無く周囲に視線を配る。
ヴェンの額には凄まじい量の汗が浮かび、全身はヴェンの意思とは無関係に震えている。あの『鬼熊』が赤子のように思える程の恐ろしい重圧諦めの悪いタイプであるヴェンが、一瞬にして己の敗北を確信する絶望的な力の波動。
仮にヴェンが百人居たとしても届かないであろう、馬鹿げた力。どんな化物だよ、と思いつつヴェンは金縛りにあったように動かない身体に力を込める。鉄をも砕く力は、しかし身体を動かしてはくれない。力を込んとする意思が伝わってくれないのだ。恐怖によって伝達回路が寸断されてしまっている。
――何だってんだ、おい。
リアルな夢というのはある。谷底に落ちるような夢はゾッとするような浮遊感で目が覚める。しかしこれは何なんだとヴェンは身を震わせる。或いは、自分が力のままに殺した者達の亡霊が悪夢でも見せているのかとすら思う。お前も抵抗出来ずに死ぬ恐怖を味わえ、と。
知ったことかよ、とヴェンは思う。
踏みにじると決めたのだ。これが亡者の怨念だというなら、受け止めて、跳ね除け、また踏み潰すまでだ、と。ヴェンとて恐ろしいし、正直勝てる気など欠片もしはしないが、身体が動かないこの状況で気持ちまで折れたらどうしようもなくなってしまうから。
何処から放たれているかも分からない力の波動。霧がかったように曖昧で、ただ圧倒的な大きさしか分からなかった凄まじい存在の輪郭が何となく感じ取れるようになってくる。
唐突に、暴力的なまでの力の塊が背後に出現したのを感じて、ヴェンは全身の血液が凍り付いたかのような錯覚に襲われる。心臓が見えない手に鷲掴みにされているかのように痛み、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息苦しい。
――殺される。
近くで力を感じるだけでヴェンは意識が遠退くのを感じた。背から、するすると力の塊が近付いて来るのを感じながらしかし、ヴェンは動けない。
「――なんて言ってられるかよっ!」
肺の中の空気を絞り出し、ヴェンは叫ぶ。言うことを聞かない身体に鞭を入れ、力任せに身体を振り向かせる。このたった一動作で、何日も戦い続けていたかのような疲労感がヴェンを襲った。
振り向いた先、ヴェンの瞳に映ったのは、真っ黒な人影。輪郭はぼやけ、周囲の暗闇に混じって輪郭も判然としないが、何となく人型であることは分かった。曖昧な姿の中で、炯炯と燃えるように輝く真紅の瞳がヴェンの身体を射抜いた。
――あ、これは死んだな。
最早足掻こうとすら思えない。絶望を超え、一周回って納得してしまう圧倒的な力の差。地の底から高峰を仰ぎ見るかのような、現実味を伴わない静かな諦観がヴェンを襲う。
その影はゆっくりとヴェンの胸に手を伸ばし、触れる。逃れることなど、出来はしなかった。触れられた感触は無かった。ただ、膨大な力の脈動だけが伝わって来る。
「ツ・ナ・ガ・ッ・タ」
それが音として伝わって来たのか、魔術とやらかなのか、ヴェンには分からなかったが、『繋がった』ヴェンの耳にはそう聞こえた。それが、言いようもなく恐ろしくて。
「嗚呼ああああああああ!」
ヴェンは心の底からの悲鳴を、上げるのだった。
■ □ ■ □
「――ああああっ……はぁっ、はぁっ」
ヴェンは叫び声と共にバネ仕掛けの人形のように飛び起き、あたりを見渡した。狭苦しい空間に沢山の食品や武具などが積み上げられている。ヴェンはその隙間に座り込み、眠っていたのである。
額には大粒の汗が浮き、革鎧の下に着込んだ服はぐっしょりと濡れて不快な感がある。二、三と深呼吸をすると乱れていた息は整うが、狭い空間で蒸した空気。汗はしばらく引きそうになかった。
「な、何だったんだ、あれは?」
言いながら、ヴェンは再び腰を落とす。先程までの夢は、ただの夢と切り捨てられない程の現実味を伴い、底知れぬ恐怖をヴェンに与えたのだった。
「そりゃこっちが聞きたいぜ、兄ちゃん」
三十前後だろう。茶色の髪に、短い髭の男が前方からヒョイと首を突っ込んで来る。そのことと、床から伝わって来る振動で、ヴェンは今自分が馬車に乗っていることを思い出した。
「あ、ああ。すみません。どうにも夢見が悪かったようで」
「みてえだな。酷ぇ顔色だ。水飲むかい?」
「ありがたく」
銅の筒に入った水を受け取ると、ヴェンは半分程を一息に流し込む。温い上に美味くもない水だったが、多量の汗で渇いた身体には心地よかった。
「王都はすぐそこだ。もうちっと頑張れるか?」
「ええ。お気遣い、感謝します」
「なあに、兄ちゃんには、助けられたからな。このくらい安いもんだ。御者台に出るかい? 空気に当たれば気分も良くなるだろう」
ではお言葉に甘えて、とヴェンは御者台に出る。暑くはあるが、蒸していない分だけ涼しく、風が心地いい。
「ほら、遠目にだが見えるだろ。あれが王都リューンベルクさ」
男の言葉に、ヴェンは視線を上げる。高い城壁と、その城壁すら超えて高くそびえ立つ城の先端がヴェンの瞳に映った。
――王都リューンベルク。
壮麗な都市の姿を捉えつつ、ヴェンはキールの言葉を思い出す。
――転生者らしき人物が見つかりました。
静かに言うキールに対して、そうかい、とヴェンは気のない返事を返した。予測出来ていたことだ。キールに自分。二人居る以上、それ以上居てもおかしくはない。というか、居ると考える方が自然なのだから。
――リューン王国第二王子ルーク・ランヴァース・リューン。
我らがリューン王国の王子様ですね、と笑うキールに、ヴェンは天を仰いだ。体制側に居るかもしれないとは覚悟していたが、まさかそのトップに近いとは、と。正直この世界で前世の知識が役に立つかは怪しいところだが、権力があれば有効に活かす手立てもあるかもしれない。
こりゃ参った、とぼやくヴェンに、しかしキールはこれは好材料ですよと笑みを見せる。
――普通なら会えない人物にコネがあるようなものですからね。
会ってどうするんだよと訝しむヴェンに、キールは詳しくは説明しない方がいいでしょうが、と前に置いた上で言葉を続けた。
――第二王子は反乱軍と手を組む可能性が僅かにですがあります。
いやいやそこは詳しく説明してくれよと言うヴェンに、キールは貴方は嘘を付くのが下手ですからね、と肩を竦めた。あのなあ、と突っ込もうとするヴェンに、冗談ですよと笑うキール。溜息を吐くヴェンにキールはいいですか、と指を立てて口を開き――
「――おい、大丈夫か、兄ちゃん。またぼうっとしてよう」
「え、ええ。すみません。少し考え事をしていまして」
男の声に記憶の淵から引き戻される。キールの言葉にある程度説得力があることを認めたヴェンは、それに従う形で王都に向かっているのだ。
途中まではヴェンの身体能力任せに走って王都を目指していたのだが、辺境周辺はともかく人の目が増えて来ると人外じみた速度で走って行く訳にも行かず。行商人だという男の馬車に護衛という名目で乗せて貰ったのだった。
ちなみに。ヴェンが離れると知って脱走の好機だと喜んだ赤毛の少女の首と手足にはドワーフ作の鬼畜な仕掛けが嵌められている。戦闘はおろか日常生活すら危うい仕様なのだが、キールもヴェンも何ら躊躇うことはしなかった。
鬼、悪魔と罵るアンナを尻目に何を今更と笑う男達の絵面は酷いもので、その場に居合わせたキールの幼馴染と、リーナ、ファティアにドン引きされて男達は酷く凹んだりしていた。
ヴェンはリーナに「キールさんにちょっと似てる」と言われて本気で落ち込み、キールはキールで幼馴染に「ヴェンさんと仲が良いんだね」と言われて乾いた笑いを浮かべていたりする。
その姿をケタケタと笑ったアンナの扱いが更に悪くなったとか、ならなかったとか。
そんなゴタゴタがあったものの、ヴェンは王都に向かった。反乱軍は一時、仮初めの平穏を得て、その間に次なる戦乱へと力を溜め込み、キールは反乱軍が生き残る為の道を探る。
反乱劇の第二幕の開演にはまだ暫しの時が必要になる。
これから始まるのは、ヴェンが巻き起こす喜劇。王都狂想曲。反乱劇の幕間に起こる間奏が、今奏で始められようとしていた。
二部プロローグに当たる部分なので少し短目です。




