番外編.『鬼熊』(後編)
「ハァ、ハァ……」
ヴェンは息を乱しながら走る、走る。森の、それもかなり深い場所だ。悪路というかそもそも道などないわけだが、ともあれ足元の状況は非常に悪い。常人離れした体力を持つヴェンではあるが、凄まじい重圧の中で体力はどんどん削られて行く。
背後から感じる重圧が増したのを感じて、ヴェンは大きく右に跳び、宙で身体を反転させると凄まじい存在感を放つ敵に向かって弓を引いた。
衝撃波とすれ違う形で宙を翔けた矢は巨体の肩に命中するも、何の意味も成さず、ぽとりと地面に落ちる。分かり切った結果には目もくれず、ヴェンは着地と共に疾走を再開する。
――次は、あそこか。
ヴェンは視線を上に投げ、視線を辿るように跳び上がった。空中で空になった矢筒を投げ捨てつつ、木の上に縄で軽く固定しておいた矢筒を回収する。これはあらかじめヴェンが仕込んでおいたものであり、これで計五つ目。
ヴェンの計画では『鬼熊』にできる限り攻撃し続ける必要があるのだが、接近戦は些か無謀だ。ヴェンとて接近戦の方が得意ではあるのだが、『鬼熊』はそれ以上。遠距離戦はヴェンも苦手だが、予備動作さえ見逃さなければ衝撃波を避けることは難しくない以上、遠距離の方が安定する。
突進力は凄まじいものがあるが、巨体とそれに相応しい体重故に方向転換は遅い。方向転換を繰り返せば距離を取るのは難しくないこともヴェンに遠距離戦を選ばせる要因だった。
――向こうも少し苛ついて来てるな、っと。
思いながら、ヴェンは猿のように樹から樹へ跳び移る。次の瞬間、ヴェンが足場にしていた樹が大きくゆれ、傾ぐ。見れば、『鬼熊』の角によって幹に大穴が空けられている。
突き刺さった角を抜くでもなく首の力だけで巨木を根元から引き抜く。ぶちぶちと根を引き千切りながらヴェンの方に頭を向けた。
何を、と思う前に悪寒に背を押され、ヴェンの身体は動く。
枝を蹴り、幹を蹴り、地面を蹴って、一瞬の後に距離を取った。根拠は無いが、ここなら安全だろうと肩越しに振り向いたヴェンの視界に飛び込んで来たのは、自身が先程まで居た場所を巨木が薙ぎ払って行く光景だった。
樹齢数十年、或いは百にも届こうという巨木が凄まじい勢いで宙を砲弾のように貫いたのだ。
「なんつー無茶苦茶」
放射状に広がるとはいえ、基本的に直線的な衝撃波ではヴェンを捉えられないと悟ったのだろう。衝撃波で樹を砲弾に見立てて射出したわけだ。尤も衝撃波と違って周りの木々に引っかかってそこまで有効な攻撃というわけでもなかったが。
ヴェンは矢を二本番えると適当な狙いでこちらに向き直った『鬼熊』に向けて放つ。その結果を見ることもなく、ヴェンは踵を返し、逃げ出した。
「GAAAAAAA!」
背後で咆哮が上がる。内臓が震え、生存本能が警報を鳴らす、遺伝子の底に刻まれた死の恐怖を呼び覚ますようなそれを、しかしヴェンは押し殺す。
――いい加減慣れるって話だ。
戦闘開始から、丸一日。寝る間どころか休む間もなく戦闘を続けている以上、ヴェンは『鬼熊』の咆哮を嫌というほど耳にしている。ほんの一瞬身体は強張るが、戦闘に支障をきたす程ではない。
『鬼熊』に嫌がらせのように――事実嫌がらせなのだが――矢を撃つ作業。本来ヴェンはこれをあと一日続け、『鬼熊』を更に苛立たせるつもりだった。
しかし、予想よりも遥かに自身の消耗が激しいことをヴェンは自覚していた。一つは、常時死の重圧に曝されていたこと。死と隣り合わせなのは今に始まったことではないが、慣れたところで影響が無くなるというものでもない。その上、『鬼熊』の殺意は、重たく鋭い。それがヴェンの精神と体力を鑢がけするように削るのだ。
次にヴェンを消耗させたのは、夜だ。正確に言えば、夜間の戦闘である。森の深部。月や星の光は木々に遮られ、当然人工の明かりもない漆黒の世界。ヴェンの目はある程度闇を見通せるが、それでも昼間に比べると遥かにやり辛い。
森での夜は基本的にやり過ごすものであり、まともに戦った経験はヴェンも片手の指で数えられる程しかない。幸い、『鬼熊』の方も動きが鈍ってくれたため、どうにか凌ぎ切れたが。
要は『鬼熊』という形の死に怯えていたせいで普段の何倍も体力を消耗してしまった訳だ。普段からは考えられないような量の汗を流しつつ、ヴェンは作戦を第二段階に移行させることを決めた。
失敗する可能性も十分にあり得るが、これ以上続けても自身の消耗で成功率は下がることこそすれ、上がりはしないだろうとヴェンは判断したからだ。
ヴェンは弓を投げ捨て、矢筒も放った。これ以上はデッドウエイトにしかならないものを後生大事に持っていても仕方が無い。完全に逃げに徹すれば『鬼熊』から逃げ切ること自体はそう難しいことではない。
しかしヴェンは本気で逃げに徹することなく、中途半端な、『鬼熊』であれば一瞬で詰められる距離を保つ。そして、走りながら腰の皮袋から口の縛られた小袋を取り出した。
『鬼熊』に毒物の類は効果がない。父曰く、凄まじい量を摂取させれば或いは、ということだったが、現実的ではない。許容量が大き過ぎるのだ。実質無効だと言っていい。
しかし、この袋の中身は毒物だ。正確には毒ではないし、人間が飲み込んだところで大した影響はないだろうが、『鬼熊』に対してだけは激毒になり得る。
『鬼熊』には罠も効果的ではない。こと落とし穴の類にはまず引っ掛からないと言っていい。観察眼か、野生的な本能か、或いは別の要素があるのか。ヴェンには分からないが、基本的には罠に掛かってくれない。
しかし、『鬼熊』を仕留めるだけの攻撃力をヴェンが期待出来るのは近接戦闘のみ。それも急所を狙う必要がある。急所を近接戦闘で狙えるだけの隙を作れるのは、罠。それも、足止めが狙える落とし穴の類だ。
毒が効かず、罠にも掛からない『鬼熊』に毒を盛り、罠に掛けるのがヴェンの策である。計画が頭から破綻しているような気がするが、一応ヴェンなりに勝算はあってのことだ。
ヴェンは覚悟を決めるように大きく息を吸い込み、止める。この作戦のなかで一番危険な瞬間だ。一拍間を置いて、反転。地面を蹴り付ける。
すぐそこまで迫っていた『鬼熊』の頭上を越える軌道。十分な高さだったが、『鬼熊』が頭を振り上げたことで話は変わってくる。
――ま、ずい。
その角には研ぎ上げられた名刀のような輝きすら宿っている。ヴェンの進行を遮るように挟み込まれたそれを受けようものなら、手製の革鎧もろとも真っ二つになる可能性すらある。
ヴェンは右手で剣鉈を引き抜くと、眼前に迫った角に合わせる。そこから剣鉈を支点に身体を捻じった。
「ギッ……!」
無理な動きだ。骨が、筋が、肉が悲鳴を上げる。或いは何処か壊れたかもしれなかったが、それでもあのまま真っ二つよりは遥かにマシだろうとヴェンは思いつつ、脇腹に手をやる。
赤い液体がべっとりと手を汚す。完全に避け切ることは出来なかった。幸いにして、ヴェンの身体は頑強だ。この程度の傷で命を落とすことはない。しかし、これでいよいよ長期戦は出来なくなったなとヴェンは笑った。
何故笑みが浮かんだのかは分からなかったが、危機的な状況にあってしかし、ヴェンは笑みを浮かべていた。
「あるう日、森の中っと」
ヴェンは傷の痛みなど感じていないとばかりに鼻唄を歌い、『鬼熊』から今度こそ本気で逃げ出した。脇腹から溢れた血がクッキーの屑のように道標になる。尤も、そんなものが無くても『鬼熊』は血の臭いで追って来れるだろうし、大体姿を見失うこともないだろうが。
ヴェンを追う『鬼熊』の様子は先程までとは少し違う。瞳を血走らせ、息は荒く、獰猛さが増したような雰囲気。これがヴェンの用意した毒の効果だった。
すれ違い様にヴェンが『鬼熊』の顔面に振りかけたのは、とある花を乾燥させてすり潰した粉末だ。それは人体には何の影響もなく、おそらく他の生物にも何の効果もみせないだろうが、『鬼熊』にだけは効果的だ。
この花の粉末自体に効力があるわけではない。その臭いが『鬼熊』を興奮させるのだ。
この花の粉末は、『鬼熊』の雌が発情期に出す臭いに近いのだとヴェンの父は言っていた。雄には当然効果があり、雌にも喧嘩を売られている感じるのか、効果があるらしい。
毒ではない。しかし、勝手に向こうの身体が反応してしまうのだ。
丸一日掛けてヴェンに散々苛立たせられた上に発情期同様の興奮状態。とてもではないが冷静な状態ではない。そして、ヴェンの父がヴェンに常々言い聞かせていた通り、戦場では冷静さを失ったものから死んで行くのだ。
――それは魔獣とて、例外ではない。
ヴェンに飛びかかろうとした寸前、『鬼熊の身体が、沈んだ。続いて、ドボンという、水音。
深い、それこそ五メートル以上掘られた穴には、大量の水が溜まっている。これはヴェンがすぐ近くの泉から引きいれたものだ。さしもの『鬼熊』も水面から飛び上がるというのは難しい。
数秒もあれば穴の淵に手を掛け、脱出するだろうが、その数秒でヴェンには十分過ぎる。
「ま、今回は上手く行き過ぎたって話」
せいぜい俺と、自分の運の無さを呪ってくれよ。そう言って、ヴェンは刃を振り下ろす。『鬼熊』の瞳が最期に映したのは、赤い金属の輝きだった。
後にヴェンはこの狩りを「ビギナーズラック」と評していたりする。事実これほど上手く狩れたことはこの狩りを除いて無く、幾度も命を危険に曝し、敗走したことすらあるのだから、その評は正しいものだと言えるだろう。
更新が遅れ、申し訳ありません。




