番外編.『鬼熊』(前編)
「そういえば、以前から聞こうと思っていたのですが」
「何だ?」
「いえ、『鬼熊』という名称と強さだけは耳にしていたのですが、詳しいことは知らないことに気付きましてね」
実際に対峙したことのある貴方の話が聞きたいと思いましてね、と言うキールに、ヴェンはアイツなあ、と大きく息を吐き出す。今なら真っ向からやり合っても五分の戦いが出来るかもしれないとは思うのだが、ヴェンにとっては未だに恐怖の対象である。
大体、数のそう多くない天賦の戦闘力でやっと五分であるあたり、鬼熊が積極的に人間を襲うような性質を持っていたら、人類は滅んでいたのではないかとヴェンは半ば本気で考えている。
「そうだな……あれは何年か前の初冬のことだ――」
■ □ ■ □
――まずい。
その年は火の季節でも随分涼しい日が続いた。続いてしまった。作物の実りが悪く、全体的な収穫量は例年の六割にも満たないほどであった。冷害による不作。不作だからと言って税率を引き下げてくれるような領主ではなかった。むしろ、税率無視して例年通りの量を持って行った。不作で収穫量が少ないにもかかわらず、だ。
当然例年よりも備蓄などは当然厳しくなったが、そこはヴェンが普段よりも多く狩に出て、賄った。というより、タテノ村に限れば、一切の収穫が見込めなくともヴェン一人が頑張れば十分賄い切れるのだ。
しかし、他の村を出来るだけ餓死させないようにと考えると話は変わって来る。とてもではないが狩猟で直接に手に入る食糧では足りる筈もない。例年はそれでも魔獣の素材を売り払い、商人から食糧を買うことで賄っていたのだが――
――申し訳ありませんねぇ。
商人の男はニタニタと笑いながら言った。冷害によって穀物の値が上がっているのだと。この素材の量ではこの程度しかお渡し出来ません、と。
そう言って示された量は例年の半分以下。ヴェンは突っかかりそうになるのをギリギリで自制した。冷害で穀物の音が上がるのは確かであろうし、その点で商人の言葉に嘘はない。ぼったくっているのではないかと常々考えているヴェンだったが、この村に来てくれる唯一の商人だ。無下には出来ない。
そんな状態なら他の村を見捨てればいい、とはならない。ヴェンは助けられるなら助ける程度の情は持ち合わせているが、かと言って村に過度な負担を掛けてまで他の村に手を差し伸べる程お人好しでもない。
他の村に食糧を分けているのは情だけではなく、そうしなければ村が危険だからだ。この年だけを考えるなら見捨てるのが正解なのだろうが、長い目で見る見るとよろしくない。
今年のような窮状を放置すれば他の村は滅ぶ可能性が十分にあり得るし、そうなると領主への納税量が減る。納税量が減れば、糞領主が後先考えず税率を上げるのは目に見えていた。
それに領民達とてただ殺されるのを待つばかりではないだろう。飢饉の中、一つだけ餓死者を出さず、彼らの基準で裕福な村があれば、何らかの手段で食糧を分けて貰おうとするだろう。言葉で交渉している内はいいものの、手に入らないとなれば暴力に訴える可能性は高い。
ヴェンが村に居る時に来るのなら対処出来るが、居ない時に来たら、と考えるとぞっとしない。それ故、ヴェンは例年食糧を配っているし、今年もそれを止めるわけにはいかないと考えているのだった。
――やるしかない。
ヴェンは思う。魔獣素材の中でも他とは比較にならない量の食糧と交換して貰える『奴』を――『鬼熊』を狩るしかないと。
■ □ ■ □
――準備完了……とはいえ。
果たして自分があの怪物に勝てるだろうかとヴェンは思う。父はあっさり狩っていたが、自分に百メートル先の針穴に糸を通すような芸当は不可能だ。そうなると、真っ向から狩る他ないわけだが、森の中でごく稀に見掛ける『鬼熊』の姿を思い出してヴェンは身体を小さく震わせた。
鎧猪に伍するほど強靭な外皮を持ち、目算五メートル近い巨躯。外皮を抜いても筋肉の鎧が二層目の壁となる。実質鎧猪よりも頑強であると言えるだろう。
頭も良く、滅多なことでは罠にも掛かってくれない。そして、どんな原理なのかヴェンには分からないが、口から衝撃波を吐き出す。不可視のそれは回避が難しいだろうし、威力も恐ろしく高い。
鬼熊の名の由来ともなっている一本角は硬く、鋭く、生木すらあっさりと貫いてしまうほど。ヴェンの身体がいくら頑丈だと言ったところで何の意味もないだろう。
当然、真っ向からやり合ったところで勝てるわけもなし。五日以上掛けてヴェンは森の中に幾つも仕掛けを作っていた。これが上手く機能すればかの『鬼熊』といえど狩れない筈はない、とヴェンは自分に言い聞かせる。
正直、あの頭のいい『鬼熊』が罠の類に掛かってくれるかは非常に怪しいとヴェンは考えている。当然罠に掛かるよう立ち回るつもりではあるものの、前列が無いのだ。上手く行くかは分かったものではない。
本当なら一度逃げる前提で突っかけて攻撃の速度、衝撃の範囲、連射出来るか否か等を確認しておきたかったのだが、『鬼熊』の頭の良さを考えると、戦う前に自分の動きを見せてしまうというのが良くない方向に働くのではないかとヴェンは警戒したのである。
幸い父に着いて行っていた時も含め、ヴェンは何度か『鬼熊』動きを見ている。その動きの五割増位を想定しておけば想像を上回られることもないだろう。そう考え、威力偵察は控えたヴェンだった。
ちなみに五割増しの動きを想像すると対応出来る気がまるでしないのだが、実際は想像より大人しい筈、とヴェンは自身に言い聞かせていたりする。
身体中に塗りたくった草の汁に樹液と水を混ぜたドーランモドキの臭いがヴェンの鼻を突く。ドーランとは異なり、これは魔獣の嗅覚を誤魔化すための措置だ。一度戦端が開かれればそこまで意味をなすものではないが、初撃までの安全が買えるというなら十分過ぎる。
――さぁて。
ヴェンは肩に掛けていた弓を手に取ると、弦の張りを確かめる。ヴェンお手製の弓はお世辞にも精度が良いとは言えないのだが、今回ばかりはこの弓が肝だ。信用が無くとも使う他ない。
ヴェンは手製の矢の中でも特に出来のいい一本を弓に番えると、ゆっくりと弦を引き絞って行く。引き絞られた弓が小さく軋み、気付かないでくれ、森の音に紛れてくれとヴェンは悲鳴のように祈った。そんなヴェンの視界には、巨大な赤い影が一つ。
『鬼熊』だ。
馬鹿みたいな巨体で堂々と構えている。外敵の存在しない、頂点捕食者。王者の風格すら漂うその姿に、しかしヴェンは目の焦点を合わせていない。茂みの中から矢を番え、『鬼熊』の頭部に狙いを定めてこそいるものの、あえて焦点を合わせないようにしているのだ。
――焦点を合わせれば、バレるかもしれない。
神経質かもしれないが、警戒し過ぎということはないだろうとヴェンは思う。ヴェン自身、理屈を超えた直感に救われることは少なくないのだ。その直感を魔獣、それも『鬼熊が持っていないという前提で動くのは危険過ぎる。
ヴェンも狩人の端くれ。気配を消したり、意を隠したりはある程度出来るものの、『鬼熊』の知覚を誤魔化しきれるかは怪しいところだ。それ故、目の焦点を合わせないことで意識も散らしているのである。
大体、ヴェンの弓の腕はそこまで高くない。これは弓の精度が非常に怪しいことが最大の要因ではあるが、きちんとした弓を使ったとしても二流程度である。父ならこの距離から『鬼熊』の目を射抜いてみせるのだが、ヴェンにそんな芸当は不可能だ。
一応頭を狙っているのは目や口内など矢が刺さる部位が多いからで、正直これで仕留められるとヴェンは毛頭思っていない。もちろん、刺さって、あわよくば仕留められればという思いはあるのだが。
ヴェンはゆっくりと、大きく息を吸って、止めた。緩やかに上下していた照準が定まる。そして、覚悟のために一拍間を置おた。
――覚悟を決めろよヴェンリット。
自分に言い聞かせ、腹を括る。括ったそれが解けぬ内に、ヴェンは矢から手を離した。
静謐に宙を切り裂いて行く一本の矢。
それは刹那の内に『鬼熊』に迫る。ヴェンは命中を確信した。そして、あわよくば急所に当たってくれと祈る。まぐれ当たりでもいい、出来ることなら一発で終わってくれと。
目の焦点を合わせる。ピントの合ったヴェンの視界の中に映ったのは、矢が『鬼熊』の額、そこから生える剣のような角に弾かれた光景と、此方に向かって口を開いた『鬼熊』の姿だった。
――マズイ。
吼えるでもなく口を開いたあの状態は、溜めだ。認識した瞬間、ヴェンは茂みから飛び出して大きく左に跳んだ。次の瞬間、先程までヴェンが居た場所を不可視の衝撃が薙ぎ払って行く。
途中にあった木は傾ぎ、折れかかって鈍い悲鳴を上げているものすらある。『鬼熊』の理屈の分からない衝撃波。溜めが短かったせいだろう。以前ヴェンが目にした時よりも威力が低いように思える。
――まあ、どの道当たったらアウトだけどね。
今の威力でも意識が飛ぶ可能性はあるし、耐えられたところで動きは止まる。そうすれば待っているのはどの道死だけだ。ヴェンが身を躱した先に、『鬼熊』が突っ込んで来る。
『鎧猪』など比較にならない圧倒的な速力。その上重量も遥かに上だ。直撃を食らおうものなら頑丈なヴェンとはいえ挽肉一直線となりかねない。
斜め後ろに跳んで距離を取りつつ軸をずらし、同時に嫌がらせのように矢を放つヴェン。巨大な的のどこに当たってもいいと放たれた矢は幸運にも頭部に向かう軌跡を描くも、ノータイムで放たれた弱い衝撃波に弾かれてしまう。
――GAAAAAAA!
森全体を揺るがすような咆哮。ヴェンは凄まじい重圧を感じつつ、震える身体を自覚して、こりゃ五割増しじゃ足りなかったかも、と顔を引き攣らせた。
それでも足は止めない。一瞬でも止まったら、その瞬間死の顎に捉えられてしまうだろうから。深い森の中、ヴェンは必死に勝利までの道筋を辿らんとするのだった。




