33.謀
額に汗を浮かべながら駆け足で戻って来た領主の手には一本の小瓶が握られていた。それ以外のものを持っているようには見えないため、あの小瓶を治療に使うのだろうとヴェンは思ったが――
――薬、なんだろうけどね。
塗り薬か飲み薬かは分からないが、海の色を映したかのように青い液体だ。塗るにしろ飲むにしろ若干躊躇われる色合いである。
「はんあい、ほれは?」
「エリクシールと言って、身体を癒やす秘薬です」
へえ、とヴェンは無造作に近付くと、その手からエリクシールの小瓶を奪い取った。
「な、何を!?」
治療の邪魔をするつもりは無かったヴェンだったが、薬の名前を聞いて急に不安になったのだ。ヴェンが思い浮かべたのは、ゲームに登場する回復薬の類。流石に瀕死の少女が急に体力全快になって立ち上がるとも思えなかったが、この世界は魔術なんてものがあるのだから、あり得ないと断じるのも危険だろう。
口の中に溜まった血を吐き出すと、ヴェンは小瓶の蓋を開け、ほんの一口だけ薬を口に含んだ。これですぐさま効果が出るようなら、少女に投与する量を考えないと第二ラウンド勃発である。
――ま、いくらなんでもそれはないかね。
傷がすぐさま治るようなインチキ臭い代物はいかにファンタジーと言えど無理があらぁね、と考えたヴェンだったが、薬を口に含んだ瞬間感じていた痛みを感じなくなっていることに頬を引き攣らせた。
ヴェンは恐る恐る舌を動かしてみても痛みはなく、指で触れて確かめてみても傷があったことすら感じられない。
「……おいおい、こんなのありかよ」
ヴェンであれば放っておいても一日二日で癒えた傷ではあるが、それでも一瞬で治るとは恐れ入るよとヴェンは溜息を吐く。口内環境正常化、洗口液かな? などとすっとぼけたことを言いつつ、少女に歩み寄ると小瓶の三分の一程を流し込んだ。量は、適当だ。正確な効果など分かりはしないのだから、或いはこれでも全快する可能性もある。
ただ、領主に任せて一瓶飲まされていたら、第二ラウンドが冗談ではなくなっていた可能性が高い。
「悪いね。ちょいと毒味させて貰ったよ。全く、激毒もいいとこだって話だ」
少女が蘇ろうものなら、ヴェンを殺し得るだろう。回復の秘薬はヴェンにとってこの上ない毒薬だった。少女に視線を落とせば、驚いたことに蒼白かった肌には血の気が戻って来ているし、呼吸も安定し始めている。
「いえ、その……」
言い淀む領主。少女を死なせたくないという思いはあったのだろうが、同時にあわよくば回復して貰えばヴェンをどうにかしてくれるかもしれないという思考もあったのだろう。
「で、この位飲ませとけば死にはしないだろ?」
少女は確かアンナ様と呼ばれていたか、とヴェンは思いつつ言って、エリクシールの小瓶に蓋をした。これ以上飲ませてやるつもりはないという意思表示だ。
エリクシールのお陰で口の傷や軽い火傷などは治り、体力的にはもう一戦しても何ら問題ないのだが、そもそも少女は万全の状態で戦ったところで確実に勝てるとは言い切れない強敵。少女の手の内がある程度割れてやり易くなったとはいえ、十戦して十勝とはいかないだろう。
さらに言えば、近付いて殴るか、弓、投石といった確実に避けられるであろう遠距離攻撃しかないヴェンとは違って、少女の手札は多い。まだ見ぬ切り札がある可能性は十分に考えられる。それ込みで考えると勝率は良くて八割悪くて六割程度だろう。
「エリクシールまだあったりするのかね?」
「エリクシールは国庫に収められる貴重品。家にあるのはそれっきりだ」
そう言った領主の息子の瞳をヴェンはしばらく見つめ、嘘は吐いてなさそうだと判断し、そうかい、と呟いた。虚偽の判断はヴェンの勘だが、おそらく間違ってはいないだろうと思う。こんな薬が当たり前に使われているとは考え辛いことだし。
「……で、だ。俺は別に喧嘩を売りに来たわけじゃない」
嘘八百である。
ヴェンの主目的は天賦の力量がどの程度のものか確かめること。要は威力偵察であり、一度突っかける気満々だった。領主に、という意味で言えば嘘ではないが、結果領主とその息子を抑えてしまったのだからせんのない話だ。
というか、よく逃げなかったなとヴェンは思う。
ヴェンと少女の戦いはそれなりに長く続いたのだから、その間に逃げるという可能性は十分にあった。それでも逃げなかったのは、何かしら理由がある筈で。思い当たるのは――
――あの娘か。
アンナ様。貴族が敬称を付けている時点で、相当高い身分だということは想像に難くない。自分達だけ逃げ出したことが知れればまずいということだろうか。
尤も、その辺りの事情はヴェンにはあまり意味がない。せいぜい、身分が高いというなら人質か何かに使えるかもしれないな、という程度のものだ。
さて、ヴェンがファイツ領を訪れたのは、天賦の偵察だけが目的ではない。尤も、ファイツ領を訪れる前に他の領を回って仕掛けた仕込みが効果を表すのはまだ先で、もう一つの目的を果たすには時期尚早なのだが――
――まさか、だよなぁ。
少女が穴を開けた壁の向こう側。領主館に一つは設置されている巨大な伝心結晶が輝いているのを見て、ヴェンは表情を固くする。
「領主さん。応対してくれるかい? ああ勿論、妙な素振りを見せたら息子さんとその娘の命はないよ」
「……分かりました」
――流石にない、筈。
大体、ヴェンがこの領主館に侵入した直後に聞いた会話からして、他の領主との通信を終えた直後だったと考えられる。天賦同士の戦闘はそれなりに長引いたとはいえ、すぐさま連絡を取るようなことはない筈なのだ。
領主はヴェンの言葉を受けて隣の部屋に向かうと、伝心結晶を起動する。水晶の中に浮かび上がった顔を見て、ヴェンは「マジかよ」と思わず呟いて額に手を当てた。
生え際の怪しい、痩せぎすの男。瞳をギョロつかせる様は、見る者に生理的嫌悪を覚えさせる。
「ふむ、ラング殿。先程話したばかりかと思いましたが、何用ですかな?」
「驚くべき情報を耳にしましてね。そう、驚くべき情報をね」
ラング。ファイツ領に隣接したメルロー領の領主であり、ヴェンは『仕込み』のついでに行った偵察でこの男の姿を目にしている。ヴェンからすると、恐ろしく神経質な男、という印象だった。
「驚くべき情報、ですと?」
「ええ。そう。ファイツ領が反乱軍と手を結んだという情報を。嘆かわしい、おお嘆かわしい」
甲高い、キィキィと軋むような声でラングは言う。ファイツ領の領主はその言葉に驚いたように目を見開くと、一瞬でヴェンに視線を向けた後、反論の言葉を返す。
「馬鹿な! そのような事実はない!」
「ですが、メドック領、グラーツ領、ベルタン領からも同様の報告が上がっていますからねぇ。それに、貴方は下民に媚びた施政をなさっている。反乱軍に共感したとしてもおかしくありませんよねぇ?」
ラングが名を挙げた領は全てヴェンがファイツ領を訪れる前に『仕込み』をした領地。全てファイツ領に隣接するか、近い領地である。
嫌らしい笑顔を浮かべたラング。分かっているのだ。ファイツ領が反乱軍と通じていないことなど。いや、分かっていないのかもしれないとヴェンは思う。彼等にとっては事実がどうであれ問題ではないのだから。
『ファイツ領が反乱軍と手を結んだ』
この言葉だけが彼等にとって事実であり、偽りだったとしても事実にするつもりなのだ。死人に口なし。いくら怪しかろうが、弁明する者がいなければそれは事実にすり替わる。
キールの言った、善政を敷いているが故の弱点がこれだ。圧政を己が領地に課している者達にとって、善政を敷くファイツ領は目の上のたんこぶ。隣接する領地から、圧政に苦しむ領民が逃げ込むことも多々あった。
領主にとって領民は財産だ。領民が多ければ多いほど得られる税も大きくなる。それを奪われるのだから、他の領からすれば盗人に等しい。尤も、財産というよりは家畜といった認識の方が近いだろうが。
――いや、それよりも酷いか。
家畜とて餌をやらなければ死ぬのだ。連中は大方『下民なんて放っておけば増える』とでも考えているのだろうとヴェンは思う。だから、飢餓で死んでも気にしないのだろうと。領民が減るという意味では、ファイツ領への亡命との間に差はない筈なのだが、自分の財が減って他人の財が増えるのは気に入らないのだろう。
辺境周辺の貴族達は常々考えていたのだ。ファイツ領を潰す方法はないものかと。そんな時に飛び込んで来たファイツ領が反乱軍と手を組んだという情報。
真偽など、気にする筈はない。
或いは、これが反乱軍が仕掛けた罠であると気付いている領主も居るかもしれないが、それでも情報に乗っているのだ。それは反乱軍など容易い相手だという楽観と、憎きファイツ領を潰せるという利が彼等を突き動かしているのだろう。
――まあ、それにしても早過ぎるって話。
この『ファイツ領が反乱軍と手を組んだ』という情報は、キールに指示されたヴェンが広めたものだ。広め始めたのは、僅かに十日前。恐らく、最初の領に噂を流した領の領主が伝心結晶を使って情報を利用してファイツ領を討つことを提案したのだろうが、それにしたって早過ぎる。
このキール発案、ヴェン実行のこの策は、どう転んでも反乱軍の利になるのだ。ファイツ領が滅ぼされれば、善政を敷く領主を手を汚さずに排除出来、あわよくばファイツ領をそのまま取り込める目すらある。
唯一の不安要素は天賦がファイツ領に居て、ファイツ領が独力で勝利してしまう可能性だったが、それもヴェンが排除した。最早、ファイツ領はまな板の上の鯉。どう料理されるかを待つばかりだ。
「と、いうわけで。我々辺境連合はファイツ領を反乱軍に肩入れした裏切り者として討たせて頂きますよぉ」
「貴様っ謀ったな!」
ラングの言葉に、ファイツ領領主は顔に似合わぬ憤怒の声を上げた。それはラングはもとより、ヴェンにも向けられたものなのだろう。温厚そうな見た目とは裏腹に、炎を思わせる怒りの感情がヴェンの身を打った。
――こりゃ、地獄行きだな。
俺もキールも、とヴェンは自嘲するように思う。尤も、キールにしろヴェンにしろ、天国なんてものがあったとして、そこへ自分が行けるとは、端から思っていないのだけれど。




