170 イヴリン3~平和への願い~
[前回までのあらすじ]オトラーの領地北東にてつづく、アリストロからの侵略行為。その戦いに終止符を打つべく、ベランカとシェインは氷の大精霊イヴリンに停戦の仲介を頼むことにした。イヴリンに会うため凍てつく氷山を登り、二人は頂上に到着する。
場所:クラウン氷山
語り:ベランカ・クーラー
*************
私たちは、懸命に魔物と戦いながらその凍てつく山を登った。
そして、氷の大精霊が住むという、頂上にほど近い場所に辿りついた。周辺の雪や氷がますます蒼白く輝いている。
イヴリン様は強力な魔力を持っている。この亡国イニシスに年に二回冬がくるのは、イヴリン様の存在が影響していると言われているほどだった。
そのため彼女が動けば、アリストロも停戦に応じるのではないかと私たちは期待していた。
しかしどこにもその姿は見えず、山頂にはただただ冷たい風が吹き荒れている。
「シアン、イヴリン様はどこにいるのかしら?」
私は自分の守護精霊に尋ねた。
「わかりかねますね……。イヴリン様はこの山全体を自分の魔力で覆っていますから。そういう意味では、わたくしたちはすでにイヴリン様のなかにいると言えるでしょう」
「イヴリン様のなかに……?」
シアンはすでに五百年は生きている精霊で、いつも冷静沈着だ。
だけど、数万年前から存在しているといわれる大精霊イヴリンに比べれば、まだまだ赤子のような存在らしい。
その表情には珍しく緊張の色が滲んでいる。
私は少し恐ろしくなってお兄様に抱きついた。お兄様がイヴリン様に呼びかける。
「氷の大精霊イヴリンよ! 我々はオトラー義勇軍から参りました。我々の願いを聞いてくださいませんか?」
凍てつく冷気を吸い込んだお兄様の声が掠れている。息を吸うだけで喉と肺が傷つき焼けつきそうに痛むのだ。
だけどイヴリン様からの返事はない。吹雪がますます強くなり、私たちに吹きつけてきた。
「これは……。大精霊はお怒りのご様子ですね」
シアンが静かな声でいう。
氷山に入ったときから感じていたけれど、イヴリン様は私たちを追い返したいのかもしれない。
十分な成長を遂げた大精霊にとって、人間は取るに足らない存在なのだろう。
――それでも、諦めるわけにはいかないですわ。
私たちは、戦争を止めるためにここまで来たのだ。
私は氷の盾で吹雪を防ぎながら大声を張りあげた。必死に足を踏ん張る私を、お兄様が支えてくれている。
「私は氷属性魔導師ベランカ・クーラー! あなたの眷属の一人、氷の精霊シアンと契約を交わしています。
冷気と氷を愛する私の声に、どうか耳を傾けてはいただけませんか?
私たちは平和を望んでいます! アリストロ軍と話しあう機会をください!
あなたなら彼らを説得できると、私たちは信じています!」
その時突然吹雪が止んだ。バランスを崩してよろける私たち。
そして、目の前に現れたものに、私は息を呑みこんだ。
――竜……!? どうして。
そこにいたのは、巨大な白銀の竜だった。
竜がお兄様と私の可愛い弟をひと飲みにしてしまったあの日から、竜は私たちの仇も同然だ。
私たちは思わず臨戦体制に入った。
「ほほう? やる気のようだな。ならばかかってこい。われが憎かろう?」
白銀の竜はそう言うと、挑発するように牙を剥き、太い尾で雪をかきあげた。
その巨大な翼を広げバサリと羽ばたかせると、猛吹雪が私たちを吹き飛ばそうとする。刃のように鋭利な氷塊が飛んでくる。
お兄様は瞬時に雷の障壁を張り、その吹雪を防いだ。
「く……。どういうわけだ。ここにはイヴリン様がいるはずなのに……!」
「われこそが氷の大精霊イヴリンよ。青年よ。おまえの弟を食ったものは、こんな姿であったろう?
見つけたなら必ず倒してやろうと、お前はおのれを鍛えてきたはずだ。その槍で、竜の鱗を砕こうと。
ならば戦え。われにその憎しみをぶつけてみよ」
精霊は人間の心から、願いを読み取り魔法を発動させる。
だから精霊が人間の心を読んでしまうのはよくあることだ。
だけどそれは、子供のころから契約しているような、親和性の高い精霊の話だった。
ここまで正確に過去の出来事まで言い当ててしまうなんて、大精霊というのは恐ろしいものだ。
竜はお兄様に向かって、かかってこいと手招きしている。
私は不安になってお兄様を見あげた。彼は唯一血のつながった弟のグレインを、心の底から愛していたのだ。
グレインが死んでからのお兄様の混乱した様子はまだ私の記憶に焼き付いている。
そしてお兄様は、この竜の言うとおり、竜への復讐を考えているように思えた。
お兄様が歯を食いしばっている。
私たちは、グレインが竜に飲み込まれるところを、なにもできず眺めていたのだ。
あのときの悔しさを思い出すと、私も武器を握る手に力が入った。
だけどこの竜に手を出してしまったら、平和への道は閉ざされてしまう。
「おにぃさま……」
「大丈夫だよ、ベランカ。私はもう、二度と混乱しないとオルフェルに誓ったんだ」
お兄様はそう言うと、かまえていた槍を下ろした。竜はお兄様への挑発を続けている。
「さぁ青年よ! 早く来い! 竜などめったに出会えるものではないぞ。復讐をはたす機会を逃すな」
「……しかしあなたは、弟を食べた竜ではありません。弟を食べたのは、右足に傷のある緑色の竜でした。私の記憶にはその傷の形や背びれの数まで鮮明に焼き付いています」
「そんな細かいことはいいではないか。人間は種族をひとまとめにするのが好きな生きものだ。竜は全て、おまえにとって敵であろう?」
「私はただ、竜から愛するものを守る力が欲しかった、それだけです。全ての竜に復讐など……」
「嘘をつかずともよい。人間は憎しみには抗えぬ。都合のよい言葉でわれを騙し、アリストロに復讐すること、それが本当の望みであろう?」
「イヴリン様! 私たちの望みは復讐ではなく平和です。どうか頼みを聞いてください」
お兄様はそう言うと槍を収め深々と頭を下げた。
竜は私たちの顔を交互に眺めて、しきりに首を傾げている。心が読める大精霊にも、お兄様の言葉は意外だったようだ。
私も少し驚いて、頭を下げるお兄様を見詰めた。お兄様はやはり、誇り高いオトラー義勇軍の総隊長だ。
「私も決して憎しみのために、あなたの力を使うことはありません。守護精霊のシアンに誓います」
私がお兄様に並んで頭を下げると、シアンも一緒に頭を下げてくれた。イェールまでがつられたように頭を下げている。
「平和を望むということは、今まで殺し合ってきた相手と手を取り合うということじゃぞ?」
冷気と共に羽根のように雪が舞い上がった。白銀の竜は優美な女性に姿を変える。
竜の巨体に隠されていた大きな白い月を背景に、青みを帯びた輝きを放つその姿はまるで美しい氷像のようだ。
それは本当の、氷の大精霊イヴリンの姿だった。
「われは何千年もの間、人間のすることを見てきたが、戦いが終わるのはどちらかが降伏したときか、死に絶えたときだけであった。われが間に入ったところで同じことよ」
「それでも、あなたは我々の希望です」
「実現できるとはとても思えぬ」
「お願いです、イヴリン様!」
さらに頭を下げた私たちの頭上に、イヴリン様の笑い声が響きはじめた。
「ふふふ。ふふふふ……。復讐を捨て平和を語り、愛を見せつけたうえに希望だなどと。よくもまぁ嘘も曇りもなくそんなことを。
人間にはすっかり飽きておったが、久々に少し面白いのぉ。しかし、かゆいぞ。かゆくてたまらん。このままではちと顔がかゆいわ」
――顔がかゆい?
驚いて顔をあげると、ボリボリと顔を掻くイヴリン様。その背中に巨大な氷の翼が広がっていく。
「人間よ。成功の保証はせぬぞ!」
イヴリン様はそう言いうと、バサバサと翼を羽ばたかせ、空の彼方へ消えていった。




