167 ベランカ2~心を殺して~
[前回までのあらすじ]幼児の姿で大好きな兄のシェインに抱きあげられたベランカは、三百年前の記憶を思い出していた。弟のグレインを竜に食べられてしまったシェインを励まそうとするベランカだが……。
場所:イコロ村
語り:ベランカ・クーラー
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グレインが死んだあとのお兄様は、見ていられないくらい元気がなかった。
食欲もなく痩せてしまって、あのお日様のように輝いていた笑顔も、すっかり雲に隠れてしまった。
手にした本を読むでもなく、無気力に窓の外ばかり眺めている。
だけど私には、お兄様の心の回復を願いながら、寄り添うことしかできなくて。
彼のそばに座って楽しい話をしたり、彼の好きな食べものを口に運んだり、散歩に誘ってみたりした。
――少しでも元気になっていただきたいですわ……。
私はお兄様のそばを離れられなかった。そんな私に、お兄様は虚ろな瞳で話しかけてきた。
「ベランカ、きみは僕の前から、いなくなったりしないよね」
「おにぃさま……。私はいつも、おにぃさまのおそばに……」
「ありがとう」
――きゃっ!?
力ない声で呟くお兄様に身を寄せると、突然キュッと抱きしめられてしまった。
お兄様の腕が震えている。小さな嗚咽が聞こえてきて、彼が泣いていることがわかった。
それなのに、自分の鼓動がうるさいほどに響いている。彼の体温に、私の肌が熱くなる。
――どうして私、こんなにドキドキしてるのかしら。
――弟が死んだばかりなのに、おにぃさまにときめいてしまうなんて、いけないことだわ……。
私の目からも涙が溢れてくる。
私はただただ戸惑って、動けずに抱きしめられていた。
たった一人の血のつながった弟を失った寂しさ。その空いてしまった心の隙間に、私ははまり込んでしまったようだ。
――なんて罪深いのかしら。
そう思った私は、何度も気持ちに蓋をしようとした。
お兄様が元気になるまで、そばで励ませればそれでいい、そう思っていたつもりだった。
だけど気持ちは、どんどん止められなくなっていく。
感情を抑えようとすればするほど、お兄様を自分だけのものにしたくなってしまう。
制御できない想いはどこまでも膨らんで、身体ごと弾け飛んでしまいそうだ。
それなのに、どんなに努めてもアピールしても、お兄様は私を妹として慈しむばかり。
彼の優しい言葉や触れ方に、期待と不安が揺れ動く。
お兄様は私の気持ちに気づかないふりを続けながら、精一杯の優しさをくれる。
親とか領民とか貴族とか、いろいろなものに配慮しなければならない、お兄様の立場がわかるだけに、私もそれ以上は、煩わせることができなかった。
彼の困ったような笑顔。罪悪感に染まる青い瞳。
そこから目を逸らしたくても、私はもう後戻りができない。私は彼を愛してしまった。
だからずっとそばで見てきた。彼の背負う重荷、責任、苦悩、迷い……。
△
脚立を物置き小屋に戻すと、お兄様はまた、私を抱きあげた。
私の小さな体を軽々と持ちあげて、優しい微笑みを浮かべている。
幼児の姿は少し悲しいけど、お兄様のだっこは大好きだ。
「ベランカ、つらくはないかい?」
「おにぃさまがいれば、つらいことなんて、なにも」
――だけどおにぃさま? ここは三百年後の世界なんですのよ? ここには気をつかう相手はいませんわ。親も領地もなにもないんですもの。
――だから、そろそろ、私を妹扱いするのはやめてくださいませんか?
声に出せない想いに身をやつしながら、私はまたお兄様の胸に顔をうずめた。
△
「ぎゃっ! バシリスク。イヤですわ。おにぃさま」
「ベランカ。まだ慣れないようだね」
ナダンさんの屋敷に戻ると、ミラナがネースの解放レベルをあげていた。
私はバシリスクになったネースを見て、思い切り顔を引きつらせる。そんな私に、ミラナが少し申しわけなさそうな顔をした。
「立派だね。魔法は使えるのかな」
「まだよくわからなくて。少しも話さないので……」
ナダンさんがネースを見あげている。ミラナは彼にネースのこの姿を早めに見せておきたかったようだ。
ネースはもともと背が高かったせいか、このバシリスクはやたらと大きい。それがビクビクしながら周りを見回している姿は、どうにも挙動不審に見えた。
「ふーむ。凶暴性はないようだが、なんだか様子がおかしいな。まだ少し混乱しているのかもしれないね」
「あ、はい……」
ミラナの師匠が口ひげをいじりながら唸っている。
もともとネースがどれほどの変人だったのか、彼には想像もつかないだろう。
ミラナも本人を前に、『もともと変人なんです』とは言いにくいようだ。
「しかし調教魔法には魔物との信頼関係が大切だから、意思疎通はできたほうがいい」
「そうですよね……」
「特に攻守モードは魔物に判断を任せる部分が大きくなるからね。覚えても、彼が話せるようになるまでは使ってはいけないよ」
「はい。わかりました」
ミラナとナダンさんが、そんな相談をしている。ネースが話さないせいで、ミラナも困っているようだ。
――本当に変な男ですわね。わかりにくくて、迷惑なことこの上ないですわよ。
バシリスクになったネースが、立ちあがってこっちを見ている。
床に伸びた太くて長い尻尾、鱗だらけの体、縦長の瞳孔の鋭い目。
あの姿を見るとどうしても、グレインを食べた竜を連想してしまうのだ。
できればずっと水槽に入れて、なかが見えないように布でもかけておいてほしい。
「いまの姿に慣らしが必要だからね。解放レベルがあがったら、ネースも人間になるかもしれないよ」
「それは、わかっていますけれど……」
思わずお兄様に抱きつくと、彼は少し困った顔をした。
――はやく人間になってくれないかしら。人間になっても陰気だけど、バシリスクよりはかなりマシですわ。
――だけど、解放レベルをあげて、カエルやムカデになったりしてもイヤですわね……。
黙ったまま動かないバシリスク。
私はできるだけ、それが視界に入らないようにしながら、お兄様と一緒に窓際に座った。
私は別にネースが嫌いというわけではない。彼とは何年も同居していたけど、あまり部屋から出てこないし、これといって害はなかった。
彼がイザゲルを庇ったときは、確かに腹を立てたけど、いまはその気持ちも理解できる。
お兄様が弟のグレインを愛していたように、ネースも姉のイザゲルを愛していたのだ。家族への愛なんて、だれに否定できるものでもない。
『もしおにぃさまが、イザゲルのように悪に染まってしまったら?』
私はときどき、そんなことを考える。
お兄様を倒すなんて悲しい決断は、私にはきっとできないだろう。
どんなにお兄様が悪くても、私は全力でお兄様の味方をするつもりだ。そのためなら、私も悪に染まると思う。
だけどネースは姉を倒す決意をし、ハーゼンにまでそれを決断させた。
たとえ姉から闇を取り除くことができたとしても、彼女の罪が消えないことを彼はしっかりと理解していた。
誰よりも心を殺し、自分の信念や理想、こだわりも全てを捻じ曲げて、やるべきことをしようとしていた。
それはまるで、心を氷に閉じ込めるようだ。
ネースは感情を制御できなかった自分とは違う。私は彼を尊敬している。
――だけど、ネースのこの姿。まさか解放レベルをあげたら竜になるなんてことは……。
――そんなことになったら最悪ですわ。おにぃさまが混乱して、下手すると串刺しにしてしまいますわよ?
お兄様は笑顔を見せているけど、やっぱり少しつらそうに思える。
彼は半竜を見かけると、いつも以上に殺気立ち電撃の槍を振り回すのだ。
グレインが死んだころ、お兄様はそれまで訓練してきた剣術を捨て、いまの槍に持ち替えた。
自らの槍で、竜のかたい鱗を貫くその日のため、彼は槍術の腕を磨いてきたのだ。
竜やそれに近い生きものを憎む気持ちは、私にだって理解できた。
――竜に復讐……。そういえば、あのとき私たちは……。
私はそのとき、三百年前のある記憶を思い出した。
それは氷の大精霊イヴリンに会うため、お兄様と二人、凍てつく氷山を登ったときの記憶だった。




