141 魔法魚(赤)~水槽と小悪魔な彼女~
[前回までのあらすじ]イザゲル討伐を決意したオルフェルたち。しかしその心中は複雑で、簡単に整理のつくものではなかった。話し相手を求めたオルフェルがミシュリ大尉の部屋を訪れると、そこには下着姿の彼女が待っていて……?
場所:オトラー本拠地
語り:オルフェル・セルティンガー
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魔法魚を見せてもらおうと、ミシュリ大尉の部屋を訪れた俺は、水槽の向こう側にいる彼女の姿に目を奪われた。
ミシュリ大尉はほとんど下着姿で、色っぽく水槽に近づいてきたのだ。
思わず見惚れていると、ミシュリ大尉が水槽を覗き込んできた。水槽越しに目が合って飛び跳ねる俺。
彼女はまるで小悪魔のようにイタズラな笑顔を浮かべている。
――まずい。見てたのばれた! 俺殺されるっ!?
抱えていた魔導書を落としそうになりながら、俺は慌てて後ろを向いた。扉に向かって一目散だ。
そんな俺に、ミシュリ大尉が声をかけてくる。
「どうしたの? 来たばかりなのに」
「どうって! 俺、ノックしましたよね!? ミシュリ大尉、なんでそんな格好なんですか……!?」
「オルフェル君が来るって言うから。わざわざこれに着替えて待ってたんだよ?」
「すいませんでした! 出直しますっ」
水槽の向こうにいたミシュリ大尉が、こっちに回ってくる気配を感じる。
――えっ? なんでそのままこっちくんの!?
――まさかそれ、ミシュリ大尉の普段着か!?
彼女はいったい、どういうつもりなのだろう。よくわからないけど、とにかく逃げたい俺。
外に出ようとノブに手を伸ばすと、魔導書が手から滑り落ちた。
――やばいやばいやばい!
借り物の魔導書はもちろんだけど、持ってきた書写のための大きな巻紙も高級品で、しわくちゃにするわけにはいかない。
あたふたしながらしゃがみ込んだ俺の背中にミシュリ大尉が抱きついてきた。
――わわわ。これってそういうやつ? やっぱりモテるわぁ、俺!
――でも待って!? 俺そのわりに経験とかないからね? これ刺激強すぎ!
――うぉー!? 背中に柔らかい感触がっ。なんてこった! だめだろこれ! ハレンチハレンチ!
魔導書を拾えずかたまる俺に、ミシュリ大尉が体を擦り寄せてくる。
しばしば女の子たちから告白される俺だけど、こんなに大胆なのははじめてだ。
柔らかく温かいなにかが背中にあたる。電撃を喰らったみたいにビクッとした。仕方ない。俺は女性とろくに手を繋いだこともない、純情な十九歳男児なのだ。
ものすごい羞恥心が襲ってくる。戸惑いすぎて、背中が板みたいに硬くなった。ミシュリ大尉の甘い声が耳元で響く。
「逃げることないじゃない。オルフェル君、ずっと彼女いないでしょ?」
「そ、そうですけど……っ」
「シンソニー君にも彼女できちゃったし、寂しいんじゃない? 魔法魚が見たいなんて言って部屋にくるんだもん」
「いやっ、え? それは、そうなんですけど、俺、別にそういうつもりは……」
「だめだよ。いつまでも死んだ子引きずってちゃ。恋人だったわけでもないのに」
「なっ……」
ミシュリ大尉の言葉に、ドキドキしていた気持ちは一気に鎮まり、怒りと悲しみが込みあげてきた。握りしめた拳が震えはじめる。
カタ学の先輩だった彼女は、全部知っているはずだ。俺がなんのためにカタ学に入ったのかも、なにを目指していたのかも、なにを失ってしまったのかも。
それなのにこんなことを言ってくるなんて、俺にはとても信じられない。
だいたい恋人でなくたって、ミラナは俺の大事な人だ。いつまで引きずろうが俺の自由だ。人に意見されることなんかなにもない。
「ミラナは死なない。……俺が、覚えてるから」
俺は叫びそうになるのを必死に抑えて、低く唸るように声をだした。ミシュリ大尉が前に回り込んでくる。
彼女は後ろ手で扉に鍵をして、俺の前にしゃがみ込んだ。
繊細なレースで飾られた、白い胸の谷間が目の前にある。俺はそれを、無感動に見てから目を逸らした。
俺の心は死んだみたいだ。もうなにも感じない。感じたくない。
ミラナの顔が頭に浮かぶ。失ったものの大きさを感じた。俺の胸にあるのは、絶望だろう。どんなに前を向こうとしても、俺はそこから進めない。
ミシュリ大尉が俺の顔を覗き込んできた。
「彼女、いい子だったと思うよ。頑張ってるの見てると、応援したくなったし、第一印象と違って、話してみたら可愛くてさ。私ももっと、仲よくなりたかったな……」
「それなら……。そう思うなら、俺のことは、放っておいてください。俺、ミラナを忘れる気はないです」
震える声でそう言った俺を、ミシュリ大尉は悲しげに見詰めている。
その口元に優しい微笑みを浮かべて。
だけど無駄なことなのだ。
俺は寂しがってるわけじゃない。寂しいだけなら、だれかに会ったり話したりして、きっと解決できただろう。
色っぽいミシュリ大尉に、胸の穴を埋めてもらえたかもしれない。
だけど俺の心はもっと違うもので覆われていたのだ。
俺はつらい思いをしていたミラナを置いて、ひとり王都に戻ってしまった。
闇属性が迫害されていたのに、追放反対運動にすら参加しなかった。
その間もハーゼン大佐やネースさんは、大切な人を守るために、毎日必死に活動していた。
それなのに俺は、好きだ好きだと思うばかりで、なにも行動できなかった。
そしてその理由は、『騎士になってミラナと恋人になりたい』という、本当に幼稚なものだった。
そして皮肉にもミラナを処刑したのは、俺が目指していた騎士だった。
俺の罪悪感と情けなさは、どれだけ後悔しても拭い切れるものではない。
だけどミラナは、そんなバカな俺の将来を心配してくれていたのだ。
たとえ嫌われても追い返されても、俺は彼女を守るべきではなかったか。
守ることができていたら……。
そんな思いばかりが、俺の胸をえぐっている。痛くて痛くて、張り裂けてしまいそうだ。
ミシュリ大尉に見詰められると、俺の目から涙が溢れた。
――ごめんミラナ……。ごめん、ごめん……。
「オルフェル君……」
ミシュリ大尉が俺の涙を拭う。温かくて柔らかな手だ。
「あの子を忘れろとは言わないよ……。でも、元気のないきみは、これ以上見てられないんだよ」
ミシュリ大尉は俺の手から巻き紙と魔導書を取りあげて、コンソールテーブルの上に置いていく。
「無理しないで、先輩に甘えてみない?」
俺の弱った心を見透かすような彼女の瞳。それは優しさに満ち溢れ、熱く揺らめくように輝いている。
そのまま俺に近づいて、彼女は俺を抱きしめた。どうしようもなく涙があふれてくる。
「あぁ……あぁぁ……」
嗚咽をあげる俺の髪を、ミシュリ大尉が優しく撫でている。そっと背中をさすってくれる。
俺はいくつになっても一人でいられない。どうしようもない寂しがりだ。
なにひとつ成長しないくせに、体ばかりでかくなった。
俺は一人でいることに耐えられなくて、彼女を頼ってここに来たのだ。
優しくされると泣いてしまう。
しばらく泣いて顔をあげると、ミシュリ大尉は体を離し、両手で俺の前髪をかきあげた。
「あんなに言ったのに、またケガしてるし……」
クルーエルファントにやられた額の傷跡にそっと触れる彼女。呆れたように笑ってるけど、俺への心配が伝わってくる。
「オルフェル君、いつ死んでもいいって顔に書いてあるよ」
「俺、別に、死にたいわけじゃ……」
「だけど、生きていたい理由が見つからないんじゃない?」
「生きていたい理由……」
ミシュリ大尉に言われて、俺は生きる理由を探す。
俺にだって、守るべきものがある。
だけどそれは本当に、俺の生きる理由だろうか。
俺の守りたいものはみんな、それぞれの幸せを見つけるはずだ。
俺にだって、やるべきことがある。
だけど同郷の先輩のお姉さんを殺して、その先に、俺の幸せがあるのだろうか。
イザゲルさんを殺すことが、故郷の仇うちになるとは思えない。
討伐を成し遂げたとして、俺たちの心に残るものは悲しみと虚しさだけだろう。
俺はどこに向かって歩けばいいのだろう。だれに向かって笑えばいいのだろう。
この道は本当に、明日につながっているのだろうか。
答えを探して黙る俺に、ミシュリ大尉が顔を近づけてきた。
「私と一緒に生きようよ。私がきみに、この世界で、もっと生きていたいって思わせてあげる……」
「あっ、のっ……!?」
気づいたときには、ミシュリ大尉と唇が重なっていた。
――あ、俺のはじめてのキスが……。
奪われてしまった俺の純潔。返せと言っても手遅れだろう。
ミシュリ大尉が俺の唇を弄んでいる。なんという生々しい感触だろう。柔らかくていい匂いで、気を抜くと意識が遠のいていく。
――やばい。これがキスか……! なんてこった! スパルタすぎるぜ!
こんな状況なのに、俺は大尉との厳しい訓練の数々を思い出した。レッドティガーに襲われた日々。あのシールド魔法は覚えてよかった。
そんなことを考えていると、ミシュリ大尉が急に声をあげた。
「いやんっ! どこさわってるの?」
「え?」
「オルフェル君、責任とって恋人になってくれるよね?」
「えぇ!?」
「来週、休みの日にデートしてね。村の南に温室があるの知ってる?」
「あ、はい」
「そこで待ち合わせだよ」
ニコッと笑いながら上着を羽織るミシュリ大尉。いったいどこを触ったというのだろう。自覚はないけど、言ったら絶対殺されそうだ。
俺はミシュリ大尉の恋人になってしまったのだろうか。もしかしていつものイタズラか?
心臓の音がうるさくなってきた。うまく思考がまとまらない。わかるのは自分が、ひどく混乱しているということだけだ。
「今日は俺、これで失礼します」
「約束忘れないでね?」
「わかりました」
俺は巻紙と魔導書を抱えて、逃げるように部屋を出た。




