129 ヒドラス5~さようならイニシス~
※すみません、長くなったので二話に分けました。予告からサブタイトルが変更になっています。ご了承ください。
[前回までのあらすじ]魔物使いのミラナは三百年前に海蛇の魔物になり封印された同郷の先輩ネースを捕獲しようとしていた。しかし彼女は魔物だらけの海に落ち気を失う。そんななかミラナが思い出した三百年前の記憶とは。
場所:闇属性魔道士たちのコロニー
語り:ミラナ・レニーウェイン
*************
――――――――
――――――――
――――――――
『ミラナ! ミラナ! 目を開けて!』
私を呼ぶ声が耳に響いた。暗闇のなかで漂っていた意識が少しずつ現実に戻っていく。
――だれだろう……。
顔に水滴が落ちてくる。払いのけてみると、すみれ色の瞳の男の人が見えた。びしょ濡れで服も髪も肌に張り付き、不安そうに私を見詰めている。
ここは、聖騎士エンベルトの処刑から逃げ延びた、『マレスの子』らのコロニーだ。川沿いに粗末なテントが並んでいる。黒いローブで作った本当に粗末なテントだ。
私たちはあれからしばらくライルを探したけれど、結局見つけられず仕方なく南下してきた。そしていまは、イニシス王国と水の国の国境のレベラス山脈に入っていたのだ。この高嶺を越え、私たちは『水の国』に逃げ込む予定だった。
そんな矢先、私は洗濯中に足を滑らせて落水した。彼は私を助けてくれたのだろう。
「僕がわかる?」
「うん、ドーソン……」
「よかった! ううっ、冷たいな」
ドーソンは私を抱き起こすと、そのままぎゅっと抱きしめた。彼は『マレスの子』のリーダーだ。迫害され亡命を決めた私たちを、ここまでずっと引っ張ってきてくれた。
私の濡れた背中に、彼の手が触れる。温めようとしてくれているのだとわかったけれど、身体が少し強張った。
周りにいた数人の子供が、「ヒューヒュー!」と、口笛を鳴らす。みんなイニシスで迫害された可哀そうな闇属性の子供たちだ。
「キスした!」
「ミラナとドーソン、キスしたね!」
――え!? キ、キス!?
私は驚いて自分の唇に手をやった。ドーソンからできるだけ顔を背ける。まったくなにも覚えていない。気を失っている間に、ドーソンに唇を奪われてしまったのだろうか?
私が困惑していると、ドーソンが慌てた声で言った。
「ち、違うよ。ミラナの息が止まってたから、人工呼吸しただけだよ」
――人工呼吸……。そっか、だからあんなに焦った顔で……。
あらためてドーソンの顔を見た。冷えて蒼白くなり、唇も青ざめて震えている。彼は危険を冒して、私を助けてくれたのだろう。そうでなければ、私はきっと死んでいたのだ。
それなのに、私は怒りに震えている。大切にしていたはじめてのキスを、彼に奪われてしまったからだ。
彼は私の唇に触れたことを、なんと思っているのだろう。仕方ないと思っているのか。それとも自分勝手に、嬉しく思っているのだろうか。
命を助けられたというのに、感謝の気持ちが湧いてこない。どうして私は、こんなに汚れてしまったのだろう。
動揺する私の周りを、子供たちが「キース!」と、からかいながら走り回った。
私が眉を顰めていると、ドーソンが子供たちに注意した。
「いい加減にしないと、夕飯抜きだぞ」
「わー! ごめんなさーい!」
子供たちが走って逃げていく。みんな無邪気で可愛いけど、イタズラがすぎて手を焼くこともある。
小さくため息をついていると、ドーソンは申しわけなさそうに顔を歪ませた。
「ほんとにごめん。ミラナ、息してなかったから……その……」
「ううん。ありがとう、助かったよ」
私は無理に笑顔を作って、感謝の言葉を吐き出した。ドーソンに八つ当たりしても仕方ない。川に落ちて、へまをしたのは私だ。その結果、私はまた自分の持っていたものを失った。
だけど、純潔なんてそんなもの、持っていてなにになるのだろう。
どうせオルフェルにはもう逢えないというのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。
「生きててくれてよかった」
優しい言葉をくれるドーソン。『ありがとう』と言おうとしたけど、涙があふれて言えなかった。
私たちは故郷に帰ることもできず、家族や大切な人にも二度と会えない。最後の心の支えだったライルまで、私を置いて消えてしまった。
もう生きる理由も見あたらない。悲しくて切なくて心が砕けてしまいそうだ。どうして私たちは、こんな目に遭いながら生きつづけているのだろう。素直に感謝できなくて、ドーソンには申しわけない。
「風邪ひくよ。テントに戻って着替えておいでよ」
涙を流す私の頭を、ドーソンが優しくなでてくれた。
「うん……。ドーソンも早く着替えて温まってきて。あとであらためてお礼に行くね」
「そんなの、気にしないで」
気まずそうな顔のドーソンを残して、私は自分のテントに戻り服を着替えた。
「大丈夫、大丈夫。気にしない、気にしない……」
何度もその言葉をつぶやいた。こうしていれば、そのうち涙は止まるだろう。
いつまでも泣いていられない。私たちは『マレスの子』を率いて、このレーデルを越えなければならないのだ。
悲しみも苦しみも、全部この国に捨てていく。
『イニシスにいれば、どこかでオルフェルに会えるかもしれない』
そんな、最後の希望も置き去りにして。
――――――――
――――――――
――――――――




