123 降参1~時空を超えた恋心~
場所:ローグ山
語り:ミラナ・レニーウェイン
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高原の奥にある滝壺の端で、私、ミラナ・レニーウェインは、水筒に水を汲んでいた。
苔むした岩と岩の隙間から、透明な地下水がとくとくと湧きだしている。水筒に口をつけてみると、冷たくて甘みがありとてもおいしい。
この高原で暮らす動物たちにとって、この水は生命の源だ。
昼間はリスが水辺で遊んでいたけれど、夜が近づき、いまは夜行性の動物たちが水辺に集まっている。ミンクや小さなサルたちだ。
私は彼らと距離を保ち、水筒に水を汲みながら、静かに彼らを見守った。オレンジ色の毛皮が光るミンクは、目を奪われるほど美しい。
滝壺の中央では、崖の上から滝が流れ落ち、轟音を立てていた。周囲には、オルフェルが魔力を込めた魔石がいくつも置かれている。
魔力量や質によって色が変わる魔石の光は、赤やオレンジだけでなく、黄色いものや、青白いものもあった。
水面に反射するその光が、滝壺をカラフルなグラデーションに染めている。暗闇に包まれたなかでも、その光景は明るくて美しかった。
水筒は全部で六つ。服が濡れないように、三つ目の水筒に水を満たし、四つ目の水筒を取り出した。全てに水を入れるとなかなかの重さになる。だけど、水分補給は命に関わることだ。
私は「ふう」と息をつきながら、二十メートルほど後ろで、夕飯の片付けをしてくれているオルフェルの姿を振り返った。
――この距離なら平気みたい。もう昨日から、オルフェルが近くにいるだけでドキドキがとまらないよ。
昨日の夜、私はオルフェルに抱きしめられ、耳元でさんざん愛を囁かれてしまった。
私の心を揺さぶる低くて甘い彼の声。耳や首筋に触れる、熱くて柔らかい彼の唇。舌に触れる彼の指。思い出しただけで、顔が熱くなってくる。彼に見られていると、恥ずかしすぎて、変な態度をとってしまう。
オルフェルの目的は私から人間に戻る方法を聞き出すことだったから、愛を囁いたのは、ついでみたいなものかもしれない。
だけど、あんなに素直な気持ちをまっすぐにぶつけられたのだ。彼の言葉や行動は私の心に響きすぎるくらいに響いていた。
気持ちに嘘をつこうとしても、オルフェルが不意に近づいてくると、私は平静さを失って、ウサギのように飛び跳ねてしまう。
いま少し距離をとって、オルフェルから逃げてきたのも、実をいうとそのせいだ。
――はぁ、こまった。少しも落ち着かないわ。顔もまともに見られないなんて。
気づかれないくらいの距離から、オルフェルの姿を目で追う私。それはもう、少女だったあのころのように。
彼はなにか、小鳥のシンソニーと話をしている。だけどここからでは、話の内容まではわからない。距離のせいもあるけれど、滝の音が大きいからだ。
またひとつため息をつき、私は再び水を汲みはじめた。昨日オルフェルに囁かれた愛の言葉が、何度も私の胸に蘇る。
『いまこうやって一緒にいられて、すげー幸せだって思ってる』
――私も幸せだよ。一緒にいられるだけで、十分だって思ってる。
『ミラナにちょいちょい避けられて、俺結構傷ついてんだけど、わかる?』
――ごめんね。どうしていいかわからなくて……。
今度は懐かしい、クイシスの声が脳裏に響く。私の可愛い守護精霊。彼女が聖騎士に消されてしまってからも、彼女の記憶は私に力を貸してくれる。
『いいかげん、本当の気持ちを教えてあげたらどうなの? 二人のことなんだから、一人で決めちゃうのはよくないわよ。あの子の気持ちも、少しは汲んであげないと』
――そうだね、クイシス。このままじゃだめだよね。
――わかってる。だけど、また嫌われるのが怖いの。少しでも長く、彼に愛されていたいって思うのは、ダメなこと?
彼に振られてしまった現実は、私の心に深い傷を残していた。だけど私は、そろそろそのつらい過去に、向きあわなくてはいけないのかもしれない。
そう思った私は、三百年前の、彼との記憶に想いを馳せた。
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亡命した水の国は魔物との戦いの最中だった。私たちマレスの子はまた絶望的な状況に陥っていた。
「ミラナ! ドーソン! 逃げて!」
私たちを、何度も助けてくれた水の国の青年レオ。彼が魔物に囲まれながら叫んでいる。勇敢に戦う彼の声が、恐怖を押し殺すように震えた。
「ごめんなさい!」
私たちはレオを残して必死に走った。だけど魔物は追いついてくる!
なにもかもを失くし、新たに手に入れた絆も捨てて、どこまでも逃げる私たち。そうまでしても、私たちは、残酷な運命に追い詰められる。
――もうだめ!
私が死を覚悟したそのときだった。
私たちの前にオルフェルが姿を現したのだ。彼は私たちのために戦い、水の国を守ってくれた。
彼の姿は変わっていたけど、私にはそれが、オルフェルだとわかった。そして、私たちはすぐに恋人になった。
「オルフェル……ありがとう。あなたが来てくれて本当によかった」
「ミラナ……生きててくれてうれしいぜ。また会えるなんて、思ってなかった」
私がオルフェルに抱きつくと、彼は愛し気に私の髪を撫でてくれた。
私たちは何度もキスをした。彼の赤い瞳が私を見詰めて、優しく微笑んでいる。まるで夢のなかにいるようだった。
逃亡者の私が、こんなに幸せでいいのだろうか。そんな疑問が湧いてくるくらいに。
だけど彼は、私が幸せになるのは当然だと言わんばかりに、全力で私を幸せにしようとしてくれた。彼の愛を感じるたび、私は喜びで、虹色の涙をこぼした。
「オルフェル、あなたと一緒にいられるだけで、こんなにも心が満たされるんだね……」
「俺はミラナに愛されてたなんて、いまだに信じらんねーよ」
「ねぇ、覚えてる? 学校を退学になったとき、私があなたの背中に抱きついたこと」
「あぁ、あれには驚いたぜ」
「本当は、オルフェルと離れたくなかったんだよ」
彼は私を優しく抱き寄せた。私はすごく幸せだ。少しも離れていたくない。
私はオルフェルの胸に頭を乗せ、彼の鼓動に耳を傾ける。彼は優しく私の手を握って、その指先にキスをした。
「ここにもして」
私が自分の頬を指差して突き出すと、彼がまたキスをくれる。
「ねぇ、覚えてる? カタ学の生徒会室で、ほかの女の子にもらったラブレターを私に自慢したこと」
「うーん? それは、覚えがねーな」
私の質問に、彼は頭を押さえて考えこんだ。私はすごくショックだったけど、彼にとっては日常のひとコマだ。覚えていなくても無理はないけど、彼は目を閉じ眉間に皺を寄せて、懸命に思い出そうとしている。
「うーん、やっぱり思い出せねー」
「私本当は、すっごいヤキモチ妬いてたんだよ?」
「覚えてなくてごめん」
「嫉妬深くて、嫌いになった?」
「んなわけねー」
そう言って、彼が私の首筋に顔を埋める。くすぐったくて、私は肩をあげて抵抗した。
「もう逃げんなよ」
「やだ、くすぐったいよ」
大人になった彼は、優しくて強くて、勇敢でカッコよかった。私はそんな彼に、もう一度恋に落ちた。
彼の話は不思議だった。私には理解が追いつかないことも多い。私は、彼を知りたいと思った。彼の見たもの、触れたもの、感じたこと、それを一緒に、感じたかった。
だけど、お互いの事情がわかってくると、私たちの間には、すれ違いや衝突が起きるようになった。
オルフェルは自分の仲間であるオトラー義勇軍を大切にしていて、彼らを水の国に連れてきていた。
そして、オルフェルは彼らに対し、ものすごい責任感を持っていた。
学生のころの彼からは、想像もつかないくらいに、彼は深い義憤を抱えていたのだ。
だけど、私は、この酷い世界の被害者だ。ちっぽけで無力で、地面を這い、逃げることしか許されない。
正義を叫び、だれかのために戦うなんて、立派な人のすることだ。私には、できることなんてなにもない。
何度か起きた、彼との喧嘩を思い出す。
「ミラナ、俺は逃げるわけにはいかねーよ。守りたい仲間がいるんだ」
「仲間仲間って……、その仲間が、あなたをそんなふうにしたんじゃない! 昔のあなたはもっと、自由な人だったよ」
彼は口元に怒りを滲ませた。
「ミラナこそ……家族ってなんだよ。あの男が……ドーソンのいうことがそんなに大事か?」
「マレスの子」を大切に思う私の気持ちを、彼は理解しようとしてくれていた。
コロニーの副リーダーとして、ドーソンとすごす時間も長かったけど、ずっとヤキモチを妬きながらも我慢してくれていた。
だけど私の言葉に、彼の不満が溢れ出す。
「これ以上逃げて、どうなるんだ」
「なによ……なんにも知らないくせに……! 私がどんな気持ちでここまで逃げてきたか……。家族がいなかったら私は……」
涙を流す私。私はイニシスから逃げてきたとき、家族以外のすべてを失ったのだ。家族が大切なのは理解してほしい。私は訴えるように、彼を見詰めた。
そんな私に、オルフェルが吐き捨てるように言う。
「ミラナだって知らねーだろ。俺たちオトラーの絆がどんなものか」
もちろん、私には知る由もない。彼が私と離れている間に、仲間とどんな経験を共有したかなんて。彼の言葉が眩しくて、彼の仲間が羨ましくて、そんな話、聞きたくなかった。
離れている間に変わってしまった、私たち。
それでも私はオルフェルが好きだ。だから彼を手に入れたい。だから、彼とわかりあいたい。
「オルフェル……」
彼の名前を呟いた。切なさが胸を掻きむしる。
「ごめん、酷いこと言った」
オルフェルは喧嘩のたび、私を抱きしめて謝ってくれた。彼は私の気持ちを、理解しようとしてくれていた。
だけど数日後、私は突然オルフェルに振られてしまったのだ。




