憤怒的鬼
この世に真に善なる者などいない。あるのは欲求ある人、というのが鄭拓の人生観だった。だから欲求のおもむくままに生きた。弟にはその欲求がないのかと思った。
「……」
「兄者?」
「……。わかった」
「おお、ありがとう兄者。オレはオレの人生を生きるよ」
(情けないことを!)
湧き起こる怒りを秘め、兄は優しくうなずいて。いかにして暗殺するかの手順を話し、そのための毒を手渡した。
話が終わると鄭弓は宮殿に、持ち場に戻って。
翌日、夜が明けて朝食が運ばれてくる。それを調べるのも鄭弓の仕事であったが。
「おかしい」
そう言うと、もっとよく見たいからと盆に乗った朝食を自室に持っていってしまった。係りの者はどうすることもできず、成り行きに任せるしかない。
誰もいない。人目のないことを入念に確認すると。茶の入った茶碗に、兄からもらった毒の粉をまぶして、溶かした。
「いやあすまんすまん、思い違いであった」
そう笑って誤魔化して係りの者に朝食を返して、運ばせた。そばには屈強な衛兵がついている。暴れて逃げ出すのを防ぐためである。
「開華、開華……」
そればかりつぶやいて。外に出してもらえず、陽の光も受けられず。劉賢はすっかりしなびれたもやしのような身も心も細くなっている有様で、寝台に腰かけていた。
運ばれた食事にもろくに手を付けない。ただ、開華開華とつぶやくばかりであった。
部屋の扉が開けられ、係りの者と衛兵が入ってきても知らぬ顔である。
頬に引っかき傷がある。他にも数か所身体に傷をこしらえていた。慰みものにしようとした女に抵抗をされて引っかかれたり、かまれたりしたのである。
もはやこれまでと女は劉賢以上に狂い、せめてもの思いで暴れた。騒ぎに驚いて衛兵が飛び込み、女を一刀両断に斬り殺した。
これで何人の女が死んだことか。ほとほとげんなりさせられた鄭弓は、もうこの仕事を辞めて自由になりたいという思いを強くするばかりだった。
それも、もう終わる。
「ここに、置いておきます」
係りの者は寝台の前の卓に食事を置くと、衛兵とともにそそくさと出ていった。
「開華……」
いつ頃妹を強く意識するようになったのか、自分でもよくわからないが。
脳裏には、ある思い出が何度も繰り返す。それは、五年前の十五のころだった。
物見遊山に大京の郊外にある景勝地に行ったとき、夏の盛りだった。
「お兄さま助けて!」
妹が兄のもとに駆け寄って、しがみついた。蝉が羽をばたつかせて、妹の頭のそばを飛び去り。それに驚いて、兄にしがみついたのだ。




