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元男爵令嬢、異世界でアイドルをマネジメント  作者: 千山芽佳


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悲しい前世


 『僕』には父親がいない。


 物心つく頃からそれが当たり前だと思っていたし、片親であるのは珍しいことでもなかったので特に気にしたことはなかった。

 父親の話をする友達を羨ましいと思ったこともあった。

 それでも、旅館で働く母は疲れた顔で帰ってくると必ず僕を笑顔で抱きしめてくれたし、祖父母がいたおかげで一人で過ごす時間はなかった。


「ばーちゃん僕のお父ちゃんてどんな人か知っとる?」


 一度だけ、母の夜勤を見計らい台所に立つ祖母に聞いたことがある。

 まな板を軽快に叩いていた包丁の音がピタリと止まり、祖母は振り返らずに「ばーちゃんはわからへん」と、素っ気なく答えた。

 祖母にとって父は、口にするのも憚れる男なのだと知り、それ以降は聞くのが怖くなった。

 母からも父のことを聞かされることもなく、それなりに幸せな幼少期を過ごした。


 成長した僕は飲食店でバイトをしながら大学に通い始めた。

 大学では友達の紹介ではじめて彼女ができた。

 交際2年目。

 資格も取り就職も内定し、なにもかもが順調で、僕は浮かれていた。

 彼女との結婚を想像して、そこで忘れかけていた父親という存在を思い出した。


「俺な、生まれた時から父親がおらんねん。そういうのあっちの親って気にするかな」

「えー別に珍しくないし気にしないんちゃう?」

「ほんならよかったわ」

「急にどうしたよ。ん?」

「いやー、将来のこと考えたらね、先に言っといた方がええかなーって」

「オールクリアやで。どんと来い」

「……ビール飲む?」

「おいこら結婚の話どーした。こちとらいつでもウエルカムやで!」

「逆に怖なったわ」

「なんでやねん!」


 僕が二人の未来を語る時、彼女は嬉しそうに耳を傾ける。冗談を言いながら、身を寄せて甘える彼女を、心の底から幸せにしたいと思った。

 僕の人生に父親がいなくても困ることはなかったし、母が言いづらいことなら今後も聞くつもりはない。

 このまま僕と父は交わることなく生きていくのだと、そう思っていた。



「あの子、叡知に似てない?」

「ほんまや。ごっつ似てるわ」


 通学に利用していた電車の中でのことだった。

 母くらいのおばさん二人が、座席からドア付近に立つ僕を見て話している。


(なんや不躾に。えいちって誰や)


 残り僅かな充電は帰り道に彼女と話すために取っておいたが、諦めてイヤホンをつけることにした。


「叡知ってさ、自分の子供身籠った女殺そうとしたやんな」

「そそ。そんで間違うて無関係の女殺してもーてん」

「助かった妊婦ってその後子供産んだんかな」

「えー!? 産めないんちゃう? 自分のせいで人死んでるのに産めるかぁ? 子供も人生悲惨やで?」

「ほんまやな」


 周囲に気を配れないおばさん二人の大声に、車内の人も怪訝な顔を浮かべていた。

 だが僕だけは、なぜかおばさん達の話を聞き流せなかった。持っていたイヤホンを耳にかけることなくしまう。

 なんだか嫌な感じがして、僕はスマホの画面をスライドした。

 『叡知』と入れただけで関連ワードがズラリと並ぶ。   

 『エスプリ』『殺人犯』『妊婦』

 その中の一つ、『恋人』のワードを検索してみた。


『恋人とされる女性は明らかにされていない』


 相手の女性について明解な答えは得られなかった。

 次に、検索ワード上位にあった『被害者』を調べた。

 画面が切り替わった瞬間、『西阪大学出身』という言葉が目に止まり、被害女性の経歴を見て目の前が真っ暗になった。

 西阪大学は母の出身校。

 被害者の年齢は母と同じ。

 僕が生まれたのは、事件の翌年だ。


(そんな……まさか、な)


 電車の中で聞いたおばさん達の会話が耳の奥で反芻する。


『あの子、叡知に似てない?』




「お帰り! 夕飯もう少し待ってな。先に弁当出してー。今朝みたいなんやめてよもー」

「……」

「なに? ボーッと突っ立って。そこ邪魔やで」


 玄関を開けて母の顔を見た瞬間、これまで我慢して飲み込んできた言葉と感情が、堰をきったかのように溢れた。


 僕の言葉に、母が驚愕に目を見開く。

 確認するために聞いたはずが、はじめから確信していたかのように強い言葉ばかりが止めどなく流れた。


 僕の父親はアイドルをしていたのか。

 名前は叡知。

 殺人犯なのか。

 僕と母を殺そうとしたのか。


「僕のせいでーー、なんの関係もない人が殺されたんか!?」


 怒声が家中に響き渡る。

 祖父母が慌てて2階から駆け下りてきた。

 僕は答えずに泣き崩れる母に掴みかかった。


「なんでや!  なんで僕を産んだんや!」


  祖父母の手が僕を引き剥がす。

 母の涙が床にぽたりぽたりと落ちた。その音が僕の心をぐちゃぐちゃに切り裂く。


「言えよ全部! 黙ってないで言えや!」


 なぜ僕を産んだのか。

 よくそんなことが出来たな。

 目の前で泣き崩れる母を、持っている言葉の限りで罵倒した。

 被害者のように泣き崩れる母を卑怯だと思った。

 なにも知らず、知ろうともせずに生きてきた自分を馬鹿だと思った。


「いい加減にしろ!」


 母の胸ぐらを掴んで揺する僕の頬を、祖父が平手打ちした。


「なんでやねん! なんで僕が叩かれなあかんねん! 悪いのはこいつやろ! ふざけんな! お前ら全員グルか!」

「親に向かってこいつとはなんだ!」

「こんなやつ親でもなんでもねーよ!」


 遠くで祖母がやめてくれと泣き叫ぶ。

 話せとは言ったが、みんな話ができる状態ではなかった。

 ここには一秒たりともいたくはないと、祖父母の制止を振り切り家を飛び出した。


 いつもなら人目を気にして整える前髪も、汗でぐちゃぐちゃになった顔も、どうでもよかった。

 心臓が破裂しそうなほど鼓動が速まっても、足がもつれても、行き先などなくても、自分を痛めつけるように、走る。

 母の泣き崩れた顔、祖父の怒った顔、祖母の困惑した顔、頬の痛み、電車の女たちの言葉。それらが頭の中でぐるぐると渦を巻く。

 あの家、この町、自分自身から、とにかく逃げ出してしまいたかった。


 気がつくと、見知らぬ駅のロータリーで生け垣に座っていた。

 ポタリ、ポタリと前髪をつたって汗がアスファルトに落ちていく。

 ただ時間だけが過ぎていった。

 終電も過ぎると、警官に声をかけられのそりと立ち上がって移動した。

 行くあてもなく歩きながら、ポケットにしまったままのスマホを取り出す。

 電源をオンにすると、溜まっていた通知音が鳴り止まなかった。

 母や祖父母からの大量の着信に加え、友人からも心配の通知があった。


『家の人から連絡来たよ』


 夜風と共に届いた彼女のメッセージに、激しく心が揺らいだ。


『今どこ?』

『電話して』

『大丈夫やんな?』

『お願い』

『無事でいて』


 彼女の不安が画面越しに伝わる。

 通話ボタンに手を掛けかけたが、押すことはなかった。もう、押せはしないと思った。

 膝から崩れ落ち、堰を切ったように一目もはばからず涙する。

 幸せな未来なんてはじめからなかった。

 僕のせいで、無関係の善良な女性の命が絶たれたのだ。

 他人の命を犠牲にして自分だけ幸せを望めるわけがない。

 順風満帆だと笑っていた僕の人生が、音を立てて崩れていく。

 押し寄せる絶望と、激しい怒りでどうにかなりそうだ。

 母からの鳴り止まない通知に嫌気がさし、『もう家には帰らない』と書きなぐるようにメッセージを打ち込んだ。

 始発電車のアナウンスを聞きながら、ホームの黄色い線の内側で送信ボタンを押す。

 快速電車の風圧を頬に当てながら、ぼんやりとする頭でこんな汚い自分を、この世から今すぐにでも消してしまいたいと思った。


「……」


 このまま、死んでしまおうか。

 線を跨ぐように一歩前へと出る。

 呼吸が荒くなり、体が震える。同時に、手に持ったスマホも小さく振動した。

 メッセージは母からだった。


『守られた命を、どうか大事にしてほしい』


「……なんだよ、それ……」


 本当に卑怯な人だ。

 まるで命を絶とうとするのがいけないことのように、生だけでは飽きたらず、死さえも思い通りにさせてはもらえない。

 それでも、母の言葉は最悪を回避するには十分だった。

 駅員のアナウンスで、黄色い線から半歩はみ出していた足を引っ込める。

 電車が止まり、ドアが開いた。

 行き先は決まっていない。それでも、震える足で一歩を踏み出した。

 この命は簡単に手離していいものではないと、漠然と感じるものが心の中にあったから。



 そこから三年は、自暴自棄で自堕落な生活を送った。

 見知らぬ土地で人には話せないような悪いことにも手を染めた。

 底辺まで落ちて、落ちて、落ちてようやく、自分は生きることを手離せないのだと知った。

 失ったものも多いが、僕にとっては自身を痛め付けるのに必要な時間だったと思う。

 底辺から這い上がって、まともな暮らしになっても実家に帰ることはなかった。


 家を飛び出てから、30年が経っていた。


 恋人も結婚も、つくらないししないと決めた。

 ただただ与えられた人生を、ほんの少しだけ、誰かの役に立ちながら死んでいければいい。

 僕を守って死んだ、あの人に対してのささやかな許しと罪滅ぼしだった。


 母と再会したのは、僕が50を過ぎた頃だった。


 偶然会った昔の知り合いから、家族のことを聞いた。

 祖父母はすでに他界しており、母はガンに侵されていた。

 僕は30年ぶりに実家に戻り、末期ガンの母と、最期の数日を共に過ごした。

 それはずっと聞きたかった、僕の恩人と、父のその後の話を聞くためだった。


「……ありがとう」


 母の声は弱々しく、病室の白い壁に消えていった。首をかしげると、彼女はかすれた声で続けた。


「生きててくれて……」


 その言葉に、胸の奥が締め付けられた。

 かつては母を憎んだ。なぜこんな人生を押し付けたのかと。だが、彼女の痩せ細った手を見ていると、感情のままに責めることは出来なかった。

 ずいぶんと時間はかかったが、母を憎む気持ちはもうなかった。



 ***



「叡智は父で、マリは僕の母です。あなたの最期の言葉は、病床の母から聞きました」


 エスタは驚いた顔をしていた。


「まさかあの時の、お腹の中にいた子……?」


『僕』ことディーゴは、ゆっくりと頷いたあと、頭を下げた。


「はい……。僕のせいでーー」

「無事に生まれたんだね!」


 弾んだ声が耳に届き、驚いて顔を上げる。

 そこには、当然のように『僕』の誕生を心から喜び、顔をほころばせるエスタの姿があった。

 その笑顔を見て、張り詰めていた緊張の糸が切れた。

 まっすぐ前を向いたまま、頬に一筋の涙が流れる。


「ど、どうしたの!?」

「……っ恨まれても仕方ないと思ってました。俺のせいであなたは死んだんですから」


 声が震え、言葉が喉に詰まる。ずっと封じてきた罪悪感が胸の奥から溢れ出し、頬を伝う涙を止めることができなかった。


「……あのさ、私はディーゴのせいで死んだなんて思ってないよ。だってあなたはなにも悪くない。そうでしょう?」


 ディーゴは顔を歪ませた。


「僕だって何度もそう思おうとした! だけど、それを僕が決めるのは違うじゃないか!」


 もう亡くなってしまった人の心を知ることも、許しを乞うことも出来はしなかった。

 休日の読書、仕事の飲み会帰り、ささやかな外食、穏やかな日常を取り戻しても、ふとした時に罪悪感が押し寄せ、どうにも立ち行かない時があった。

 その度に父と母を恨んだ。

 こんな人生なら生まれない方がマシだったと、何度思ったことか。

 誰かを恨む気持ちは、胸の奥で重く淀んだ感情として渦巻き、この重荷をいつまで背負うのか、しんどくて、かといってその問いに答えは出ないまま、心だけが疲弊していった。

 罪悪感は消えることなく死ぬまであり続けた。

 それが、転生してエスタに出会って、その答えを知る日が来ようとは、夢にも思わなかった。

 感情のままに叫んだディーゴに、エスタは目を見開いて驚いていた。


「ーーあ、すんません!」


 エスタに声をあらげてしまったことを後悔した。

 それでも彼女の瞳には憎しみも怒りもなかった。純粋な喜びと、少しの戸惑いがあるだけ。


「そっか……。私が死んだことであなたには重い責を背負わせてしまったんだね」

「……」

「ごめん」

「! 謝らないでください! エスタさんこそ何も悪くないんスから!」


 慌てて顔を上げるよう手を伸ばす。彼女が謝るようなことは何一つないし、あってはならない。

 顔を上げたエスタは、ふと遠くを見るように目を細めた。


「私ね、死んだ時のことは覚えてるけど、それ以外の記憶はぼんやりしてるの。だけどディーゴは違うんだね」

「……はい。俺は全部、覚えています」

「私が死んだ後も二人の人生は続いていて、そこにはたくさんの苦悩があったんだね」


 エスタは顔を歪め、それがどんなに辛いことかとディーゴを慮った。


「マリのこと、今でも恨んでる?」

「はじめは恨みもしましたが、離れて暮らしてからは最期を看取れるくらいには薄れていたように思います。それでも、俺とエスタさんには両親を恨む権利はあると思う。……エスタさんは、母を恨んでいますか?」

「いいえ。マリのことは恨むっていうより、憎たらしいが勝るのよね。今も昔も」


 エスタは困ったように眉尻を下げて笑って見せた。


「マリは困難から真っ先に逃げるような子だった。だからあなたを生む選択は並大抵の覚悟じゃなかったと思う」

「……」

「ディーゴには両親を恨む権利がある。同時に私にも権利がある。記憶も曖昧だからこんなことが言えるんだろうって思うかもしれないけど。私は彼女を誉めてあげたい。『マリようやった! 頑張ったな! ありがとう!』て、心から……」


 エスタがあまりにも眩しくて、室内にいるのに目を細めた。

 彼女は本心から母を許していた。そして、生まれてきた『僕』を否定せず、肯定してくれた。

 それが彼女の優しさだと気づいて、喉の奥から込み上げるものをグッと我慢した。

 潤んだ視界に遠い日の記憶が蘇る。

 夜遅くまで旅館で働き、疲れ果てた顔で帰宅しても、真っ先に僕を抱きしめてくれた温もり。

 僕が寝静まった後、母が台所で一人泣いていた。

 小さな声で『ごめんな、守りたかってん』 と呟いていた言葉。

 その言葉の意味を、誰に向けられた言葉だったのかを、子供の僕は理解できなかったが、今ならわかる。


「ディーゴ。最期まで命を全うしてくれてありがとう。あなたのおかげで、前世の私は報われた」


 こんなにも優しく、こんなにも強く、僕の存在を肯定してくれる。


「エスタさん、ごめんなさい。僕の方こそ、助けてくれて……っありがとうございました!」

「うん」


 エスタも少し泣いたのか、目尻を拭った。

 すぐに顔を上げて笑顔を向ける。


「なんかさ、マリも案外近いところで転生してると思わない?」

「ブフッ」


 僕は泣きながら吹き出した。


「しっかしあの子が独身貫いたなんて想像できひんわー」


 そう言ってエスタは快活に笑った。


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