第206話 異変
――北方の北の果てに行ったら虹の袂を目指せ。
グランジスタから教えてもらった魔境に入る方法だ。
無論、現実的には虹の袂なんて絶対にたどり着けない。
しかしその虹に限り、袂に到達することができる。
なぜならそれが人為的、いや、神為的に造られた物だからだ。
「乙女チックというかロマンティックというか……、なんで虹?」
僕らは今、北方大陸の北の果てに掛かった虹の袂にいる。
さっきからリザは虹のカーテンを指で突っついているが、反対側に指が突き抜けないため、虹の向こう側は異次元に通じていることがうかがえる。
『虹にしたのは感情的理由でなく、合理的理由によるものだ』
「でも秘密の出入口にしては、ちょっと目立ち過ぎじゃん?」
『あまり煩雑な手順を設定してしまうと阿呆共が戻って来られぬであろう?』
「た、確かに……」
ぐうの音も出なかった。
出入口を利用するのは魔人だけとは限らない。低級の亜人や魔獣が戻れず迷子になるのを防ぐ必要がある。それとも魔人たちのことを阿呆だとディスっているのだろうか。
どちらにしてもなんてお優しいのでしょう、さすが魔神ヴァルヴォルグ様だ。そのせいで魔境が勇者たちに蹂躙されかけた事実もあるが、それは置いておいて、いざ魔境へ。
特に儀式的な作業もなく虹の袂を抜けると、眼前に荒れた大地が広がっていた。
見渡す限りの広陵とした大地、堅い岩々に覆われている。草木の一本も見当たらない。
「おお、なかなかの魔界感じゃないか」
贅沢をいえば空は薄暗く厚い灰色の雷雲で覆われていて雷がバリバリと走っているともっと良かった。
『元は豊かな大地が広がっていたのだ』
まるで遠くを見つめるようにヴァルは言った。
『あやつらはあればあるだけ資源を喰い尽くしてしまう……、それが性なのだろう』
なんて声を掛けていいのか分からない。
いつまでも働かないダメ息子に長年悩む年老いた親のような重みを感じる。
ご愁傷様、お前も苦労したんだな。僕は心の中で彼の苦労をねぎらった。
やるせない微妙な空気が流れはじめたところで、僕は話題を逸らす。
「あ、あー……そういえばなんだか魔力が漲っている気がするな」
空を飛んだからそれなりに魔力を消費しているはずなのに、体内の魔力が満ち満ちている。
『左様、我がそう設定した。この亜空間では魔力が普段の倍に跳ね上がり、逆に加護はほとんど使えなくなる』
「え? あ、本当だ……。精霊の反応がめちゃ鈍い、魔境は魔人優位のフィールドってことか」
『三英雄にやられたことを踏まえた対策だ。気を付けろ、今まで通りにはいかぬぞ』
「ああ、シルフの加護なしだと剣技や回復が制約されるからな」
「主よ、さっそく魔王の元へ向かうのかや?」
「うん、そう思っていたんだけど少しだけ現地で情報収集していこう」
「情報収集?」
「兵士以外の魔人のことをもっと知りたい。一般の魔人たちがどういう生活をしているのか、なにを食べているのか、なにを考えているのかとか。友好関係を結ぶためにも必要だ」
「ふむ」
「なあヴァル、近くに魔人の村とかあるか? 軍事施設じゃなくて民間人が住んでる集落だ」
『ここから一番近い村となるとあっちだ』
僕の頭の中のヴァルが東を指さした。
『歩くと一時間ほどだが、飛ぶならものの数分だ』
「よし、行くか」と僕らは空に舞い上がる。
――と、いうことで魔境での初飛行だ。
魔法で飛んでいる僕はすこぶる快調だけど、リザはすこし飛びにくそうである。翼が捉える空気や風の性質に違いがあるのかもしれない。
そしてヴァルが言ったとおり、数分で小さな集落が見えてきた。粘土のような素材で建てられた家々、畑を耕す住民の姿がぽつぽつと確認できる。遠目から見ても魔人たちが来ている衣服は、牢屋にいた獣人が着ていた物とさほど大差ない。
生活水準が高いとは言い難い。
「これが魔人の村? 思っていたよりもひどいな……」
魔人の村に降り立った僕は思わずそう口にしていた。これまで見てきた人族のどこよりも貧しい。
「お、おお……。立派な服を着た位の高い御方よ。どうかお恵みを……」
年老いた魔人が腕を伸ばしてきた。僕の袖を掴もうとしたところで老魔人の手が止まる。
「つ、角がない……? ひぃっ! ヤ、ヤルド!?」
「ヤルド?」
『魔人側の人族の呼称だ』
老魔人は尻もちを付いた。腰が抜けて動けないようだ。逃げることもできず怯えている。
人族はこれほどまで魔人に恐怖を与える存在なのか……。
「ヒャッハーッ!!」
ひどく世紀末っぽい雄叫びが聞こえてきたのは、そのときだった。
「ひゃっはー?」
何かが土煙を上げて村に向って走ってくる。それは手長猿のような容姿をした巨大な魔獣の集団だった。
その魔獣の背中には人らしき生物が乗っている。剣や斧を振り上げて迫りくるあいつらは雰囲気からして、こちらの世界の野盗のようだ。
「ああ……、なんてことだ……。また奴らが来やがった……」怯える老魔人は声を震わせた。
やがてはっきりと野盗たちの姿を捉え、僕は自分の目を疑った。
魔獣の背に乗っている者たちが、リタニアス兵の甲冑を纏っていたからだ。




