第175話 解読
すこし埃っぽいけど整理整頓されている。
バベルの門の地下室、その入口から北に五歩、東に六歩進んだ床を七回叩くと隠し部屋の扉が開く。扉を開けた先のさらなる地下室の壁は本で埋め尽くされていた。
この十数年の間にミレア仕様にカスタマイズされているようだ。四方の本棚に収まるのはすべて禁書に違いない。
彼女はその書架の密林からアルデラの魔導書を迷いなく手に取り、僕の元へと持ってきた。
「思っていた通りだ……」
本を開いた僕の眼に飛び込んできたのは、かつて目にしたバグった記号の羅列ではなく、この世界の標準文字だった。
「……読めるんですか? 前世では読めなかったページが……」
「ああ、読める。やっぱり転生することが鍵だったんだ。転生魔法を使ったことで封印が解除された」
前世では読むことができなかった内容が全部読める。
時間停止魔法も、時間遡行魔法も、透視術も、若返りの術式も、スプーンを曲げる魔法も、コーヒーを紅茶に変える魔法も、必要な呪文や魔法陣が図解入りで記されている。
『ふむ、面白い』
「わわっ!? だ、誰なのですか!?」
どこからともなく聞こえてきたヴァルの声に驚いたミレアが周囲を見回している。
『奇天烈な術を考える者もいたものだ』
「まあ、そいつがラスボスなんだけどな」と僕は返す。
「だだっ、誰と話してるのですか!?」
「ミレア、キミがこの部屋でボクに何をしたか覚えているかい?」
アルデラの書から目を話してミレアを見た。
「え? ええ、もちろんなのです……。古代エルフの耳と偽魔神の右腕のミイラをユウさんにドッキングして……ま、まさか……」
はっとミレアは青い瞳を見開いた。
「そう、僕の右腕には魔神ヴァルヴォルグが宿っているんだ」
「そんな……、ユウさんに右腕にくっ付けたあの右腕が……じゃあ、さっきの声はッ!?」
「ああ、魔神ヴァルヴォルグだよ」
「っ!?」
碧眼を見開いたミレアは両手で口元を覆う。
「し、信じられません……。まさか本当に本物だったなんて……」
って、おいおい、やっぱり最初から信じてなかったのか……。しかし今は追求しないでおこう。
「今日は驚くことばかりなのですよ……」
そう言いながらミレアが僕の右腕に触れようとしたので、僕は彼女の手を払った。
「迂闊に触っちゃ危険だ!」
「ご、ごめんなさいなのです……つ、つい触りたくなってしまいました」
「注意してくれ、魔神ヴァルヴォルグの正体はとんでもない淫獣だったんだ」
「淫獣?」
「そう、いらやしい獣だ。だから油断してはいけない。スキあらばヤツはキミを食べようとしてくるはずだ!」
「た、たべる?」
「とんでもないヤリ○ンなんだよ、こいつは。きっとヤツは僕が寝ている間に僕の姿でキミに近づいて来る。甘い言葉にかどわかされないように」
僕はかつてないほど真剣だった。
「ユウさん……」
ミレアは自身の豊満な胸を両手で隠すように覆う。
「胸を見ながら話すの、やめてください」
「いや、僕はおっぱいに話しかけていたんだ」
「もっと失礼なのです!」
「とにかくだ、ミレア!」
僕は彼女の両肩を掴んで引き寄せる。
「ひゃ!」
「僕はキミが魔神に食べられることを了承できない! 納得できない!」
「どうしてそこまで……私とユウさんは別に恋人同士でもないですよね?」
「そ、それは……上手く言葉では言い表せないけれど……嫌なんだ……。朝起きたときに前世で関わりが深かった人が裸で隣に寝ていたら、ちょっと立ち直れない……」
ふっとミレアは息を付いた。視線を泳がす僕に微苦笑を浮かべる。
「分かりました。ユウさんが夜這いに来たときは気を付けるようにします」
その言葉に僕は胸をなでおろす。
「ということだ、ヴァル。残念だったな」
勝ち誇って天井を見上げた僕の挑発にヴァルは乗らず、こう返してきた。
『ところでユウよ、この書にある時間を止める魔法を試してみたくはないか?』
なぬ? それは実に魅力的な提案である。
「できるのか?」
『無論、我は神だ。そしてユウも体験すれば時間停止魔法が使えようになるはずだ。枷が外れた術を覚えるのはさほど難しくはないからな』
「……もう一度聞こう。ヴァルは時間停止魔法が使えると? そして僕も使えるようになると?」
『可能だ』
「是が非でもやってみてくれ!」
『よかろう』
「うひょいッ!」
僕は思わず拳を突き上げていた。
もしこの場の時間が止まったらミレアのアレに顔をうずめてパフパフして好きなだけ揉んで、それからむしゃぶりついて、さらに色々と弄んだ後に、僕のアレをあーしてこーして、あんなことやそんなことまでが可能にッ!?
「ちょ、ちょっと待ってくださいなのです!」
なにやらミレアは慌てている。そんな彼女に僕は紳士的な態度で応じる。
「マドモアゼル、そんなに慌ててどうなされた? なにか問題でもおありかな?」
「いえ、その、ものすっごく嫌な予感がするのですけど……」
「なにをバカな!? 嫌な予感なんて一切しないよ! むしろ僕はウキウキだよ!」
「ウキウキしてるから不安なんですよ!」
「ウキウキするのは新しい魔法を覚える喜びに震えているからだぜ?」
「ならどうして目を逸らしているんですか?」
「うっ……」
僕は股間を抑えた。間違えた、両手で浮つく目を隠してノールックモンキースタイルにトランスフォームだ。
『ミレア、案ずることはない。この魔法は不完全である』ヴァルは言った。
「不完全?」
『うむ、論より証拠。先にミレアに魔法を掛けてみせよう』
「わ、私になのですか!?」
「なっ!? ズルいぞヴァル! 僕が先だ!」
『ではゆくぞ』
ヴァルは僕をシカトした。そのまま体の占有権を奪われてしまう。
瞬きほどの時間で精神が入れ替わり、ヴァルはミレアの額に触れて時間停止魔法を掛ける――。
「……」
「……?」
しかし何も変化はない。ミレアも僕も同じ位置に立っている。もっとも魔法の影響を受けたのはミレアだ。時間が止まっていた僕に分かるはずもない。
『ミレア以外の時間が十秒ほど停止していた』
「なにも起きませんでしたけど……」
『いや、確かに時は止まっていたのだ』
「どういうことだよ?」僕はヴァルに聞いた。
『つまりこの術では知覚することができないのだ。術者は停止した世界で見ることも聞くことも動くこともできない』
「意味ないじゃん!」
『だから不完全といったであろう。これを完成させるよりも時間を遅延させる術を改良していった方がよかろう。そしてこの書に記された術はどれも未完成や欠陥のある物ばかりだ』
「ああー……」
今世紀一番のがっかりだった。




