ふと思う。『生きろ』という癖に、口を開けば『生きる意味』を語るのはなぜ。
私は鬱になってから生きる意味についてよく考えるようになったが、考えれば考えるほど、私の生きている意味はわからずじまいだ。
でも同時に、生きる意味って最初は誰もが持っていないんだという考えに至った。
なんで生きているんだろうと考えても、産まれたから生きているというのが本質であることに変わりはない。
そして赤ん坊は己の生きる意味がなくても生きるために泣くのだ。
じゃあみんなが言っている、私が欲している生きる理由ってなんだろうと考えた時、幸福を欲しているのだと思いついた。
それは愛でもいいし、趣味でもいいし、大切なものでもいい。
私はきっと少しでも幸福に浸れる何かが欲しいのだと思う。
本来生きるためのブーストに過ぎない『それ』を生きるための『条件』と定義づけたのは、果たして外部からもたらされたものなのか、私自身が至ったものなのか、人間自体の習性なのかよくわからない。
私の価値観には、生きるには生きる意味が必要という固定観念がこびりついている。
命は大事だ。
その通りである。
生きててほしい。
その通りである。
そのくせ、より良い人生を生きるのには、生きる意味が必要と声高に叫ばれる。
生きる意味なんて簡単に見つかるものじゃないのに、公共の場で人は平気で『わけもわからぬそれ』を語るのだ。
多くの場合『それ』を意識せずに過ごせている。
けれど、そんな人生を通して発見したり、無くしたりする、そんなあやふやなものを求められて困惑しない人間がいるだろうか。苦しまない人がいるだろうか。
せめて生きる意味を見出した人間を見てなんとも思わないことが出来たなら、私は恐らくこれほどまでに苦しまなかっただろうし、考えすらしなかったと思う。
でも現代の価値観で生きる私には、それはあまりにも眩しくて尊いものに思えてしまうのだ。
それほど魅力的に見えるからこそ、私はそれを描く作品が好きなのだろうとも思えるほどに。
『生きる意味』は私をどん底へと落とし、時に引き上げるが、だからこそ、私へ、私の同類へ生きてほしいと語る口で、生きる意味を語るのは致命的であると思うのだ。
プロになるために頑張る人たちはプロになれなければ、あるいは関係のある道、あるいは諦念のもとドロップアウトを決めるだろう。そのことは残念ではあれが『生きる』ことに問題はない。
けれど『生きる意味』を見出せない人間のドロップアウトとは? それを考えると、『生きる意味』を語ることの残酷さを思い知る。
本来生きたいだけの欲求しか持っていないはずの私は、よりよい人生を歩みたくなり、生きる意味を探し、さ迷い、苦しみ、いつか訪れるであろう答えを待ち望んでいる。
でもいつまでたっても見つからないし、見つけられる気もしない。
なんなら見つけているように見える人は、本当に見つけられているのだろうかとすら考えてしまう。
だからといって、どうしたらいいかなんて生きる意味の必要性を語る人たちは答えなんてくれない。なぜなら生きる意味は自分で見出すものだかららしい。
確かに他者から与えらるだけ、依存するだけで健全とは言えないだろう。
だがそれ以外に見つけられないのならそれ以外の幸福は存在するのだろうか?
それは健全ではないからやめておけ、もっといい生きる意味を見つける事が出来ると語る人を見るたびに思い知らされる。
人って気軽に優しい顔で残酷なことが言えるのだと。
でも同時に納得もするのだ。他者を不幸に陥れる依存もあるから仕方のないことだと。
生きる意味を求めた結果、他者の『生きる』を阻害する存在になり、そして『生きる』ことが難しくなる。これが生き地獄でなくてなんなのだろう。
この地獄を越えた先に何かがあると語るものもいる。
けれどそれは語っている人間が『その人の地獄』を超えた先で見つけたものであって、結局私が見出せるものかどうかはわからないのだ。
もしかしたら私は「だらだら生きていい、生きる意味がもし見つかったらそれから頑張ればいい」と言ってほしかったのかもしれない。
正論は救いではないのだ。
もし『生きる』ことに『生きる意味』を求めることを語る人が、自分自身のように幸福になってほしいと願いを込めるなら
私は『生きる』ことに『生きる意味』を求めないでいいと教えたい。
私みたいにはなってほしくないから。
考えた方がいいことは山ほどある。『生きる意味』なんて気にせず生きられるならそれが一番




