16.
当初、戦局は俺の不利だった。
体格と筋力に代表されるスペックの差がとにかくひどい。
こっちは下生えの所為で足さばきに四苦八苦だってのに、まるで更地を行くように、デュマは平然とに平然と闊歩する。
巨体ならば木立の密集した地帯では動きにくかろうと思いきや、或いは蛇のように柔軟に身をくねらせて、或いは生木をへし折って肉薄してくる。
そうして振るわれる、鈍くぎらつく鉤爪。それは死神の鎌さながらだ。もしクリーンヒットを許そうものなら、その部位は容赦なく砕き抉られる事だろう。
俺とデュマの身体能力には、大人と子供かそれ以上の開きがあった。これなら魔法が使える状態のこいつの方がまだ与し易かったんじゃあるまいかなんて、そんな弱気にもさせられた。
躱しはならず、どうにか盾で受け止めても、防ぎごとそのまま薙ぎ払われる。幾度も吹き飛ばされ地面を転がり、俺は全身切り傷擦り傷だらけの泥まみれになる。
でも、それで済んでいるのが僥倖だ。法王府の防具やタマちゃんのお守りがなかったら、きっともっとひどい目を見ていた事だろう。
けれどその攻勢を必死で凌ぐうちに目が慣れてきて、すると気がつく。
デュマは自身の圧倒的な性能を、決して使いこなせてはいない。言うなれば拳銃で殴りかかってきているようなものだ。
例えば亜龍の体は、口を使った攻撃に適している。道具を扱う両腕は備えるけれど、やはり四足獣に近い体の構造なのだ。だけれデュマは牙を用いない。毒の息も吐きはしない。ただ無闇に両腕を使って殴ろうとして不格好な事になっている。
結局のところ、こいつは人間の範疇でしか戦っいてないし、戦えていないのだ。
その所為で動作が歪で連続していなくて、だから巨体の醸すプレッシャーに飲まれずよく見れば、モーションの起こりがちゃんと分かる。
振るわれるデュマの爪に対して一歩踏み込む。その軌道を読んで、力が乗り切る前に盾で捌く。
自分の激情と相手の殺意に囚われて、こんな事も忘れていた。
「真正面から受け止めるのではなく、力の方向を見極めて受け流せ」とはナナちゃんが口を酸っぱくして言っていた事だ。そうして相手の態勢を崩し、自身は磐石の姿勢から反撃を行う。
まあ、勿論それは理想形である。
なんせ相手は亜龍の馬鹿力だ。
上手くやれるのは数度に一度で、後はどうにか傷を負わないようにしているのに過ぎない。しかしさっきまでみたいに、ガードごと張り倒されるなんて無様は忽ちになくなった。
確かに一発一発の破壊力は驚異的だけれど、でも真っ正直に飛んでくる亜龍のそれは、ナナちゃんやおっちゃんの攻撃に比べたら圧倒的に反応しやすい。
デュマはこちらの意味でも、喧嘩の仕方を知らないようだった。
フェイントや駆け引きは上手くないし、立ち回りの流れを、「次」や「先」の道筋を考えて動けていない。ただ状況状況に反応し、対応しているだけなのだ。
受けて捌いて斬りつけて。止めて転げて刺し貫いて。
痛み。熱。呼吸。乱れて早い三つのリズムが繰り返しながら、それでもこうして余裕を持って思考できるのは、さんざんに稽古をつけてもらったお陰で間違いはなかった。ナナちゃんには幾度お礼を言っても足りないなと思う。
ただ残念ながら、俺の切っ先は有効打を与えているとは言い難い。
法王府謹製の刃は、俺みたいな素人の手にあってもその役目を十分に果たしてくれている。けれど亜龍の鱗は想像以上に硬質で、引っかき傷をつけて、わずかにその青い血を滴らせるのがどうにかなのだ。
けれどデュマが焦れていくのが、手に取るように分かった。
こいつは自分が傷つくのに慣れていない。
だから必要以上に刃を怖がる。天然の鎧を着込んでるようなものなのに、刃先に明らかで強い恐怖心を抱いている。斬られ突かれるその度に、実際に受けた以上の打撃を受けたと錯覚し──だから必要以上に竦み、必要以上に逃げる。
付け目だった
怯えは呼吸を乱し、体力を奪う。
亜龍とはいえ、スタミナは無尽蔵じゃないはずだ。俺の剣に踊らされ、いずれ動きも鈍るだろう。
ならば決定的な機はいつか、そして必ず訪れる。
翻訳されない唸りを上げて、デュマがまた左腕を振り回す。
それは俺からすれば右手側、盾のない側からの渾身だけれど、相変わらず通達してからの一撃だ。
身を沈めて掻い潜り、空振りした腕の肘を狙って、動きの押しをする形で斜め下から盾をかち上げる。その反作用を利して俺はデュマの左側面へステップ。
右足を軸に半回転しながら刺突を繰り出し──かけた腕に何かが絡んだ。
一瞬枝か何かかと思ったけれど、違う。
それは尾だった。
俺の右前腕を手首の翻訳さんごと巻き取って、長い亜龍の尾が俺の動きを封じている。今までデュマが一度も用いず、それだけに俺の意識の死角になっていた箇所だった。
「……っ、この!」
しかし不意こそ突かれたものの、デュマはまだこの器官を使いこなせていないと見えた。
確かに血圧測定の機械みたいな圧迫感はあるけれど、締め付る力はひどく弱い。亜龍本来の膂力を考えれば、それは赤ん坊の握力みたいなものだろう。
これならすぐに振り払えると、そう判断した直後だった。
「平伏せ」
デュマの唸りが通訳される。
呪紋励起の合言葉。
続けて何を思うよりも早く、全身に強烈な衝撃が走った。意思によらずびくんと体を硬直させて、俺はその場にくず折れる。
この感触には覚えがあった。あれだ。アンリの剣の電撃と同じだ。俺を行動不能に陥れたあの術式に似たものが、デュマの命を受けて翻訳さんから発生したのだ。
「懲罰機構だ。使わず終いだったのが功を奏したな」
勝ち誇る笑いを含んでデュマが言う。悠然と余裕の動きで俺へと向き直った。
くそ。とんだポカだ。大ポカだ。
情けなくへたり込んだ格好のまま歯噛みする。
魔符は、俺みたいに資質がない人間が魔法を使う為のアイテムだ。呪紋へ接触しながらの簡単な合言葉ひとつで起動できるのがウリの品である。
その合言葉は基本としてこちらの言語になるわけだけども、それが発声できない状態にも関わらず、先ほどデュマは翻訳さんの位置補足魔法を立ち上げてみせた。おそらくあの首飾りには翻訳さんと同様の、精神感応システムが組み込まれているのだろう。翻訳さんの製作者であるこいつにならば、それは可能な仕業のはずだった。
デュマは置換術の実験で起こりうる予測不能の事態に備えていたのだ。自身の魔法資質の喪失や人以外への置換の可能性までもを考慮して、周到に用心深く、そうした品を用意していたのだ。
そうしたものを眼前に見ておきながら、なんで警戒しなかった。翻訳さんもこいつが作り上げたもので、ならそうした機能がないはずがなかったのに。
しかも、ヒントはそれだけじゃない。
──お前を即時使い魔にできないという事態は容易に予期しうるものだ。
いつか聞いた、翻訳さんについてのシンシアの懸念。
それが今更のように脳裏を過ぎる。
──デュマの性状を考えるに、何の対策も施さなかったとは思い難い。ならばそれに、何らかの代行機能が仕組まれているのではないかと私は危惧している。
既にそう言ってもらっていたというのに、不覚だ。
デュマが魔符で翻訳さんの所在を確認したのは、俺が背嚢を投げ捨てた後の事である。それは俺の右手にあるのが同じ機能を持つよく似た腕輪ではなく、自分が作った翻訳さんそのものであると確認する為だったのだろう。
勝ち札を手に入れたデュマは、腹の中で笑いが止まらなかったはずだ。
ただ、今の雷撃はアンリのものと比べて大分威力が弱かった。
多分翻訳さんは翻訳機能こそが主であり、攻撃術式にはさほど大きな容量を割けなかったってのがその理由の半分くらいだろうか。そもそもお仕置き用であって、殺傷用じゃないってのもあるかもしれない。
だから俺の体は動こうという俺の意思に、わずかながらも応えてくれる。
でもそれを不幸中の幸いというべきかは難しいところだった。
「手間をかけてくれたものだ。返礼に腹から捌いて臓腑を抉り出してやろう」
わざとらしく足音を響かせながら、亜龍の巨躯がやって来る。
水の中でもがくよりももっと鈍重なその動きじゃあ、この悪意には対応できない。少しの希望が残るその分、無力感が増すばかりだ
これまたゆっくりと、デュマが腕を後方に引く。薙ぎ払うのではなく、貫手めいて突き出す溜めだ。
俺は盾を構えようとするけれど、鉛をたっぷり詰められたような腕はじりじりとしか持ち上がらない。間に合わない。
デュマの瞳が血飛沫の予感に細められ、
「……っ!」
次の瞬間。
腹部を襲った衝撃に、肺の中の空気が苦鳴として漏れた。地面に座り込んだままの体を脇腹からすくい上げられ、亜龍の膂力で宙に浮く。直線に近い放物線で吹き飛ばされて、遥か後方の木に背中から叩きつけられた。
幹にバウンドする格好で、俺はうつ伏せに地面に落ちる。
数瞬呼吸ができなくなって、それから咳き込んで猛烈にえづいた。内蔵が口から飛び出すかと思った。そんなはじめてのおつかいは認可できない。
剽げた思考で痛みを誤魔化し、そして自分の腹を見た。ひどい鈍痛はあれども、そこに風穴は空いていない。
デュマの鉤爪は突き立っていなかった。。
インパクトの瞬間、まるで同極の磁石同士みたいな反発が起きて、それで俺の体が大きく跳ね飛ばされたからだ。
このおかしな力が働く感触は、シンシアを庇ってアンリの切っ先に飛び込んだ時とそっくり同じだった。つまりは先ほどの雷撃を弱く感じた理由のもう半分、タマちゃんのお守りが機能したのだ。
いや今回は相手が相手な所為で逸らすとか弾くとかには至っていないけれど、もしこれがなかったら、俺は田楽刺しに刺し貫かれて百舌鳥の早贄みたいな有様になっていた事だろう。
「……護符か。随分と強力なものを用意したようだな。しぶとく粘る」
危ういところで命拾いしたわけになるけど、残念ながら状況は好転していない。
舌打ちめいたデュマの吠え声が聞こえる。追い詰められているのに変わりはなかった。
──くそ。
四つん這いの姿勢から立ち上がれない。
やはりお守りのお陰だろう。全身の痺れは急速に抜けつつあった。
けれど今の一撃のダメージが俺を蝕んでいる。ボディブローをもらって悶絶するなんて話があるけども、ちょうどそれに等しい状態だった。膝が震える。呼吸が上手くできない。
胴体を貫通こそしなかったものの、亜龍の爪は強烈な打撃として作用していた。鉄の棒を数本まとめて、力一杯腹に突き込まれたようなものだ。
「また小蝿めいて立ち回られても面倒だ。まずは足を潰すか。それとも腕がいいか。無力に逃げ回るのを狩ってやるのも一興だな」
ゆったりと近づいてくる、嬲る声。
勝機はあったはずなのに、みすみすそれを逃してしまった。一転して陥ったのは、逃れられない死地だった。
左手が浅く土を掻く。握り締めたままの剣を杖に縋ろうとしたけれど、それすらもままならない。
やっぱり駄目だ。
そんな言葉が頭を過ぎって、ふっと心の力が抜ける。
頑張ってみたけれど。何かが成し遂げられるような気がしたけれど。
でも結局駄目だった。所詮俺の器じゃなかった。
いつも通りだ。
これまでだって、ずっとそうだったじゃないか。どうせ俺は何一つも勝ち取れない。「今度こそ」なんて意気込んだって、欲しいものには必ず手が届かない。初めから全力で走らないようになったのは、だからだ。いつしかスタートするその前から、諦めるようになっていた。
ぽたり、地面に雫が溢れた。悔しさに滲んだ涙は、心が折れた証拠だった。
まるで許しを乞うて這い蹲る格好のまま、俺は顔だけを上げてデュマを見る。
亜龍の顎から牙が覗く。笑みのように歪に釣り上がる。人外のその姿が、俺にとっての死だった。
上から踏み抜く意図で、鉤爪が高く振り上げられるのが見えた。
見えはしたけれど、何をしようとも思えなかった。
元の世界の地獄と、こっちの世界の地獄と。俺は、死んだらどちらへ行くのだろう。
死後の世界なんて信じてなかったけれど、他人事めいてそんな事を考える。
弾みをつけて亜龍の腕が落ちてくる、その瞬間。
──馬鹿め。
優しく罵る、声が聞こえた。
気がつくと俺は樹木の天井を見上げていた。殆ど無意識に体を倒して半回転、仰向けになってデュマの一撃を逃れたのだ。
二度も仕留め損なって、デュマが憤激する気配がした。
追撃を逃れるべく俺は更に二転三転、下生えに転がり込んで身を隠す。
いつの間にか、淡く笑っていた。
ああ、まったく。まったく、俺は本当に大馬鹿だ。一体全体、何を勝手に諦めかけた? 約束、したんじゃないか。ちゃんと帰るって。
利かないはずだった体には、空っぽになってしまった心には、まだ何かが残っていた。
本当に、シンシアの言う通りだ。
それは立ち上がる力をくれる。歩いていく力をくれる。
こっちに喚ばれて俺は色んなものを失ったけれど。でもそれからまた得ていた。帰りたい場所を、俺は手に入れていたんだ。
足掻くとも。足掻いてやるとも。
最後のその時まで──いや、最後のその時にだって足掻き続けてやる。
「動くな!」
そのまま距離を得ると、どうにか片膝立ちになって俺は叫ぶ。
「動くな、エイク・デュマ。この剣は法王府特性の爆弾だ。俺の一言で爆裂する。俺の右手なんて簡単に木っ端微塵になるけどな、その時は勿論、この腕輪ごとだ。もう一度言うぞ。動くな。動けばお前の欲しがるものへ、永遠に手が届かなくなる」
重ねて告げて、左手に握り直した剣を翻訳さんに押し当てた。
肉迫しようとしていたデュマが、目に憎悪の炎を滾らせながら停止する。さながら猛獣使いの気分だった。
それにしても、やれやれだ。どうも俺は頭の回転が鈍くていけない。
ちょっと考えれば分かる事だった。デュマのウィークポイントなら、俺は最初から握り締めていたのだ。
魔法資質を失ったこいつは、今のままでは魔符を作れない。だからこそ、俺の腕にある翻訳さんに固執している。
最初に位置特定の魔符を使った理由もそれだ。あれは切り札の確認ではなく、絶対に損壊させてはならないものの在り処を確かめる事こそが本義だったのだ。
右手に、翻訳さんに巻き付いた尾の力を異様に弱く感じたのも、おそらくはその為だ。うっかり腕輪を破損してしまうのを恐れたのに違いなかった。
「理解したら少し下がれ。でもってまあ聞けよ」
腹部の鈍痛をポーカーフェイスで押し殺して、俺は努めて平静に言葉を編む。
近場の木へにじり寄り、肩を擦りつけるようにしながら立ち上がった。
「まあできるんなら、こいつを外してから粉微塵にして嘲笑ってやってもいいんだけど、これからの事を考えると迂闊には壊せない。なだこれの類似品は作れてないからさ。そうなると、お前に勝って帰った後に俺が困る」
一見相手の目標を制して有利に見えるこの状況だけれども、実際のところは依然俺に不利のままだ。
理由はずきずきと第二の鼓動のように、腹部数箇所から生じる激痛だ。このまま膠着状態を続けていたら、そのうちに意識を手放しかねない。そうなれば脅しも何もあったもんじゃない。
だからといっても、撤退は不可能だ。
こちらの居場所を探知できるデュマを撒いて逃げおおせるのは無理だし、もしそれと手傷がなかったとしても、体力で亜龍に勝てるとは思えない。疲労で弱ったところか、寝込みを襲われてそれまでだ。そして何より、こいつを人里に近づけるわけにはいかない。
だからこうして喋っているのは、時間稼ぎ以外の何ものでもない。
もう少し、せめてもう少しだけ、この足が動くようになるまで。
「てなわけで、俺は賭けに出る事にしたよ。今まではお前の反撃を警戒しながらの攻撃だった。だからそんなかすり傷ばっかりで、こいつを爆破させられるほど深く刺したりはできなかった。だけど次は防ぎを考えない。捨て身だ。捨て身でお前を仕留めに行く。それでお前を殺しきれれば俺の勝ち。それを躱すかその前に俺を殺せればお前の勝ち。シンプルだろう?」
デュマの瞳孔に、猜疑と惑いの色が浮く。
どうにか立ったとはいえ、俺は未だ足元が覚束無い。このダメージが一時的なものか、それとも数日は回復不可能なものなのかを推し量っているのだろう。
前者であればここで畳み掛けるべきだし、後者であれば一時撤退をして、もっと弱った頃合を見て仕留める方が楽だからだ。
自己診断ではちょっとやばそうな感じなので、俺としてはこいつに「この場で決着をつけるべき」と判断してもらいたい。
なので、
「ただなあ。俺を殺してこの腕輪を取り戻したって、デュマ、お前実はもう詰んでるんだよな」
「……何が言いたい?」
「お前、シンシアに助けてもらって別人の体を手に入れる、みたいに語ってたけどさ。それは完璧に無理だって事」
もうちょっとだけ、挑発しておく事にする。
「だってあの子はもう俺のだ。俺と相思相愛だ。お前なんかにゃ見向きもしない。言ってる意味が分かるか? 彼女が助けてくれたのは、彼女が助けてくれるのは、お前じゃなくて、俺だ」
デュマは無言のまま、しかしその体を怒気で膨れ上がらせるように見えた。
「あの男はアンデールの姫君にご執心だったからな」とは、デュマを指して言ったロイド・デルパーレの言葉である。それが記憶にあったからこういう物言いをしてみたのだけれど、どうもばっちり正鵠だったらしい。
こいつと同じ穴の狢なのは、正直なんだかなって感じがする。まあシンシアはとても魅力的なので、恋敵が多いのは致し方ない。
「彼女は俺がここまで来た事情を知っている。お前がアンデールに入るって事は、シンシアにとってはお前が俺を殺したって布告するのに等しい。だからあの子はお前を許さない 人の体を手に入れるどころじゃないな。直接頭を蹴り割られるぜ」
──私自ら森に乗り込んで、亜龍の首を蹴り砕いてやる。
絶対にやらせたくはないけれど、今にしてみればあれは随分と心強い言葉だったなと思う。
「そこまでくれば誇大妄想も立派なものだ」
あ、そういう感じに着地するんだ。
いやでもそうか。デュマが逃散したその時点じゃ、俺とシンシアに全くの接点なんてなかったのだ。俺たちの仲がこうも深まってるだなんて、ある意味デュマが亜龍になってた事以上のびっくりかもしれない。
「だが最前から貴様は不快だな。不愉快だ。いいだろう、その賭けとやらに乗ってやる。そして殺してやるぞ。苦痛に泣き叫べ。生まれてきた事を悔いながら死ぬがいい」
「死ねだの殺してやるのだの、さっきから同じ言葉をリピートし過ぎだよ。語彙が足りてねーぞデカトカゲ。それと」
よろよろ足を引きずりながら、俺はどうにか独力で立つ。
「それとな、デュマ。お前が俺にムカついたのは、ついさっきかも知れない。だけど俺はこっちに喚ばれたその時から、ずっとお前にムカついてんだ。そのどてっ腹にこいつで風穴開けてやる。風通しをよくしてやるよ」
言いながら剣を右手に持ち替える。デュマを制するように切っ先で一番傷の多い左脇腹を切っ先で示しながら、空いた左手で翻訳さんを外して引っこ抜く。
もう一度あの電撃を食らったらたまらないし、ちょっと別の用途もあるしな。
「よし、いいぜ、喧嘩と行こう。綺麗なお姫様を取り合ってのさ」
もう通じない日本語で、俺はデュマに布告する。心の中でごめんなと詫びながら、翻訳さんを左前方に投げ捨てた。
同時にデュマが、腹の底まで響く咆哮を上げる。
亜龍の巨躯が襲い来るその前に、俺は半歩だけ後退。左側面に木を配して、その枝を左手に掴んだ。翻訳さんを投げたのもこの位置取りも、デュマの突進が来る方角を俺から見て右手側に固定する為のものだ。
そして案の定、腕輪を踏み壊すのと腕を振り回すのに邪魔な樹木見て取って、デュマの足が鈍る。
その間に俺はもう半歩後退。
構造上走れば最も前に突き出る亜龍の頭目掛けて、撓めたままだった枝を解き放つ。
視界を塞がれるのを嫌い、デュマの速力がまた落ちた。首を高く上げ棒立ちに近い姿勢になったところへ、俺は片足を引きずりながら挑みかかり、気づいたデュマは反射的に左の鉤爪を横薙ぎに振るう。
それは、俺の注文通りのタイミングだった。
直立した状態で繰り出す横からの一撃は、少し屈むだけでやり過ごせる、非常に避けやすいものだ。そして幾度目かの反復のように、俺は盾で亜龍の腕を押し流す。
剣尖が狙うのは宣言通り、ガラ空きになった脇腹だ。
けれど、そこからのステップインが遅かった。足が絡んでもたついた。
俺の剣は突き出される事なくデュマの尾に絡めとられる。そうして先ほどとは違う剛力でもぎ取られ、高く高く上空に投じられた。
高速で回転したそれが頂点を越え、やがて地に突き刺さるまで。
俺たちの動きは凍りついたように停止する。
──デュマが、やがて笑った。
ただの唸りに過ぎなかったけれど、翻訳されなくとも十分に通じる嘲笑だった。武器を失い虚脱する俺は、万策尽きて立ち竦むように見えた事だろう。
絶望と諦念を貼り付けて、俺はただただ亜龍を見上げる。
ありったけの敵意と悪意をぎらつかせ、デュマはそれまでしなかった動きを見せた。
口腔をがぱりと開く。鋭く並ぶ太い牙が見えた。一本一本が鉈の鋭さを備えるであろうと思われた。
巨大な顎が目の前一杯に広がり、俺の喉首があった空間でばつんと閉じる。
勿論ひょいと軽く飛んで、俺はそれを避けている。足なんて少しも引きずりはしない。
今度は、デュマが唖然と動きを止める番だった。
俺がお前にも見慣れた動きを、翻訳さんを発動させた時と同じ動きをしたから。その上それにすらもたついて、しかも言った通りの馬鹿正直に脇腹を狙ってきたから。そこにつけ込んで、とっておきの武器を奪い取れたから。
もう、全部上手く行くと気分でいたかい? それならご愁傷様だ。
自分の都合のいい事しか想定しない。自分に都合の悪いところには目をつぶる。全てを自分の都合のいいようにしか解釈しない。
そんなだからお前、悪い男に騙されるんだよ。
ま、お前なんかを騙しおおせたって、全然嬉しくも何ともないんだけどさ。
でもって俺はお前と違って、折角の勝起に相手を嬲れるほど強くない。
俺の手のひらには、とうに剣帯から抜き放った短剣があった。デュマの鼻面が、実にいい高さに来ていた。
躊躇なくその目玉に、俺は刃を突き立てる。
本来は刺突剣で亜龍の機動を殺いで、それから止めでこっちを使う予定だったのだけれども。まあこの際、順序はどうでもいいだろう。
「消し飛べ」
そしてデュマの痛覚が激痛を報せるその前に。
絶対に誤爆しないようにと日本語で設定してもらった合言葉を唱え、俺は柄から手を離す。命じてから起爆までの導火線は約1秒。
亜龍の眼球に突き刺さった剣型の魔符は、想像以上に大量の紅蓮を撒き散らし、その頭部を半壊させた。
……いやいや。いやいやいや。
爆音で耳がきーんと鳴り続けている。爆発には指向性があって刃側に吹き出すとは聞いてたけども、ちょっと爆発規模がヤバすぎだろう。ぶっちゃけかなり逃げ腰になった。
でも、まだ終わりじゃない。
亜龍の体は、未だびくびくと痙攣している。
中身をおびただしく覗かせながら、それでもまだ残った片目が俺を睨めた。更に、弱々しくでも確かに吠える。
この状態でまだまだ息があるってのは凄いな。一体どんな生命力なんだ。
半ば感心しながら、俺は飛ばされた剣を拾いによたよたと歩いた。
いやもう全力で痛いの我慢して、一度ああやって跳ねるのが精一杯だったのだ。気軽そうに振舞ったのは、いつものように見栄と意地が合作した建造物である。正直こうして歩くのもキツかった。
でもまあこの状態でじりじり死ぬまで放置しとくとか、鬼畜ってレベルじゃあないし。
剣を握って戻ってきた俺を認めて、デュマがまた小さく吠えた。
負け惜しみか恨み言か、それとも命乞いか。
自分の価値を、自分の知識の値打ちを疑わないこいつの事だから、「元の世界に返してやる」みたいな事を言ったのかもしれない。
もしそうなら魅力的な提案だった。
こっちで皆に出会う前だったなら、きっと一、二もなく飛びついていた事だろう。
つまり、もう遅い話だ。
「悪い。何言ってんだか分からない」
首を振って、俺は亜龍の腕と尾の可動範囲に入らないように近づいた。
力なく地面に垂れるその頭部に、全力で剣を突き立てる。
さっきまで殺し合っていた相手とはいえ、その感触は、ひどく嫌なものだった。
「吹き飛べ」
もう一度、日本語で合言葉を。
再びの爆炎が上がり、亜龍の首から上がすっかりと消失する。これでもう、流石に復活とかはないだろう。
それから俺は周囲を入念にチェック。二度の爆発で飛び散った火の粉が延焼を起こしていないのを確認し、それから全身の力を抜いて、大の字にぶっ倒れた。
翻訳さんを拾ったりとか、信号出して討伐成功を報せるとか、亜龍の死体の完全焼却処理とか、やらなきゃならない事はあれこれとある。けれども今は少し、ほんの少しだけでいいから休みたい気分だった。
そして。
デュマの最後の言葉を憶測した所為だろうか。そうやって転げていると、ふと蘇ってきた言葉がある。
──まだお前は、元の世界に帰りたいか?
──以前不可能だと告げて、現状でもそれは変わらない。だが仮にもし、将来的にそうした術式が構築されたとして。その時お前は、元の世界に帰ってしまうのか?
それはシンシアからの問いだった。
あの時は咄嗟に返せなかったけれど、今なら躊躇わず答えられる。
おふくろ。兄貴。杏子。
過ぎる大切な顔たちに、もう一度俺は訣別を告げる。
ごめん。
ごめん、俺は帰らない。俺は、この世界で生きていく。
目だけで振り仰いだら、鬱蒼と茂る森の木々を抜けてその上に、青く晴れ抜いた空が見えた。




