11.
とまれ、それからもばたばたと慌ただしく時間は過ぎて。
レンタル装備が法王府から届いたりその調整や設定をしたりもして、いよいよ明日出立の形とと相成った。多分準備は万端で、きっとここまでの人事は尽くし終えた。
そんな具合であったから俺は夕食終にシンシアと一局だけ指して、ちゃんと眠っておくってのも支度のひとつだと早めに床に就いた。
……のだけれども。
現在に至るまで、俺は結局寝付ないまま、ごろごろベッドの上で転がり続けている。
格好つけて見栄を切っておきながらこの有様である。要するに不安で一杯なのだ。情けないったらありゃしない。
自嘲しながら幾度目とも知れない寝返りを打った、その時だった。
こつ、こつ、と。
小さく遠慮がちなノックの音がした。
実は最近、この音だけで誰が来たのか聞き分けられるようになった。このノックって挙措には、意外とする人の個性が出るものなのだ。
例えばシンシアは胸の辺りの高さを、とんとんと確かめるように二度しっかりと叩く。ナナちゃんはそれよりも気忙しく、こつこつこつと強く打つ。
でもってこんな感じに、音と音の間隔が一番広くて弱いのがタマちゃんだ。
「あの、ハギトさん、起きてらっしゃいますか?」
「はいはい、起きてらっしゃいますよ」
声の主は予想通りで、予期してベッドを降りていた俺は、返答と一緒にドアを開ける。
廊下のタマちゃんはその反応速度にちょっぴり驚いたみたいだったけれど、すぐに、にふ、とものやわらかい微笑を浮かべて、
「こんばんは、遅くに失礼します」
ちょこりと会釈してから、揃えた両手を俺へ差し出しその上に乗った品を見せてくる。
それは両翼だけの鳥みたいな意匠の首飾りで、タマちゃんの瞳を思わせる、暖かに澄んだ青色をしていた。形状が以前借りた物と殆ど同じだから、それがタマちゃんがずっと作ってたお守りなのだとひと目で分かった。
「ようやく完成しましたので、お邪魔かとは思ったんですけど、お届けにきちゃいました」
「それって明日の朝の仕上がり予定だったんじゃ? というかタマちゃん、ちゃんと寝るように言われたはずだろ?」
お守り作りというのは、大変な集中力を必要とする作業だという。
一人に対して有効に機能する護符はひとつだけ、という基本ルールがあるとかで、あれもこれもと色んなお守りを複数じゃらじゃらつけるのは駄目なのだ。そんな真似をすると魔符の昨日が相互に干渉しあって無力化したり、逆転して悪化したりするのだという。
なのでいいものを仕上げようと思ったらひとつのお守りにできるだけ多機能を付与する形になるのだけれど、すると呪紋の彫り込みには非常な精密さと正確さが要求されるようになる。
尚且つこの工程、複数人での分業もできなくて、精神的にも肉体的にも負担が大きい。
普通ならこんな短期間では到底仕上がらないものなのだけれど、タマちゃんが以前から手がけていたものを流用して組み合わせるという荒技でどうにか間に合うようにしたのが今回だ。
そんな強行軍だからよりタマちゃんへの負担は大きくて、だから「タルマが根を詰め過ぎていたから寝かしつけてきた」と、夕食の折に俺はシンシアから告げられている。
だからこそ今の発言の後半部があるわけなんだけども、
「ここ両日、ハギトさんのお顔を拝見してなかったものですから。ちょっと、寂しくなっちゃいまして」
当のタマちゃんは、悪さが露見した子供みたいにちろりと舌を出しただけだった。
「これが完成したらハギトさんにお会いする口実になるって思ったら、つい熱が入っちゃたんです」
いやそんな可愛い仕草でそんな可愛らしい事を言われると、あんまり真正面から見つめられると、俺としてはとてもリアクションに困ります。
「……頑張ってくれたのも、そう言ってくれるのも嬉しいけどさ。だけどあんまり無理しちゃ駄目だろ。体壊したらどうするんだ」
頬を掻きながら呟いたら、「もー」と呆れ顔をされてしまった。
「ハギトさんはそうやってわたしの心配をしてくださいますけど、これからとっても危ない事するのはハギトさんなんですからね。わたしはハギトさんの方が心配なんですからね」
あ、はい。仰る通りです。
このところどうも、皆に頭の上がらない俺である。
「ええと、それでですね、最後の起動確認をしたいので、申し訳ないですけど少しお邪魔よろしいでしょうか?」
「ああ、どうぞどうぞ。どうせ寝れないでいたとこだったし」
言われて、俺は体を開いてタマちゃんを招き入れた。
要求されるまで彼女を廊下に立たせたままってのはちょっと気の回らない話のようだけれども、でもだってこんな時分に女の子に「入りなよ」なんての、ハードルが高いじゃないか。
そんな、ある意味下心的な俺の胸の内はきっと知らず、タマちゃんはすいと脇を抜けると向き直り、「おいでおいで」と手招きをする。
親を呼ぶ子供めいた無防備さに苦笑しながら近寄ったら、今度は、
「それじゃあ少し、屈んでくださいな」
との指示が飛んでくる。
唯々諾々に従ってから、あれ、と気がついた。
タマちゃんは俺の手が平気になってるわけだから、わざわざ体を折り曲げて、手づからかけてもらう必要なんてないんじゃあるまいか。
けれどその時にはもう、タマちゃんは爪先立って背伸びをして、俺の首にお守りのチェーンを通す体勢だった。
どきりと鼓動がするほど顔と顔が近づいて、
──また、わたしがかけてあげますね。
以前からかわれた記憶が過ぎって、つい、息を詰めてしまう。
だけど体を固くした俺を後目に、何事もなくすいと彼女は離れ、それから口元を隠してくすりと笑った。
「ひょっとしてハギトさん、何か、期待しちゃいました?」
「……」
してないし。いや全然してないし。
さて。
タマちゃんご所望の起動チェックってのが何かっていうと、それは俺と護符との相性確認である。
法王府のレンタル装備の調整の時も同じような事をしたんだけども、なんでも複雑な呪紋を織り込み複数の機能が組み込んだマジックアイテムは、時に着用者の魔法資質と干渉しあって予測外の反応を生じる事があるらしい。
軽微なら静電気のようにバチっと来る程度ですむのだけれども、酷ければ全身に大火傷を負ったりもあるそうな。あと見た目的な変化がないと油断してると、じわじわと健康被害が出て衰弱したりとか。
生じる形は様々だが、そんな具合にこの副作用、概ね喜ばしいものにはならない。折角込めた福が禍いに転じてしまわないように、この作業は欠かせないものであるそうな。
というわけで、現在。
タマちゃんは俺が首から下げたお守りを両手に包んで詠唱を紡いでいた。
高く細い歌声のような旋律につれ次々と光の粒が湧き出して、水滴のように魔符の表面を這い回る。午後の日差しが水面で煌くみたいな、淡くて複雑な乱反射が部屋を彩った。
その反応をじっと見つめる彼女の表情は真剣そのもので、ひどく集中しているのが分かる。
……いや、分かるのだけれども。
でも手持ち無沙汰な俺の側からすると、密着とまではいかないまでも近い距離で胸元をいじられつつ、タマちゃんのつむじの辺りを凝視するような格好になってるわけで。
むず痒いというか気恥ずかしいというか、どうにもいたたまれない気持ち。せめて彼女の気を散らせまいと、無駄に呼吸を細く小さくしてみたりである。
その労苦が報われたのか、どうか。
「はい、おしまいです。どこにも異常はありません。ばっちりです」
やがてタマちゃんは自分の胸に手を当てて、ほっと深く安堵のため息を吐いた。
ふわっと口元をほころばせ、
「無事間に合って、これでわたしもひと安心です」
同調して賛えかけたその途端、ふらりタマちゃんがバランスを崩した。
ひと仕事を終えて気抜けしたのか、寝不足と過労からの貧血か。
その原因はさておき、ごく近い距離だったのが幸いした。腕を伸ばすのが間に合って、くず折れるその前に俺は彼女を抱きとめる。
「タマちゃん!? 大丈夫か?」
「あ、す、すみません」
身動ぎをするタマちゃんの体は、弱く小さく息づいていて。そしてふんわりと子猫みたくやわらかに温かくて。正直、役得です。
シンシアも華奢なんだけど、タマちゃんは更にすっぽりと腕に収まってしまうコンパクトサイズな感じ。なのでその分庇護欲を掻き立てられるというか、なんというか。
……って、いやいやそうじゃなくて。
「本当に大丈夫? ちゃんと立てる?」
「はい、もうへーきです。ちょっぴり油断して、それでくらっとしちゃっただけですから」
「気を張ってなきゃ駄目なくらいに疲れてるのを、平気とは言いません」
いつものお返しにびしっと言ってやったつもりだったのだけれど、タマちゃんは少しも反論せず、それどころか悪巧みっぽい表情を見せた。
「そうですね。くたびれてるのは確かかもしれません。だってわたし頑張りました。とてもとても、頑張りました」
言いながら彼女は、俺の背中を両の腕でかき抱いた。ぴったりとひっついて、そうして胸の中から上目遣いに、
「ので、ご褒美にぎゅーってしてくださっても、いいんですよ?」
「いやあのそれは」
「だいじょーぶです。姫さまご公認ですから、浮気じゃないですよー?」
目を閉じて頬ずりされて、姫様ごめんなさい。かなり理性がくらっときました。だってほら、タマちゃんも大変に可愛らしい子なわけでさ。
シンシアと居る時には、他に何も見えなくなってずっと深いところまで引き込まれてしまうような、強い感覚がある。
タマちゃんとはそうじゃなくて、穏やかな陽だまりで少しずつ体が温まってくみたいに、静かに胸が高鳴る気がする。
……うん、分かってます。
どう言い繕っても、これってば俺の気が多いって事ですよね。ちょっと女の子に優しくされるとすぐ舞い上がって好きになっちゃう浮かれ野郎って事ですよね。なんかどっぷり自己嫌悪だ。
「タ、タマちゃんさ、こないだから妙に積極的じゃない?」
「はい。姫さまとハギトさんが仲良しで、羨ましかったんです。わたしはやきもち焼きですから、姫さまにもハギトさんにも、どっちにも妬いちゃってたんです。けど、不思議なんですよね」
タマちゃんはもう一度俺を見上げて、アイスブルーの瞳を優しく細める。
「こういう感情は、後暗くて嫌なものなんだって決め込んでました。でもそうじゃありませんでした。わたし、今、幸せです。もし姫さまにお会いできなかったら、こんなふうに思う事はきっとありませんでした。もしもハギトさんにお会いしてなかったら、こんな気持ち、きっと知りませんでした」
それからばふっと勢いよく俺の胸に顔を埋めて、表情を見せないようにして。
か細く、「だから帰ってきてくださいね」と囁いた。
「絶対、絶対、ご無事で帰ってきてくださいね。そうしたらわたし、ハギトさんのお好きなものばっかりの献立でお出迎えしちゃいますから」
「それは嬉しいな。冗談抜きで楽しみだ」
ふわふわな蜂蜜色の髪を撫で、少しでも彼女の不安を払拭しようと俺は明るい声を出す。
「わりと失礼な物言いになるんだけど、実はここんとこの食事にはちょっと馴染めないくてさ。いや確かに美味しいんだけど、家のご飯じゃなくて定食屋で食べてるみたいな違和感があるんだよな。どうも俺の舌は、すっかりタマちゃんの味に慣れちゃったみたいだ」
おふくろの味、とか言ったら年齢的に怒られそうだけども、そんな言葉が一等近い。
やっぱりそこには、作り手の人柄と距離とが出るのだろう。
タマちゃんのは俺やシンシアの好みを凄く正確に把握してくれてて、工夫と心を尽くしてくれてるのが伝わってきて、毎日食べれるし毎日食べたい。そういう感じなのだ。
などと力説したところ、タマちゃんは「もうっ」と声を上げ、今度は俺の首にぶら下がるように力一杯抱きついてきた。
「ハギトさんはどれだけ不意討ちがお上手なんですか。どうしてそんなに、わたしの喜ばせ方をご存知なんですか」
「あ、あの、タマちゃ……」
「わたし決めましたから。決めちゃいましたから。これから何があってもずっと、ハギトさんのご飯はわたしが作りますからね!」
え、あ、はい。どうもありがとうございます。
いや前も思い知らされた事だけど、距離が近いとその分だけ、女の子の笑顔の破壊力って倍増するよな。
それからしばらくタマちゃんは俺にくっついたままでいて。俺の方もその、請われるがままにぎゅっとしてみたりなんかしちゃったりなんかしちゃってたのだけれども。
「ごめんなさい、つい長居をしてしまいました。お休みの邪魔をしてはいけませんよね。わたし、そろそろ退散します」
やがて俺の胸に手を付くようにして、タマちゃんがそっと体を離した。
「それじゃあおやすみなさい、ハギトさん」
「あ、待った。部屋まで送るよ」
「でも」
「もしここで断られたら、俺はタマちゃんがどこかで行き倒れたりしてないか心配で、それこそ夜も眠れなくなる」
言いかけるのを軽口で遮り、俺は片目を瞑って見せる。
「もー。わたし、そこまで不養生してません」
「タマちゃんが俺を心配してくれるみたいに、俺だってタマちゃんを案じてるって事だよ」
むくれる彼女の頭にぽんと手を置きなだめつつ、俺は部屋のドアを開ける。
率先して暗い廊下に踏み出すと、「それじゃあ、お言葉に甘えちゃってもいーでしょうか」なんて声が追いかけてきた。
「勿論」
肩越しに振り向いて差し招くと、てててっとタマちゃんは駆け寄ってきて、何やら物言いたげに俺の顔をじっと見る。
「あの、そうしたら甘えついでにもうひとつだけ、お願いがあるんですけど」
「ん?」
首を傾げて先を促したら、彼女は気恥ずかしそうに目を伏せて、
「……ハギトさんと、手、繋ぎたいです」
まあ、そんな次第で。
俺たちは手に手を取って、夜の館をゆっくり歩いた。
タマちゃんの指はやっぱり細くて小さくて、その感触は俺をどうも無口にさせる。
「そういえば、ですけど」
ちょっぴり足早になりかけた俺を引き止めるみたいに、ぽつりとタマちゃんが呟いた。
「ナナさんが越してきたら、部屋割りをし直さなくちゃいけませんね」
「え、なんでまた?」
彼女に歩幅を合わせるどころか、つい足を止めかけてしまった。空き部屋は多いし、ナナちゃんの部屋なんてあそこで決まりみたいなものだと思ってたのだけど、今のままじゃなんかマズい事でもあるのだろうか。
「ええとですね、だってですね」
俺の問いにタマちゃんは、月明かりにもはっきりと赤くなってもじもじとした。
「毒龍討伐から戻られたら、ハギトさんはわたしたちの旦那様になるわけですよね」
「あ、う、うん」
「そうしたらそのうち当然……その、夫婦の事を、したりしますよね?」
つまりあれか。
そういう時に他の子とばったり鉢合わせしたりするとどちらも大変に気まずいから、それぞれの部屋へ行く時のルートが被らないようにするとか、そういう事か。
「今はわたしが姫さまやハギトさんのお部屋のお掃除を担当していますけど。それももう、信頼できる別の方にお任せしていくつもりです」
俺の理解を察したのかタマちゃんはそう続け、そして俺の手を強く一度だけ握った。
「本当はこういう事、ハギトさんが音頭を取ってしてくださらないと、なんですよー?」
「あ、いやなんかもうすいません。気が回らなくてごめんなさい。以後注意します」
歩きながら頭を下げたらタマちゃんはジト目になって、
「……。以後って、まだ女の子増やすつもりですか?」
「違う! 断じてそういう意味じゃない!」
刻限も考えずに大声を出してしまって、俺は慌てて片手で口を塞ぐ。
いかんいかん、にふにふと人の悪い顔をしているからからかわれているのは明白なのだけれど、どうにも免疫がなくてつい過剰反応してしまう。
「そもそもさ、タマちゃんたちに好かれてるってだけで、もう俺には分不相応、不釣り合いなくらいに幸せな事なんだ。それ以上の高望みなんてしようとも思わないよ」
大体結婚前提の交際相手が三人もいるって時点で、おふくろと杏子にぼこぼこにされる予感しかしない。ちなみにおふくろが物理面のぼこぼこ担当で、杏子が精神面のぼこぼこ担当である。うちの女性陣は極めて連携がいいのだ。
照れ隠し半分でそんな家族話をしたら、タマちゃんは少し不思議そうに首を傾げた。
「お兄さんは、怒らないんですか? ハギトさんのお話だと、一番厳しそうな方のように思ってたんですけど」
「ああ、うーん、兄貴は、あれはなぁ。変なところで度量があるからなぁ」
わりと聞き流して、「そうかそうか、まあ頑張れ」で済ませそうな気がしなくもない。ただ後で「もし一人でも不幸せにしたら腹切って死ね」くらいは言ってきそうだけど。
そんなふうに思い出した所為だろう。
「もしここに居るのが兄貴なら、きっと亜龍とやりあうのに不安なんてなかったんだろうな」
気がついたら、ふと零していた。
大失言である。これじゃ俺が内心不安でたまらないって自白したようなものじゃあないか。
「ハギトさんは、お兄さんが大好きですよね」
けれど取り繕う前に、タマちゃんはそういって小さく笑った。
「まあ、ね。俺のヒーローだからさ」
応えて俺も口の端をちょっぴり持ち上げる。
「お前ブラコンだな」と指摘された直後にこんな発言をするのもアレなんだけれども、それは偽りない正直な気持ちだった。
もしいつか、また兄貴に会えたなら。その時は変にひねくれたりしないで、ちゃんと「尊敬してる」って伝えられるように思う。
「ハギトさんご自身や、ハギトさんを失くしてしまったご家族にはとても失礼な言い草で、叱られるかもしれません。けど」
タマちゃんは声を落として囁いて、そっと繋いだ手の解いた。一度俺の手のひらから滑り出て、けれど完全には離れないまま位置を変え、俺の指と彼女の指はお祈りの形に緩く絡む。
「けどわたし、ハギトさんがこちらへ来てくださってよかったって思ってます。ハギトさんがここに居てくださるのが嬉しくて仕方ないです」
「……タマちゃん?」
「お兄さんが、例えどんなに強くて格好良い方だとしても。わたしはハギトさんがいーです。ハギトさんじゃなきゃ嫌です。だってわたしのヒーローは、ハギトさんですから」
穏やかな、それでいて強い声音だった。
なんだそれ不意打ちか。タマちゃんの方がよっぽどに、俺の喜ばせ方をご存知じゃないか。
廊下の窓から差し込んだ、淡い月ばかりが俺たちを見てる。
ちょっと泣きそうになってしまって、俺は何も言えなくなる。
「……」
「……」
それから、なんとなく二人、口を噤んだままで歩いた。二人分の足音と繋ぐ手の温度ばかりが確かで、さっきよりも一層にどきどきとした。
終わってしまうのが惜しいような道行きで、それはタマちゃんも同じだったみたいで、彼女の部屋に着いて足を止めても、俺たちはしばらく寄り添ったままでいた。
「……これ以上、お引き止めしちゃいけませんよね」
やがてため息めいてタマちゃんが呟く。ぎゅっと強めに手が握られ、そうして解けた指が遠ざかる。喪失感めいたものだけが掌に残った。
「最後に、もうひとつだけ差し出口なんですけど」
自室のドアを半分開けて、こちらには背を向けたままタマちゃんは言う。
丁度訪れた雲の闇で、その表情は窺えない。けれどどうしてかまた、含羞んでいるようだった。
「もし今後、姫さまとなさる事に不安がおありでしたら。その時は先に、わたしで練習してもいーんですよ?」
言葉が含有する意味を頭が理解するまでに、数秒の時間を要した。
ええと、その。「姫さまとなさる事」ってのはもしかして、さっき言ってた「夫婦の事」ってのが該当するのでありましょうか。
「タマちゃん」
低い声を作って、後ろからぐっと、彼女の両肩を捕まる。そうして強引に振り向かせた。
やっぱりこういうリアクションは予想外だったのだろう。「ひゃい!」と声を裏返らせて、彼女は体を強ばらせる。自分から誘うみたいにしておいて、なんとも残念なお姉さんである。
「俺、『自分を低く思いすぎるのは失礼な事だ。それはお前を大切に思う人をも低くしている』みたいによく怒られるんだけどさ。なんていうか今、その意味がよーく分かった」
「あ、あの……あの?」
「今のタマちゃんの物言いは、はタマちゃんを大事に思ってる俺に対しても失礼だぞ」
言いながら俺は少し身を屈め、指で梳くように彼女の前髪をかき上げる。そうして無防備になった額に、そっとくちづけた。
「これはつまり、『そーゆー事』だから」
「……」
完全に硬直してしまったタマちゃんを再度半回転させ、「おやすみ」と告げるなり半ば無理矢理背を押して、ドアの向こうに押し込める。
それからずるずると、頭を抱えてその場にうずくまった。
おいこら俺。なんだよ今の。何やってんだよおい。一体全体あの恥ずかしい真似は何事だ。きっと俺は、亜龍退治の緊張でどうかしてしまったんである。でなければ今のは説明がつかない。
しばし心の中でじたばたしてから、三十六計逃げるに如かずだと気がついて、赤面しながらの急ぎ足で自室に戻った。
こいつはまた寝付けないかもなと危惧もしたのだけれど。
変な自爆の所為で気が紛れたのか、はたまたタマちゃんがリラクゼーション成分を含有していたのか。
ベッドに転がると忽ちまぶたは重くなり、俺はそのまますとんと眠った。




