5.
さて。
そんなこんなで姫様にこの頃の閉塞感とか欝とかを蹴っ飛ばしてもらって、しかも自分の気持ちを口に出してしまったりすると、なんかちょっと困った感じになってきた。
いやだって、深夜に好きな子の部屋にふたりっきり。しかも当の女の子はすっぽり俺の腕に収まって、陽だまりの猫みたいに心地良く喉を鳴らしてる状況である。
思わず唾を飲み込んだ。
さっきまで「気が楽になった」とか「人の体温って安心する」とか思ってたのに、意識した途端口の中がカラカラだ。全力疾走の後みたいに呼吸が浅く早くなって、手のひらに汗が湧く。
ここからどう動いても、例えば姫様をかき抱く力を強めるか弱めるかしただけでも、この不安定に安定した状態を崩してしまいそうで、俺は石になったように身動きがとれない。
「ところで、だ」
そんな俺の緊張を恐らくは察さずに、姫様が俺を見上げた。
キスの時の大胆さとは打って変わったいじらしさで、俺の裾をくいくいと引く。
「こうして両想いであると知れたところで、ハギト、お前に早速おねだりがある。よもやお前は、こ、恋人の頼みを、無碍にはすまいな?」
ちなみに「両想い」と「恋人」の部分はやけに小声で早口だった。
湯気が出そうに赤面するくらいなら、無理してそんな事言わなくてもいいのに。
などと思わなくもないけれど、でもそうやってはっきりと言葉にされると、やっぱ俺も嬉しかったりする。
というか結婚だの何だのと語ってた時は全然平静そうだったのを鑑みるに、あの話はもっともらしい理屈をつけて、俺の居場所がここにもあると実感させる為のものだったのかもしれない。
「えと、おねだりの内容にもよるかな」
やっぱりプレゼントとか欲しいのだろうか。「俺、あんまりお金ないんで」という情けない台詞は、心の中で呟くだけに留めておく。
「みっつほどあるから、順に言おう。まずだな」
ひとつじゃないんだ、と微かに怯んだ俺の首を、姫様の指先がつうと撫でた。
「これを外して欲しい」
いや、正確に言うなら撫でたのは、タマちゃんから貰ったお守りの紐部分だ。
アンリの一件の後、一度は返した物だけれど、
「ハギトさんはすぐに無茶をする方ですし、新しいのは一から作りますから、やっぱり肌身離さず持っておいてくださいな」
と再返却されて、以来身につけてるのが常になっていた。
なんで俺にしてみれば完全に意識から抜けていたものだったのだけれども、金属部分に体を押し付けられた姫様にとって、それはきっといい感触じゃなかっただろう。
「ごめん、痛かった? いつもつけてたから、つい忘れてて」
慌てて外しながら問うと、姫様はふるふると首を振り、
「違う。嫉妬だ」
「嫉妬?」
「それはタルマの心尽くしだろう? 今は、私だけのものであって欲しい」
思わず固まってしまった俺の指からお守りをするりと抜き取ると、姫様は立ち上がって寝台に向かう。その傍らにあるサイドテーブルの上に、将棋盤と並べてお守りを置き、寝台から取り上げた枕でぽふっと両者を埋めてしまった。
それから早足にソファーまで戻ってくると、またすとんと隣に腰を落とし、俺に背中を預けるや片膝をもたげてスカートの裾を持ち上げた。
一瞬どきりとさせられる仕草だったけれども、何の事はない。たんにいつもの蹴飛ばし用のブーツを脱いだだけである。いやなんで今そんな事するのかは大変に疑問だけど、その前に姫様の手が靴下にかかって、俺は慌てて目を逸らす。
視界の端をかすめた白いくるぶしは、夜目にもひどく鮮やかで。何故だか直視してはならない気がした。
「あ、あの、姫様? なんだって……」
「常々思っていたのだが、不公平だろう」
上ずった俺の声を遮って、姫様は肩越しにちらりと俺を振り返る。
逆側のブーツに指を添えながら、
「えと、何が?」
「お前はタルマとスクナナを可愛らしく呼びつけるくせに、私だけを仲間外れにする。それはよろしくないと思う」
いやそんなつもりは全然ないんですけども。
というか姫様を「ちゃん」づけするとかあだ名で呼ぶとか、またしてもべらぼうにハードルが高いんですけども。
「せめてそんな敬称めいた言いはもうやめるべきだろう。それともお前は自分の恋人を、一生他人行儀に呼び続けるつもりか?」
「それは、その」
「だからこれがふたつめだ。以後、私の事は呼び捨てるように。でなければ、愛情を疑うぞ」
両足とも素足になった姫様はソファーの上で横座りになり、それから「さあ呼んでみろ」と期待に満ちた眼差しで俺を見た。むむむ。
「……シンシア」
「うん。それでいい」
ふふんと不敵めいて笑み、それから彼女は「割って入ってしまったな」と詫びた。
「それで、何を言いかけた?」
「いや、なんで今ここで靴を脱いでるのかと思って」
こっちの世界でも適用される事かは知らないけれど、靴文化の欧米じゃ素足を晒すのははしたない行為に当たると聞いたような気がする。裸で、とまではいかないが、寝巻きで人前に出るような感覚らしい。
なんかの海外ドラマで、親が子供に「お客さんが来たんだから靴ぐらい履け」と叱ってるのを見たような記憶がある。
「ああ、これはだな。みっつめへの布石だ」
そこで彼女はちょっと含羞み、それから抱っこをせがむように両手を俺へ向けて広げた。
「お前の快気祝いの折、タルマが少し羨ましかった。すぐそこまででいい。私もああして運んでくれないか?」
言いながら、シンシアは目線でベッドを示す。
あの時のタマちゃんっていうと、ひょっとしてそれは酔いつぶれたあの子を横抱きで運搬した一件であろうか。つまり俺は今、お姫様抱っことをしろと求められているのであろうか。
「……嫌か?」
俺の逡巡を拒絶ととったか、シンシアは瞳を曇らせる。ああもう、これくらいの事でそんな悲しそうにするんじゃありません。
「分かった分かった、分かりました。ちょいと失礼しますよ、と」
ひと声かけてからシンシアの背中と、それから両膝の下に手を回す。「よっこらしょ」なんて掛け声をかけるのは女性に対してよろしくない気がしたので、黙ってえいやっと持ち上げる。
シンシアはタマちゃんより上背があるけれど、それでもやっぱり軽かった。女の子って皆こうなのだろうか。
伝わる感触から気をそらそうと、そんな思考のよそ見をしていたのだけれど、
「ハギト!」
一歩踏み出すか踏み出さないかのうちに、耳元で小さく呼ばれた。
「どうかした?」
「お、思っていたよりも、恥ずかしい」
「……降ろそうか?」
苦笑気味に尋ねるとシンシアは一瞬詰まってから、
「いや。初志貫徹する」
眦を決して、ぶんぶんと首を振る。
そんなふうに、彼女の方がガチガチに緊張してくれてたお陰だろう。逆に俺にはちょっぴりながらも余裕ができて、危なげなくシンシアを臥床まで連れて行く事ができた。
そうして彼女を横たえて、体を離そうとしたその時だった。
それまで軽く俺の首に回していた両腕に、シンシアはぐっと力を込めてしがみつくようする。
「……」
「えと、あの……?」
思わぬ力に引き戻されて、俺は戸惑い彼女を見やる。
二人の視線が絡まり、シンシアは気弱く逸らして目を伏せた。
「駄目だ。怖い」
言葉通りに、彼女は小さく震えていた。
「私の大切なものは、愛おしいものは、いつだってこの手をすり抜けて、どうにもならない場所へ行ってしまう。だから怖いんだ。もし目を離したら、お前がまた独りで出て行ってしまうような気がしてならない。折角お前にくちづけたのに、朝になればこの事が皆嘘になってしまうように思えてならないんだ」
独白のようなその言いで、ようやく俺は思い出す。
そうだった。この人は色んなものをなくして、色んなものに裏切られて。それでも毅然と凛然と、その背筋を伸ばす人だった。
そして今更のように、俺は自分の行動が彼女に及ぼしたものを自覚する。
自分を大切にしないのが、こんなに人を傷つける事があるのだと思い知る。
アンリの一件でのシンシアの振る舞いには憤ったくせに、どうして俺はそっくり同じ真似をしてるんだ。まさしく「同じ轍を踏んでどうする」だ。
そして同時にこうも思った。
これからもきっと、こんなふうに。俺は彼女に教えられて、そして教えていくんだろう。そうして続いて行くんだろうって。
「だからハギト。今夜は、私の側に居てくれないか」
俯いていた顔を上げ、シンシアは縋る瞳に俺を映す。
ひどく弱々しい俺のお姫様は、同時にとても艶っぽい。
「──また、我慢するつもりだったんだろ?」
答えになっていない俺の台詞に、彼女はきょとんと瞳を瞬かせた。
「わざわざおねだりの回数まで限ってさ。我慢できそうだったら最後まで言わずにおいて、また独りで堪えてしまうつもりだったんだろう?」
「それは」
「ごめん。それから大丈夫。俺はいなくなったりしない。どこへも行かないよ。だって俺も、シンシアに求められるのは嬉しいんだ」
囁いて。
引力に従うみたいに、シンシアのか細い力に身を任せる。
俺の体を受け止めてベッドが軋みを上げた。ふわり、シンシアの匂いに包まれる。
「あー、えーと、ひ……シンシアはこのまま、ドレスのまま寝るんだ?」
「ああ。時間を置くと、また勇気を出す必要があるからな。それとも、」
照れ隠しに言うと、シンシアは悪戯っぽく笑って胸元の布地をちょっぴりつまみ、
「脱いだ方がいいか?」
「そ、そういうのはまた今度!」
「そう狼狽えるな。別に私から襲ったりはしない」
彼女は喉の奥で笑うけれど、いやその手のからかいはホントにやめてください。ブレーキ効かなくなるから。今だって滅茶苦茶見栄張ってるんだから。
邪念を霧散させるべく、自分の靴に手をかけ脱ぎ捨てる。何分俺は日本人気質なもので、これを履いたまま布団に寝転がるとかちょっとできない。
お邪魔します、と寝台に上がると、シンシアは少し身動ぎをしてスペースを作り、それから「ところでだな」と切り出した。
「生憎、今日は枕がない」
ああ、うん。さっきタマちゃんのお守り埋めるのに使っちゃったからね。
「だから腕だ」
「は?」
「代わりに、お前の腕を所望する」
「……」
これはその、以前の伝でいくと「腕枕をしなさい」という事であろうか。そういう事なのであろうか。
憶測を裏付けるように、シンシアはじーっと照れ半分、期待半分くらいの眼差しで俺を見つめている。至近距離でそんな目をするのは、色々と反則ではなかろうか。
「……どうぞ」
先に横になって腕を伸ばすと、満足げにふふんと笑って彼女も寝転ぶ。
そうしてもぞもぞと体を動かして収まりのいい位置を探し当て、
「どうやら以前言われた通り、私はくっつき魔であるらしい。お前の温度に触れていると、ひどく安らぐ」
頭を寄せて囁くようにする。
ふっと近づいたその距離に、やはりどぎまぎしてしまう。
だってやっぱり綺麗な子なのだ。
すうっと鼻梁が通っていて、顎なんか細くて、まつ毛長くて、唇が。……唇が。
──キス、しちゃったんだよな。
「姫様はさ」
呼びかけたら、じろっとひどく不満そうな眼差しが返った。
「シンシアはさ」
「うん」
「俺なんかで、よかったの?」
こっちじゃ「子供を産めない」っていうのは凄いマイナス扱いなのかもだけど、そんな別世界の常識を含めたって、本当にこの子の器量は類まれで。絶対に引く手数多だろうと思う。
到底、俺が釣り合う相手には思えない。
「俺はたまたま君の気持ちの弱ってる時に側に居たけど、でもそれだけだ。正直、なんかつけこんだみたいな気がしてる」
するとシンシアは深々とため息をついて、「まだ言うか、馬鹿め」と切り捨てた。
「安心しろ。確かにアンリの事で私は気持ちが弱っていた。そこをお前に救ってはもらった。けれどあの事のもっと前から、私はお前に惹かれていた。そのずっと前から、私は、お前が大好きだよ。お前の事が大好きだよ」
いや嫌ってわけじゃないんだけども、おもむろに頭を撫でないでいただきたい。
「自分を軽んじるなと、お前には言い続けてきただろう? お前でいいのではない。私は、お前がいいんだ」
シンシアは恥じらいながら、それでも目を逸らさずに言う。
もう白旗を挙げるしかなかった。人に想われるのは嬉しいっていうのを、骨身に叩き込まれた感じである。
「逆に訊くぞ、ハギト。お前こそ、私でいいのか? 私は、タルマやスクナナのように素直でも愛らしくもない。不器用で嫉妬深くて、そのくせ感情の機微に疎い、賢しいつもりで小賢しいばかりの女だぞ?」
「そういうのを気にしちゃうとこ、凄く可愛いと思うけど?」
誘導したい着地点は読めたので、敢えて違う事を口にする。
途端、覿面にシンシアが詰まった。
「……お前は平気でそういう事を口にする」
「今のはシンシアが言わせたんだよ」
「そんなに、物欲しげにしていたか」
「ごめん、言い方が悪かった。今もさっきも『好き』って言葉にしてもらえて、俺、凄い嬉しかったんだ。だから俺も、いい事は口に出してこうって思った。そういう意味で『言わせた』って事」
むくれてしまった頬を撫で、それからさらさらと手触りのいい髪に、指を絡ませ梳る。
少しの間会話が途切れて、ふわふわと幸福な空気が漂う。
「それにしても」
やがて、小さくシンシアが笑んだ。
「お前の視線は、相変わらず正直だな。私の、唇ばかりを見てるじゃないか」
「……そんなに見てた?」
顎を引いて肯定を示すと、彼女は身動ぎをして、より俺に密着してきた。構って欲しい猫がするみたいに微熱を帯びた体を摺りつけられて、それでまた強く、やわらかな女の子の体を意識してしまう。
シンシアは何も言わないけれど、でも俺の一部ががちがちに反応しちゃってるのはきっとバレてるに違いない。
いやでもしょうがないじゃないか。
こんなとびきりの美少女に、俺の事好きって言ってくれる可愛い女の子に誘惑されてるみたいなこの状況で、無反応な方がよっぽどおかしい。
「私は初めてだったが、お前はどうだ? 元の世界の恋人や、或いはタルマやスクナナと、もうくちづけは交わしたのか?」
「い、いや、俺も初めてで」
「そうか」
シンシアはゆっくりと瞬きをすると、それからそろり手を伸ばして俺の頬に触れた。おずおずと親指で、唇を撫でる。
「先ほどのあれは、些か性急が過ぎた。勢い任せもいいところだった。だがお互い経験を積んだわけだから、次はもう少し、上手くやれるのではないかと思う」
いつも怜悧で神秘的で、時に悪戯っぽい光を宿すその薄紫の瞳が。
見知らぬ病熱に、甘く甘く濡れていた。
えと、これはその、つまりその。「もっかいキスしてもいいよ」って事ですよね?
「ハギト」
シンシアが呼ばわる。月影のように弱く、呪縛のように強く。
いつもの抑えて静かな低音ではなく、生のままの女の子の、甘え声だった。
「ハギト」
吐息の届く距離で、もう一度囁かれた。
シンシアがそっと目を閉じる。
「──シンシア」
応える俺の声もまた、ひどく熱っぽいかった。
お互いを呼び交す、その呼吸が交じり合う。
初回の教訓を生かして息を殺して、ゆっくり、静かに。
今度は俺から、唇を重ねる。
「……」
「……」
永遠じみた数秒の後。
二人の距離が零から増すと、シンシアは止めていた息をそっと漏らした。そしてぐっと抱きついて、額を俺の鎖骨の辺りに押し当てる。耳から首筋まで、茹でたように赤くなっていた。
でも俺の方だって、人の事は言えないくらいだろうなと思う。顔の火照りがまるでおさまらない。
それから俺たちは寄り添ったまま、ずっと他愛もない話をし続けた。俺の世界の事、シンシアの世界の事、二人が出会ってからこれまでの事。
その合間で、啄むようにキスを交わして。
やがて訪れた眠りは、罪悪感に魘されていたこの頃には縁遠い、とても深くて心地良いものだった。




