2.
感染拡大を危惧するのなら、できるだけ迅速に動くべきである。
だから俺はその日のうちに準備を始めた。
城から戻ってタマちゃんの授業を受けたその後で、「ちょっと練習してくる」と馬を借り、街へと舞い戻る。馬はク族院で預かってもらって、必要品を買いがてらで聞き込みをした。給料としてこちらの通貨をもらってたのが早速役立った感じだ。
継続する身近な問題なのもあってか、霧の森と亜龍についての情報は手早く集まった。
まず森の外周までは、馬を飛ばせば半日もかからない距離らしい。
そりゃ子供がふらついて入っちゃう可能性があるような場所なのだから、当然といえば当然か。ただし亜龍の縄張りは更に踏み入ったその奥であるという。
流石に森の中で馬は飛ばせないだろうし、そうすると機動力を欠いて結果時間を浪費しかねなくて非常にまずい。
こいつは困ったぞと悩んでいたところ、「兄さんあっちへ旅するなら気をつけなよ」と追加で耳寄りな話を教えてもらえた。
聞き及んでいた通り、亜龍はひどく縄張り意識が強い。特に火に敏感で、火明かりや煮炊きの煙を察しようものなら群れを成して襲いかかってくるのだそうな。
本当ならこれは亜龍種を避ける為の知恵、危険回避の知識なのだけども、今の俺にとっちゃあ逆転して使える手段だった。
何故って法王府からの報告によれば、森の亜龍はほぼ壊滅状態なのだ。焚いた火におびき寄せられるとしたら、例のはぐれ亜龍アペーモシュ一頭のはずである。
非常にざっくばらんの大雑把ながら、一応誘き出しの目星はついた。
すると次に気になるのは、俺が殺すべき亜龍のスペックだ。
それは俺一人で殺せる手合いなのだろうか。
前提として皆は巻き込めない。巻き込むわけにはいかない。
感染の可能性を回避するって理由もあるけれど、まず何よりも、これは俺の責任なのだ。だからこれは俺だけで成し遂げなきゃならない。誰の手も借りずに俺の手で、一刻でも早く、その毒龍を打ち殺さなきゃいけない。
俺がこの世界にもたらした傷が、これ以上広がらないように。
ノノの言いじゃないけれど、一命にかえてもやり遂げなけりゃならない事なのだ。
だから俺はどうなったっていい。俺の身なんてどうだっていい。でも見事標的とエンカウントできたけど負けました、じゃそれこそお話にならない。
後を考えるなら、最悪でも相討ちには持ち込みたいのだ。例えば俺が頭から食われても、それで亜龍が食中毒を起こして死んでくれるなら構わない。
ゲームの攻略情報を調べるような感覚でこちらについても訊いて回った。するとまあ結構絶望的な話が出るわ出るわ。
「心臓に槍を刺したのにすぐには死なずに暴れまわった」だとか、「鉤爪は手のひら以上の長さで金属を断ち切るくらいに鋭い」だとか、「全速力の馬に木をへし折りながらで随走してきた」たとか、「毒の息を吹きかけられて顔面が焼け溶けた」だとか、「こっちの弓矢を盾のように削った木で防いだ」だとか。
俺の世界でいうところのヒグマやグリズリーみたいな生き物であるらしい。いや熊は毒吐かないけどさ。まあ聞けばなるほどで、そりゃ祖父ちゃんと孫の代替わりで討ち取ったらちょっとした武勇伝にだってなる。
あと俺は姫様の「「一番厄介なのは知恵を備えている事だ。龍の末裔と呼ばれるにはお粗末だが、簡単な武器や道具を作り、使う。更には社会性があって群れる」って言葉から、いわゆるリザードマン的な人間風に直立歩行した蜥蜴をイメージしてたんだけど、ちょっと絵心のある人が書いてくれたのを見たら全然違った。
確かに二足歩行なのだけれど、背骨は曲がって前傾姿勢。見た目は違うがゴリラなんかをイメージしてもらえば間違いないだろうか。両腕は地面に届くほど、その手からは長く鋭い鉤爪が伸びている。これは猫みたいに収納可能で、道具を用いる時は四本指を器用に使うらしい。
尻からは長く尻尾が生えて、それで全体的な重心のバランスをとっているようだった。頭の両側にある三日月の目玉は全く爬虫類のそれで、せり出した口はワニのよう。
でもっておまけにブレスまで吐くらしい。毒の息だの焼け溶けただのって証言からすると、強烈な酸みたいなものなのだろうか。
談義してるうちに集まってきた中にいた詳しそうなおっさんが、「あれは普段食している毒性生物の毒を溜め込んで吐き出すのだ」とか言ってたけど、本当かどうかは眉唾である。
……いやそうでも思っておかないと、そんな激烈な毒を持った生物がいる森とか大変入りたくない気持ちになるし。
とまれこれで背中に蝙蝠じみた羽でもあれば、俺の抱くドラゴン像に殆ど合致する感じ。これは確かに人から遠く、むしろ龍に似通って、そして非なるものだ。確かに亜龍と呼ぶべきものだ。
というか今更だけど、翻訳さんは非常に出来た方であるので、もしリザードマンだったらそのまんまリザードマンって通訳してくれてるわな。そうじゃないからこそ、亜龍なんて耳慣れないような言葉になってるのだ。
しかし困った。
ちょっと聞いただけじゃ対策が浮かばない。
霧の森は大きい生き物が通るのに困らない程度の木々の具合らしいから、一応長物や遠距離武器が使えなくもないはずだ。
けど俺、弓の練習なんてした事ないし、そもそも心臓刺されてまだ動くような生命力溢れる輩を矢で射殺せるのかって言ったらまた疑問だし。
とりあえず目と鼻があるのは確実だから、また目潰し系のブツを用意して、でもって後は大抵の生き物に共通の弱点である舌を狙って、みたいな感じだろうか。
舌に流れてる血液の量ってのは相当なもので、深く傷ついた場合は縫合処置をしないと失血死するんだと怪獣映画を見ながら兄貴から聞いた記憶がある。いやしかしあのバカ兄貴は、一体どういう流れと思いつきでそんな話を弟にしたんだ。ひょっとして俺を大怪獣と戦わせるつもりだったのか。
とまれこちらはファンタジー世界だし、亜龍種は生命力も非常に強いらしいから、そんなんであっさり死んでくれるかは疑問だ。けれど亜龍は人を喰う生き物なのだという。
であるならば最終的に噛み付いてくる公算は高いわけで。そこに狙い目がなくもないはずだ。
いい加減時間も経ったし、何事かと集まる人も多くなってきた。あまり悪目立ちはしたくないので、俺はその場の一同に礼を言って話を切り上げ、ク族院から馬を駆って館に戻った。
姫様に嘘をつく時のコツは、絶対に知られたくない部分以外は全部本当で構築する事だ。
彼女は物凄く的確に俺の表情を読んでくるので、例えば今の状況で「アペーモシュの事なんか微塵も気にしてませんよ」なんて言ったってまず信じてくれない。
だから夕食を終えた後、俺は正直に「例のはぐれ亜龍の事で考えをまとめたい」と切り出して、姫様には早めのご退去を願った。
風邪と亜龍に関する俺の推測を今夜のうちにまとめて、それを姫様に検閲してもらってから法王府に共有可能な情報として持っていきたい。だからまず、報告書を作成する時間が欲しいと告げたのだ。
姫様は気遣わしげな目で、
「あまり思いつめるな。あれは父とミニオン卿とデュマの為した業で、お前の責任などどこにもないのだ」
そう言い置いていったから、やっぱり俺が病気についての懊悩を抱え込んでいると察しているのだろう。まあでもこれでいくらなんでも、今夜早急に動くとは勘付かれないはずである。
彼女の背を見送りがてら食器のワゴンを部屋の外に出し、それから俺は机に向かった。前言通り無症候性キャリアに関するあるだけの知識と、それからいくつかの詫び言を記す為だ。
結局姫様たちに気取られないようにと、保存食以上の買い物はしていない。
鎧はナナちゃんの選んでくれた自前のものがあるからいいとして、武器に馬に野営用の毛布、それから湧水石なんかは、悪いけど黙って持ち出させてもらわなけりゃならないだろう。
特に馬と石は必需品だ。
前者は機動力として欠かせないし、後者は名前の通り水を湧き出せるマジックアイテムである。水は重くてかさばるから、これひとつで移動が大分楽になる。
逆に言えばその分ふたつともきっと値が張るんだろうけど、運よく生きて戻れば返せるはずだ。一時的に借りるって事で見逃してもらいたい。
最悪未払いの給料で相殺してもらおうと思う。……ひょっとしたら足りないかもだけど。
あとはアンリの電撃剣みたいな、攻撃用マジックアイテムがあれば心強いのだけども、流石にこれは無いものねだりだろう。そもそお御禁制の品だって話だし。
おおよそを手書きし終えた俺は、飛び込むようにベッドに身を投げて目を瞑った。
到底眠れはしないけれど、でも横になっているだけで体は休まる。強行軍で行くつもりだから、少しでも疲れは抜いておくべきだ。
目を閉じて深呼吸をしながら、色んな事を思い返す。
そしてそうすればそうするほど、俺がこっちの世界で体験した事には必ず姫様が関わってるんだななんて気づいて可笑しくなる。
本当は俺は彼女の隣に、タマちゃんの側に、ナナちゃんと一緒に居たいけど。
いつまでも、こんなふうに過ごしていたいけれど。
そうこうするうちに夜も更け、元から人の少ない館にすっかりと静寂が満ちる。
やがて意を決して、俺は体を起こす。
軽くストレッチして体をほぐして鎧を身に付け、そっと廊下に足を踏み出した。既に石は失敬してあるし、運びやすいように毛布もくるんで担いだ。後は得物と馬を物色して、森までまっしぐらに走るばかりだ。
足音を忍ばせながら階段を下り、錠を外して屋敷の扉に手をかける。押し開けるその音は、やけに高く響いた気がした。
わっと夜の静寂と冷たさが流れ込んでくる。
月は生憎雲間に隠れているようで暗い。
わずかな星明かりに照らされながら俺は暗いエントランスを振り返り、
「──いってきます」
小さく静かに、別れを告げた。
あの日も。
俺はあの日もそう言って家を出て、それきりになった。この世界へ引き込まれて、そのまま帰れなくなった。
だからひょっとしたら、ここへももう戻れないかもしれない。
ぽつんと湧いた不吉な予感は、黒雲のように胸に広がる。
頭を振ってそれを打ち消し、一歩踏み出したその時。
「こんな夜更けに、どこへ出るつもりだ?」
独り言のはずの呟きに、応えがあった。
「え、な、なんで……」
うろたえる俺目掛けて、姫様はつかつかと真っ直ぐに近づいてくる。
深夜だというのに、お気に入りのドレスのままだった。
銀色めいた白を基調に金の飾り糸で意匠されたそれは、光線の具合で淡い黄金とも輝く白銀とも見える。姫様の特徴的な髪の色、月の色合いと相まって、月光がここにだけ降り注いだみたいな艶やかさだ。
けれどじっと俺を見据えるその目は冷たく燃え上がるようで、歩みの速さに尾を曳く髪は怒りで膨らむようだった。
「ハギト、この、大馬鹿め!」
そして鼻先に噛み付くようにして一喝。
……されたと思ったら、直後ぐるんと視界が回った。痛烈に足を払われたのだ。どういうタイミングの賜物か、体は一瞬地面と平行になるくらいまで浮き上がり、それから俺は重力に従い床に落ちる。
鎧を着込んでたのと、咄嗟に手をついて受身を取ったから大事にはならなかったけれど、下手すりゃ結構な怪我をしそうな勢いだった。
日頃の鍛錬の大切さを噛み締めつつ、唐突な、姫様らしからぬ暴力に呆然と倒れたままでいたら、今度は鎧の襟廻の辺りを掴んで上体を引き起こされて、ごつんと一発頭突きを食らった。
いや痛かったけど、目から火花が出るかと思ったけど、それよりも何よりも、なんだってそんな男らしい一撃ですか。
「予測していた事ではあるが……私は、かなり本気で怒っているぞ?」
体を戻して腰に手を当て、姫様は俺を見下ろして言い放つ。今のは姫様自身もかなり痛かっただろうに、眉一つ動かしていない。
「とにかく、立て。ここは悪目立ちをする。言い訳は部屋で聞かせてもらおう」




