1.
アンデールとその西の隣国であるイーブスは、厳密には国境を接していない。両国の間には未開拓の森が横たわっているからだ。
霧の森。或いは呼ばわいの森。
そのように「森」と通称されはしているけれど、木々は大きな生き物が通るのに困らない程度のまばらさで、さして広くも深くもない。開拓をすれば川を使った水運の他に陸路もできて、アンデールの国としては喜ばしい。
であるのにこの森が拓かれないのは、そこに無数の魔性が棲むからだ。
彼らは霧に紛れて人を呼ぶ。一番大事な人の声を真似て人を呼ばわる。もしそれに惑わされて赴けば、もう決して帰っては来れない。
……なんてのはまあ、どこにでも遊びに忍び込む子供向けの脅かしだ。
実際には亜龍種ってのがここに集落を作っているのだという。
亜龍って名前は以前もちらっと聞いた事があって、確か「二足歩行で道具を使う蜥蜴人間だ。尾と鱗を備え、牙と爪とに毒を持つ。我々より体躯が大きく膂力も強い」みたいに姫様が言っていた。
こいつらは縄張りに敏感で、開拓民のみならず森の周囲を行き交う隊商までも襲うのだとか。
幾度か討伐も試みられたけれど上手くは運ばず、結局イーブス方面の街道は整備もされないまま廃れるに任せた形になっている。
幸いにも人が亜龍種を恐るように亜龍種もまた人を恐れ、森から繰り出してくる事はなかった。要するにネガティブな共存状態が保たれていたのだ。
だが先日。
この森の亜龍が突如として、イーブスへ雪崩打つという事態が起きた。
社会性を持ち群れを作る亜龍だけれど、しかし今回のこれは組織的、計画的な襲撃ではなかったらしい。森から現れた亜龍の殆どが異常なまでに衰弱しており、まるで何かに追われ、逃げてきたかのような有様で、イーブスの軍にとって群れの殲滅は容易だった。
問題が起きたのはそれからの事だ。
防衛戦に参加したイーブスの兵士たちが、高熱を発して次々に倒れた。
悪い事に作戦行動終了後、後詰めと交代する形でその部隊は街に帰還していた。よって彼らが譫妄状態となったのは自宅のベッドの上が殆どであり、軍が発症を把握した時には、既に街中に感染の芽は撒かれてしまっていた。
イーブスは亜龍のもたらした伝染病としてこの街を封鎖し、また法王府へ協力を要請した。
亜龍種にこの疫病を伝播させ、追い散らした何かが霧の森に潜んでいる。そう判断しての事である。
応じて法王府はただちに管理下にある魔術士を派遣。
彼らは毒の発生源と思われる亜龍の死体の尽くを焼却した後に森へ調査に入り、そして亜龍集落の近辺で一体のはぐれに遭遇する。それは、死んだように生き物の気配が絶えた森の王であるかのようだったという。
屠殺すべしの意見も出たが、既に一行はこの亜龍の毒気に当てられていた。たちどころに始まった発熱により法王府の精鋭ですら魔法術式の構築がままならない機能不全の状態に陥り、やむを得ず最低限の処置のみを施して撤退した。
事を重く見た法王府は対象を特別命名個体に指定。毒龍アペーモシュの名を冠して警戒を開始する。
そして、誰かが言った。
この症状は耳にした事がある、と。
アンデール熱。或いはアンデールの火。
そう名付けられた熱病に酷似している、と。
以上の報告が法王府から姫様のところに届いたのは、そういう次第からだった。
つまり「病魔なんてのがいるらしいけど、お前ら悪さしてないだろうな」って念押しと、「この病気をさっさと治せ。無理なら対処法だけでも教えろ」って事である。容疑については完全否定して、アンデール熱の療法については俺と姫様の知識にある限りを伝えておいた。
そうして使者の人が資料を抱えて退出した後、姫様の執務室には重たい沈黙が落ちた。
ピースがかちりと噛み合ってしまった感覚がしていた。
イーブスの病は、毒龍の撒き散らす熱病は、俺の風邪と似ているのではない。同一のものだ。そういう絵が浮かび上がって、それが正しいものであると、どうしてか確信できてしまった。
──また、増えた。
腹の中をごりりと苦いものが蠢く。
もう消え去ったはずの過去が黒々と頭をもたげて、そうして死者の列を増やしたのだ。そう、思った。
「それにしても毒龍アペーモシュとは。随分な脅威と断じたものだ」
ぽつりと。やがて姫様が暗い静けさを打ち払って呟く。気遣うように俺を見ていた。
「謂れのある名前なんだ?」
「ああ」
俺は努めて表情を作って、しりとりのように会話を繋げる。
「こちらの歴史に残る龍の名だ。落陽ヤム・カー、悪食エルモルクルル。それらと並べて語られ、恐れられる三悪龍の一体だ。告死の毒龍アペーモシュ。夜よりも深い黒鱗に銀の糸の如き毒煙をまとって闊歩し、土と岩とを腐らせる。行き遭えば即ち死ぬという」
なるほど、会っただけでばたばたと人が倒れるんだから、そのイメージは近いのかもしれない。
でも法王府の人たちが毒龍と遭遇しただけで感染した、ってのは多分勘違いだろう。
既に風邪を引いた亜龍種が走り回った森の中に、マスクもしないで踏み込むから、それでばらまかれてた風邪のウィルスにやられたのだ。
これが風邪のウィルスにも当てはまるかは分からないけど、確かインフルエンザウィルスは湿度が高いと死滅率も高い、みたいな話を兄貴から聞いた覚えがある。まさにインフルエンザに罹ったおふくろの看病をしながら、「よって保湿すべし」とかなんとか語っていた。
なんでイーブスの街の方はともかく、霧の森なんて呼ばれるような場所なら、おそらくこれ以上の被害は拡大しないんじゃないかと思う。正確には、思いたい。
ただし気になるのは、調査隊が見たってはぐれ亜龍の存在だ。
どうやら亜龍にも風邪は感染るみたいなのに、そいつだけが平然とそこで活動していたってのは何かおかしい。
「ハギト」
「はいはい?」
「お前は、同じものだと思っているのだな?」
咄嗟に逸らした視線を、ぐいと両手で頬を掴んで引き戻された。
相も変わらず姫様は、俺の隠し事に恐ろしく鋭い。ポーカーフェイスだって、少しは手馴れてきたはずなんだけど。
「うん。どこからどうやって森にまで伝染したかは分からないですけど、俺が持ち込んだ風邪で間違いないと思ってる」
俺は大人しく首肯する。経験上、誤魔化してもまあ無駄だろう。
姫様は俺を観察しながら、「そうか」と目を伏せ、
「森への感染経路だが、それはおそらくデュマだろう」
それから唐突に断言した。
「父とアンリ、それにミニオン卿までもを巻き込んでいたとはいえ、あの男には露見すれば罪を問われる仕業を行っている自覚があったはずだ。どこかに転移術を活かした隠れ家を設けていてもおかしくはない。であれば、それはあの森が最適だろうと思っていた。アンデールに程近く、人の踏み入らないという好条件を満たしている。デュマの魔術技量であれば、亜龍の目も容易に欺けたろう」
姫様は俺がこちらに来た当時から、デュマの探索に手を尽くしてくれていた。俺を元の世界に帰す手段に一番近いのがヤツだったからだ。その網にまるで引っかからなかったってのも、そういう事なら肯けなくもない。
そして俺はデュマに、思いっきり咳を吹きかけてやったのを思い出す。
当時はただの嫌がらせのつもりだったけど、あれは日本の風邪に免疫のないこっちの人間にとっては生死に関わるレベルの行為だったわけで。
「じゃああいつは風邪引いたままそのセーフハウスに逃げ込んで」
「ああ。おそらくはしばらく生きて、だがそれからそこで息絶えた。その死体を亜龍が嗅ぎつけ、そうして亜龍種の中に病が蔓延したのではないかと私は考える」
でもって群れ中病人になって大パニックで、イーブスへの暴走に繋がった、と。
一応それなら説明は通る。けど、でもやっぱり。
「腑に落ちないのは、ただ一体活動していたというアペーモシュの存在か」
「ええ。なんでそいつだけ罹患もせずにぴんぴんして……あ」
「心当たりでもあったか?」
姫様の問いに俺は首を縦に振る。
「無症候性キャリアだ」
そういう症例の人の話を、漫画で読んだ記憶がある。
腸チフスのメアリー。本人は健康なまま、発症しないままの保菌者で、無自覚に周りに腸チフスを感染させてしまっていたという。
風邪でもそういう事が起こりうるのかどうか。
俺の乏しい知識じゃ、その問いには回答はできない。
そもそもこのファンタジー世界で、風邪のウィルスがどう変化を遂げるかなんて、お医者様にだって分かりはしないだろう。それが亜龍なんてトンデモ生物に感染した場合の事なら尚更だ。
だけど、ひとつだけ確かな事がある。
件のメアリー・マローンさんは結構長く生きた。そして彼女の中で、同じだけ腸チフスの菌も生きた。
毒龍アペーモシュ。
これが、もし同じ症例だとしたら。
「姫様。亜龍種って、どれくらい長生きするのか分かりますか?」
「飼育下で天寿を全うした例がない。正確な事は言えないが、祖父が片目を潰した亜龍を、孫の代になって仕留めたという話がある。人よりはずっと長寿だろう」
ざあっと血の気が引くのが分かった。
「……ハギト?」
気遣わしげな姫様の声が遠く聞こえる。俺は拳を固く握り締める。
俺が、一番高いはずだ。
俺の体には現代日本で鍛えられた免疫力があって、あの風邪だって大分辛くはあったけど、それでも生きるの死ぬのまではいかずに乗り越えられた。
とりあえず、「一回罹ったら同じ年の風邪は引かない」って経験則はある。
でも病気の抗体がどういう仕組みだとかはやっぱり知らないし、デュマから亜龍を経た風邪のウィルスが変化してないって保証はない。俺がまた同じ病気にやられる場合だってある。
でも、それでも。
森に蔓延した熱病の影響を受けずに、その亜龍を殺せる可能性が一番高いのは。
多分、俺のはずなんだ。
責任を果たすべきだと思った。
俺がこの世界にしでかしてしまった罪過の、責任を取るべきだと思った。
どうでもいい事からなら逃げたっていい。
でもこれは、俺がやらなきゃならない事だ。絶対に逃げられない、成し遂げられないなら死んでしまった方がいいような役目だ。
そう覚悟を決めたら、胸の奥が少しだけ甘く疼いた。




