5.
「可愛いかったな!」
馬車の扉を閉めるなり、姫様はそれまでのクールな面持ちをかなぐり捨ててハイテンションになった。
頬を紅潮させてはしゃぎ気味の君の方が、世間的にはよっぽど可愛いと言われる状態だと思う。
「手のひらに触ったら、私の指をぎゅーっと握ったぞ。きっと私が伯母だと分かったんだ」
姫様が何を熱く語っているかというと、それは姪っ子のステラちゃんについてである。
アンリの娘であり、現在はマラークさんて貴族の家で養育されている彼女と、姫様は今日初めて顔を合わせたのだ。
朝方突然、
「ステラに会いに行く。……ので、付き合ってくれないか」
と沈鬱に切り出された時は色々と懸念もしたけれど、実際に対面してみればあっという間に緊張も解れて何の事もなかった。むしろご覧の通りの上機嫌だ。まさに案ずるより産むが易し。
あとまあ、姫様が素直に不安な気持ちを表情や声音に出してくれるようになったのは、頼ってくれてるみたいで俺としてはわりと嬉しい。
ちなみにステラ・アンデールは実際に可愛らしい子だった。
髪はアンデールの血筋なのだろう。姫様やアンリと同じ、月光の色合いをしていた。くせっ毛なのと翡翠色の瞳は、会った事ないけど多分、母方の血なのだろう。きっと将来は美人になるなと思った。
「しかしハギト」
「はい?」
「お前は随分と子供好きだな」
ステラはちょうどつかまり立ちができるようになったくらいで、難しい話をするマラークさんと姫様の周りをずっとちょろちょろしていた。多分初めて会う人が物珍しかったのだろう。
俺はといえば転んだりしないかとはらはらして、彼女の後をずっとついて回っていた。
そんな有様を思い出したのか、姫様が隣から唐突に言う。
「それはまあ、好きと言えば好きだけど」
姫様ほどじゃありません、と心の中で付け加えたら、まるでそれを聞き取ったかのように彼女は深いため息をついた。
「お前は、自分の子供もさぞ可愛がるのだろうな。……すまない」
「いえ」
一応首を振っておいたけれども、なんだ? なんで今の流れで俺、謝られたんだ?
訳の分からないまま、馬車の座席には妙な沈黙が落ちてしまった。
別に嫌な空気ってわけじゃないんだけど、どうにも浮ついたというか、落ち着かないというかな気分になる。明らかにナナちゃんの「幸せ者」発言を意識してしまっている。
というかこの人とふたりっきりの時、俺は普段、どういうふうにしてたんだっけ。
「えーとですね、姫様。お節介かもしれないですが、ちょっと思ってる事がありまして」
「……」
とりあえずステラがお気に入りの今がいい機会かと口を開いたら、非常に寂しそうな眼差しで見据えられてた。
「お節介かもしれないけど、ちょっと思ってる事があるんだ」
いかんいかんと慌てて言い直す。
つい癖で敬語使うたびに、姫様はこの目で俺を非難するのだ。なんかとても悪い事をした気持ちになってしまうので勘弁していただきたい。というか翻訳さんもこの辺りの事情を考慮して、上手くフォローして訳してくれりゃあいいのに。
「うん、なんだ?」
今度は普通に応じてくれたけど、切り出そうとしたのはそれなりに言いにくい話である。舌で舐めて唇を湿した。
「アンリと、仲直りしない?」
予想通り、姫様の薄紫の瞳が怯んだ。きゅっと小さな手が拳を作る。
それに気づかないふりをして、俺は続けた。
ステラの相手をしてる時の姫様は、とても楽しそうで幸せそうだった。だけどあの子を見るたびに、姫様はきっと弟さんの事を思い出すだろう。それは仄かだけれど確かな影として、これからも落ち続けるに違いない。
それなら、と思うのだ。
「唐突だけど、俺は雑草なんだ。いまいち冴えなくて目立たなくて、気づかれずによく踏まれてる。でもって踏まれるとすぐに頭を下げて屈する」
発言を聞いて、む、と姫様が眉を寄せた。
「自分を卑下するな」と言いたげに唇を尖らせるけれど、ここは一先ずスルーである。
「だけど踏まれ慣れてる分、屈し慣れてる分、しつこくてしぶといんだ。意地張って見栄張って、すぐにまた頭をもたげる。なんせ俺はそんじょそこらの雑草とは格が違う。おふくろに虐げられて出来のいい上と下に挟まれて、屈折し尽くしてる。で、その雑草エリートな俺の目から見るとさ」
ちょっぴり勇気を出して、膝の上の姫様の拳を俺の手で包む。
驚いてこちらを向いた姫様の目を、いつも彼女がそうするみたいに真っ直ぐに見た。
「弟さんの件は、全然取り返しがつくんじゃないかって思う。姫様はあいつの事、『絶対に許せない』なんて思ってないだろ? あいつもあいつで周りに唆されて変な具合に歪んで動いちゃったけど、一応罰は受けたし。そしたらそこでリセットって考えて、動いてみるのってありなんじゃないかな。だってアンリは手の届かない場所にいなくなってしまったわけじゃない。なら『次』や『また』の機会がきっとある。チャンスがある限り、しつこくまた食らいついてやればいいんじゃないかって思う」
当然ながら、これはただの思いつきの励ましじゃない。
姫様の悪口吹き込んでアンリを煽ってた獅子身中の虫はもういないわけだし、姫様との会見待ちの人を応対してる時に探りを入れてみたんだけど、わりとアンリは憎まれてない。「踊らされた可哀想な子」ってのが総評っぽい手応えだ。姫様が温情かけて付き合いを再開しても、文句は多分出ないはず。
あとこれは思い返しての個人的な感触なんだけれども、あいつどうもシスコンっぽい気配がするんだよな。滅茶苦茶に歪みまくってるけど、根っこの部分に「お姉ちゃんに認められたい」があるように思う。
出来のいい上を抱えた下の気持ちなら、俺はよく分かるつもりだ。
一度完全にへし折れて、全部なくして素面に戻って。
そこへ差し伸べられた手をどうするか。
それはあいつの器量次第だけども、そう分の悪い賭けじゃないんじゃないだろうか。
「そりゃまあさ、独りだったら失敗を繰り返してるうちに心が折れるかもしれない。でも、姫様は独りきりじゃないだろう? だから今度、あいつに声かけてみようぜ。直接きちんと顔を合わせれば、何か変わったりするかもしれない。いきなり会うのが怖いなら、あいつとは因縁もある事だし、俺が先に会ってある程度の話をつけたっていい。だから、いつかきっと、ってのを信じてみないか?」
しばらく、姫様は迷っていた。視線が俺の顔と膝の上とを往復して泳ぐ。
けれどやがて固めていた手を開いて、俺の手を握った。
「……そうだな。そうできたら、そうなったら、私は嬉しい。けれど私一人ではそうする勇気が足りないないのも事実だ。ハギト、その時は側に居てくれるか?」
「勿論。上手くいったら一緒に笑ったりはしゃいだりしよう。駄目だったら揃ってしょげたり愚痴ったりしよう。俺にできるのはそれくらいだけど、それでいいならいくらだって、俺は姫様に付き合うよ」
頷くと、彼女はぱっと表情をほころばせる。見てるこっちが幸せになるくらい、満開の笑顔だった。
それから自分に近い側の俺の肘を捉えて、胸にぐっと抱き込むようにしながら寄り添ってくる。
「あ、あの、ちょっと姫様……?」
「私は今機嫌がいい。お前にも分けてやろう。……こういうのは、嫌いか?」
不敵に言ってのけながら、でも少しだけ不安そうな色を残して姫様は俺を見る。
ああもう駄目だ。きっと全部姫様が悪い。姫様が可愛いのが悪い。俺はこの人に逆らえない。
されるがままになりながら、せめてもの抵抗で俺は彼女の逆方向へと視線を逃がす。
「姫様って、もしかしてくっつき魔?」
「ふむ。かもしれないな。だが誤解はするなよ。誰彼構わずではないぞ」
ことことと、車輪の回る小さな音だけがする。
この馬車が高級品でよかったなあ。走らせてる時の衝撃が少ないから尻は痛くならないし、防音が施されてるから中の会話が漏れる事もないだろうし。
御者の人にこんな会話聞かれてたら、俺は恥ずかしくて死ねる自信がある。現状だけでも顔が火を噴きそうに熱いってのに。
「と、とりあえず、姫様がわりと駄目な人ってのは分かった」
「その通りだ。なにせ私は、特別なんかじゃないのだから」
せめてもの反撃をと思ったら、カウンターパンチ一閃で轟沈だった。
「忘れてくれって言いましたよね!?」
「嫌だと答えたはずだぞ」
得意げに姫様は胸を張る。
俺の腕を抱えたままでそんな動きをすると、一体どういう事態が起きるのか。それは意識していらっしゃらないご様子である。
「それに私はもう、寄りかかる事を覚えてしまったからな」
止めにとばかりにそう言いながら、肩に頭をもたせかけてきた。
前からぐいぐい来る子だとは思ってたけど、いくらなんでも攻勢が苛烈すぎるだろ。これはもう告白されてるのと大差ないのじゃあるまいか。また抱き締めて、それからキスくらいしても許される雰囲気なのではあるまいか。
むくむくと湧き出る下心を抑え込んで、
「それはそれとしてですね、ちょっと質問があるんですけど」
「……」
「それはそれとしてさ、訊きたい事があるんだけど」
言い直しすと満足そうに頷いて、また姫様はことりと俺に頭を預ける。
「ええと、その、なんでタマちゃんやナナちゃんを焚きつけるような真似したんだ?」
姫様の感触の所為で、どうやら俺の頭は茹だりきっているらしい。俺に関する事とかナナちゃんの自白とかをぼかすと上手い言い回しが出てこない。
お陰で要領を得ない問いになってしまったけれど、それでも流石は姫様である。あっさりと内容を理解したらしく、絡めた腕はそのままに体を起こして俺と向き合った。
「そうか。スクナナがもう漏らしたか」
……うわあ。
この人、ナナちゃんがぽろっと口を滑らすのを織り込み済みで動いてたっぽいぞ。
「知られた以上は答えておこう。端的に言うならば、お節介だ」
「お節介?」
「これは私個人の経験則だが、人に好かれているという実感、愛されているという自覚は、立ち上がる力をくれる。歩いていく力をくれる。今のお前にはそういうものが必要なふうに見えて、だからそれを押し付けた。そういうお節介、余計なお世話の類だ」
やっぱりと言うべきか、姫様も俺の心に鬱屈があるのはご存知らしい。
一瞬下を向きかけた俺の腕を、強く彼女は捕まえ直す。
「ただしこれについては、その思惑とは別物と考えてもらいたい。これは私がしたくてしている事だ。なんせ、私はくっつき魔だからな」
俺の心境を見透かしたその上で、しれっと姫様は耳元に囁く。
そうしてへどもどする様を肴に、ひどく幸せそうに笑む。からかっているとかそんなんじゃないのがひと目で分かってしまうだけに、より一層に質が悪い。
──あれはですね、
タマちゃんの言葉が耳を過ぎる。
──恋をしてるんですよ。
つまりはその、「そーゆー事」なのだろうか。眩しくて、ちゃんと目を合わせられない。
「だが格好の潮ではあるな。そろそろ婉曲でお前を惑わすばかりの振る舞いは慎むべきだろう」
あー、そうしていただけると、俺の心の平穏的には大変もありがたいです。
まあちょっと惜しいかなって気持ちはなくもないけど、でも流石に恵まれた状況過ぎて、なんかもう揺り返しが怖い感じだったし。
いずれ答えは出すにしてももうちょっとだけ時間をくださいよ、なんて思う。
だけども俺のそんな安堵は、続く姫様の言葉で打ち砕かれた。
「幸いにして大義名分もある。今後は、もっと直接的に行くぞ」
「へ!?」
「ハギト、今夜は空けておけ。お前の将来についての会議を執り行う」
そうして姫様は唇に、この上なく魅力的な微笑を浮かべてみせる。
……絶対よくない事企んでるぞ、これ。




