3.
「今後はこれを教科書にしようと思います」
翌日の午後。
「ナナさんに買ってきていただいきました」とタマちゃんがテーブルの上に乗せたのは一冊の本だった。
童話か何かの絵本だろうか。可憐な女の子を背に庇うハンサムの図が表紙絵で、こういうのって世界共通規格なんだなあ。
「文字には大分慣れてきたご様子ですし、ひとつ物語の筋を追っていってみましょう」
ああ、そういえば杏子に勧められた事がある。
「英語勉強するなら、知ってる話の英語版を読むといいよ」って。妹になんのアドバイスされてるんだって話だけども、ストーリーの概略が知ってると、結構言い回しとか表現とかが分かるもんなんだよな。
ちなみに兄貴は好きな洋楽の歌詞対訳を見ながら歌って学んだそうな。いやそれ勉強なのか。というか本人は楽しいかもしれないけど、あれ、周りは大変迷惑だった。無駄によく通る声してっからうるさいんである。
「タマちゃん先に聞いてもいいかな? これ、どんな話?」
拙い語学力で表紙を読み解くと、タイトルは『星の騎士と月の姫君』……でいいのかな? やっぱりおとぎ話っぽい感じだけども。
「ええとですね。悪い大臣に国を奪われたお姫様が、更に命まで取られそうな大ピンチになりまして。そこで本当に困った時以外は使ってはいけないと言われていた秘伝の魔法を使うとですね、なんと空の星から騎士様がやってくるんです。現れた騎士様は勝手の違うこの星だと上手く力を振るえなくて苦戦するんですけど、お姫様の協力があれば大丈夫なのが分かって、そこからは二人の逆転劇です。お姫様の国を取り戻す為に、二人は協力して困難を乗り越えていってやがて恋仲になるんですけど、でも騎士様は自分の星に帰らなくちゃいけなくなって、さあどうなる、っていうお話です」
いやどうなるんだ。結末気になるじゃないか。
「実はこの本、今大流行なんですよ。お芝居にもなってるんです」
ぱらぱらとページを捲ってみたけど、絵本かと思ったら残念ながらイラスト少なめで、斜め読みでは内容が分からない。ただこのお姫様、独特の薄紫の瞳と月の光の髪の色をしてて、なんかちょっとうちの姫様っぽいよな。
「それが誰かは知りませんけど、そういえば下敷きになってるモデルがあるって噂ですね。それが誰かは知りませんけど!」
とかなんとか考えつつでぼやっとしてたら、タマちゃんがすかさず、企みが上手く運んでる時のにふふ顔で続けてきた。
……いやまさか。まさかとは思うけど、ひょっとして。
「あの、もしかして」
「どーしました、変な顔して?」
なんだよタマちゃん、そのとびっきりの笑顔は。
でもそれで察しがついた。これってば姫様のお話だ。疫病を終息させてお家騒動的暗殺事件に巻き込まれてと、振り返れば彼女ってば波乱万丈の人生である。おまけにあの見た目で魔法資質の塊ときたもんだ。そりゃ物語のネタにだってなるだろうさ。
じゃあだけどそうすると、この表紙のもう一人ってつまりアレか。そういう事なのか。うわあ。
姫様の方はまあ現状に即してるというか、ちょっともの足りないくらいの挿絵なのだけども、俺の方は美化されすぎててヤバイ。誰だこれ。誰だよこれ。これ誰だよ。美化されすぎだろう。目と肌と髪の色くらいしか共通点がないだろう。俺、しばらく外を歩きたくない。
でもって頭を抱えてからふと気づく。
こんなにも世間に顔向けできない心持ちだってのに、あの快気祝いパレードで、俺は思いっきり街中を練り歩いてる。「なんだ、実物ってあんなのなんだ」と知らぬ間に幻滅されていた可能性すらある。もう死にたい。
ヒーローとして勝手に祭り上げられる人の気持ちが、ちょっぴりだけ分かった気がした。
「というわけで、ハギトさんはこれでお勉強してくださいな」
俺の理解を見て取って、タマちゃんは相変わらず満面の笑みである。
ひょっとしてタマちゃん、この前の事をまだ根に持っていらっしゃるのだろうか。
「それでこの中の甘ったるい台詞を覚えてですね、膝枕でも腕枕でも何でもしながら、是非とも姫さまに囁いて差し上げてください」
「なんでそんな子供の嫌がらせみたいな真似しないとですか。というかそれ、俺にもダメージなんだけど」
「……だって」
彼女はそれこそ子供みたいに唇を尖らせ、
「だって、姫さまにばっかりハギトさんが優しいの、羨ましいじゃないですか」
いやこの子はまた薮から棒に何を言い出すんですか。
俺が言葉をなくしていると、タマちゃんは美男美女の表紙で赤らんだ顔を隠した。そうして本の陰に隠れたままで、またしても唐突に話を転じる。
「姫さまってば、最近ますますお綺麗になったと思いません?」
それの事にちょっとだけほっとしながら首肯した。
まあ近頃の彼女は、元気というか楽しそうというか輝いてるというか。
以前ナナちゃんに「姫様はハギといる時は声が違う」なんて指摘された事がある。その時はさっぱりちんぷんかんぷんだったけど、今は俺にもちゃんと分かるくらいに声を弾ませてやわらかく笑う。
確かにこの頃、とみに綺麗だなって思う。
「あれはですね、恋をしてるんですよ」
「こっ!?」
「そうです。恋です。人を好きになると毎日が素敵になるんです。その人の顔を見るだけで、声を聞くだけで、びっくりするくらい幸福になるんです。ちょっとスキップしちゃったりなんかするものなんです。そうすると周りからも、ぐっと綺麗に見えたりするんです」
「そういうものなんですか」
「そーゆーものなんです」
表紙から顔を出して、えっへんと胸を張るタマちゃん。
教えてあげた、と言わんばかりのお姉さん的態度である。
「わたしはやきもち焼きの意地悪タマちゃんですから、そのお相手が誰かはまでは教えてあげませんけど。でも、心当たり、あったりするんじゃないですか?」
う。えと、その。
やばい。逸れたと思ったのに話は全然逸れてなかった。
「以前は『そういうんじゃないです』なんて誤魔化されましたけど。そーゆーの、ですよね?」
「……はい。そういうのです」
観念して肩を落とした。大人しく白状すると、タマちゃんはちょっぴりだけ微笑む。
「なら頑張ってくださいな。わたしとしても、ハギトさんが早く姫さまとまとまってくれないと困るんです」
「え、いやなんで」
「そんなの、気になっちゃうからに決まってるじゃないですか。……ああもう!」
突然声を大きくすると、タマちゃんは持っていた本を振り上げる。
「まったくお二人とも世話が焼けるんですから! 手がかかるんですから!」
あ、こらちょっと痛いって。それ表紙が丈夫で硬いからかなり痛いって。
幸いもう防御してもオッケーなので、さっさと暴力タマちゃんから凶器を没収。それからひとつ深呼吸をして、意を決してから囁いた。
「でもさタマちゃん。でも、俺は」
「あ、皆まで言わなくてもだいじょーぶですよ」
するとそれを遮って、タマちゃんは人差し指で俺の唇を封じた。アイスブルーの瞳が、何もかもを見透かして静かに俺を見つめていた。
「わたしとハギトさんって、どこか似てる部分がある気がしてます。だからどうしてハギトさんが見ないふりで足踏みしちゃってるのか、分かるように思うんです」
小さく、けれど確かな調子でささやき返し、俺の手の中の本を指で示す。
「でもね、ハギトさん。それが多分、この国の皆の気持ちですよ。皆、このお話の騎士様とお姫様には幸せになって欲しいって、そう願ってるんじゃないでしょうか。……ハギトさんが気にしてらっしゃるのって、こういう事ですよね?」
「──」
「あ、いいですいいです。無理しないでくださいな。わたしの手の事とおんなじで、言葉だけじゃすぐには解決しない気持ちだっていうのも分かってます。だから、今はなんにも仰らなくて結構です」
「……」
さっきの突飛な話題転換は俺の反応を見る為のものだったのだろうなと、ここに至って気がついた。
話が変わったと思って俺がほっとしたのを確認して、それで確信したってわけだ。相変わらずの日常系策士である。
嘆息して、そして感謝と謝罪とを込めて深く頭を下げたら、その袖をくいくい引かれた。
「ところでですね、あのですね。もしハギトさんがわたしに対して、ほんの少しでも申し訳ない気持ちを抱かれてたらなんですけど」
「?」
先程までの怜悧な面持ちはどこへやら。
タマちゃんは急に浮ついた様子でしどろもどろの早口になり、
「わたしにも、姫様にするみたいにしてくださいませんか? ハギトさんなら、大丈夫ですから」
覚悟を決めたとばかりに俯き気味に目を閉じて、ぐっと頭を俺に近づける。
えーと。
これはその、な、撫でろって事?
改めて要求されると地味にハードルが高いぞおい。
「あの、待ってる方も恥ずかしいですから、駄目なら駄目って……」
「だ、駄目じゃない。駄目じゃないんだけど」
なんというか、罪悪感が。いやでもタマちゃんがご所望なわけだし。
逡巡しながらおずおずと、そのふんわりした蜂蜜の髪に手を伸ばす。すると気配を察したのか、彼女は一瞬だけ、ほんのわずかに体を震わせた。
「……まだ、怖い?」
「はい」
頷いて目を開けて、彼女は触れるか触れないかの距離の俺の手のひらを見る。
「なんだか悔しいです。わたしはハギトさんの事、全然そんなふうには思ってないのに。この所為でいつまでも怖がってるみたいで……あ」
タマちゃんのその言葉を、今度は俺が遮った。
大丈夫、ちゃんと分かってる。タマちゃんが俺を怖がっても嫌ってもないって、ちゃんと伝わってる。
そんな思いを込めて、ガラス細工にするみたいに、そっと触れた。
小さな声を漏らしたタマちゃんは少しの間だけ固まって、それから俺を見上げて目を細める。
「でもですね、もうすぐ姫さまやハギトさんは完全に大丈夫になるはずなんです。その証拠に、お二人以外の人の手も、少しずつ平気になってきてますから。ちょっと時間が必要なだけなんです。ですから、だから、ハギトさん」
「ん?」
言葉を切って、タマちゃんは俺の鎖骨の下辺りに素早く指を走らせた。
何か文字を書き付けたみたいだけど、いやその速度だと俺には読み取れませんってば。
「少なくともわたしは、ずっと待ってますから」
「流石はお姉さんだ。心強いな」
謎の手遊びをされたお返しに指を絡めて梳ったら、「ハギトさんの手って意外とおっきいんですね」なんて照れ隠しめいて。そして同時にちょっとだけ寂しそうに。
タマちゃんは、にふ、と笑った。




