7.
どれくらい、そうしていただろうか。
姫様も落ち着いてきたようで、嗚咽はもう聞こえない。
ほっとひと安心してふと冷静になってみれば、である。
なんか勢いと興奮に任せてアレコレ言っちゃって結果としてこんな状態だけれども、これはよくない。凄くよくない。こんな夜更けにベッドの上、姫様みたいに可愛い女の子とふたりっきりで抱き合ってるとか、どういう事態だ。
現状認識した途端、急に緊張してきた。
だってほんのりと人肌の温度が伝わってきてて、吐く息が時折俺の首筋をくすぐったりしてきて、おまけにやわらかな姫様の体の中でも特にやわらかいふくらみがぎゅーっと押し当てられるみたいになってて。
一旦意識してしまったらもう止まらなかった。動悸は早鐘だし顔は火が出そうだし、もうてんやわんやである。
そんな俺の動揺を知ってか知らずか、姫様はぴったりとくっついたまま腕の中から俺を見上げて、
「……醜態を晒したな」
「とんでもない。それに大丈夫です。俺の方こそ姫様には、みっともないとこばっか見られてますから」
「そうかな?」
すると彼女はことんと小首を傾げる。
「私は、お前のいいところしか知らない気がする」
そうして濡れた瞳のままで、花がほころぶように笑った。
……あ、いや、知らなかった。女の子の笑顔って、距離が近いと破壊力が倍増するんだな。
俺はそのままぽけーっと数秒見蕩れて、そして我に返ってまた赤面する。姫様はといえば上機嫌の体でそんな俺を見物してから、
「迷惑をかけたな。だが、お陰でひどく楽になった。ありがとう、ハギト」
改まった声音でそう告げる。
それからぐっと腕で目尻を擦ると、俺の肩に手を添えて、そっと小さな距離を作った。乱れた髪を手櫛して凛然と背筋を伸ばす。まだ少しだけ涙が残るのを除けば、その立ち振る舞いはもうすっかりいつもの姫様だ。
今の今まで狼狽えてたのに、いざ姫様が離れると、惜しいような寂しいような心地になるから実に不思議だ。
「いえいえ。言葉だけで何をしたわけでもないですけど、でもそう言ってもらえれば嬉しいです」
言いながら、なんとなくで向けた視線が姫様のそれとばっちり噛み合った。
直後、弾かれたようにお互い大慌てで目を逸してそっぽを見た。なんだなんだ、滅茶苦茶気恥ずかしいぞこれ。
「ところでハギト」
しばし横目でお互いをちらちらと見合った後、若干上ずった声で姫様が切り出した。
「どうもその腕輪、調子が悪いようだぞ」
「え、マジですか!?」
俺にとっては一大事である。
姫様の言葉は普通に聞こえてるんで、そうすると日本語翻訳側がおかしいのだろうか。
「ああ。今はお前の言葉が、奇妙に丁寧に聞こえている。どうも距離があるように感じられてならないから、私は、先程までのお前がいいな」
これはつまりアレか。暗に「敬語をやめろ」と言われてるのか。
そういえばついさっきは勢いで、姫様に思いっきり対等の口を利いたような気がする。
「あー、いやでもですね、姫様は俺の所有者なわけですし、偉くて立派な人には相応の敬意を示すってのは、やっぱ大事なんじゃないかと思ったりするわけです」
「おかしな事を言う」
無礼千万を自認する俺が何を今更って感じだけれど、とにかくそう反論した途端、「かかった」とばかりに薄紫の瞳を煌めかせた。
「私は、特別なんかじゃないのだろう?」
そう来たか。
見事に一本というか、揚げ足というかを取られてしまった感じである。こうれはもう仕方ない。
「分かりまし……分かった、善処する」
俺は勝ち誇った面持ちの姫様に白旗を上げ、
「ただ、あのさ」
「うん?」
「俺、さっきからかなり気取った台詞を連呼しちゃってた自覚はあるんで、その、恥ずかしいからあんまり蒸し返さないでくれるとありがたいんだけど。というか、できたら今夜の事は忘れてくれると助かるんだけど」
「馬鹿を言うな。嫌に決まっているだろう」
一刀両断の即答でした。
姫様は両手で俺の頬を包んでぐいっと振り向かせて、それから眼前で不敵に笑う。
「一生、覚えておく」
とどめとばかりに、高らかに宣言されてしまった。
あー、うー、左様ですか。光栄です。
「ただ、そうだな。お前の心がけ次第では、絶対に口外しないでやってもいい」
「……何を要求されるんですか、俺は」
姫様の目にはきらきらと悪戯っぽい光が浮かんでいて、これはなんか相当な無茶振りをされそうな気配である。
「膝」
「へ?」
「だから、膝だ。お前の膝が所望だ」
いや何言ってんのこの人。
ひょっとして猟奇的な意味合いだったりするんだろうか。それは流石にちょっと。
悩んでいたら、どうやら反応の鈍い俺に業を煮やしたものらしい。姫様は無理矢理俺を引っ張って、両足を床につけてさせた。丁度椅子に座るように、ベッドに腰掛ける形を取らせる。
そして、ころん。
姫様は唐突に仰向けに寝転がった。俺の膝に頭を乗せて、要するに膝枕の格好である。
「えと、あの?」
「……」
しかしながら寝心地はあまりよくなかったものらしく、もぞもぞと体を動かして落ち着かない。そりゃまあそうだろう。高さ的にも固さ的にもいい枕じゃあるまいよと思う。
「ドレス、皺になるよ?」
「ああ、うん。そうだな」
遠回しに「起きましょうよ」と促してみたのだけれど、姫様は諦めなかった。
生返事をしながら自分の体の下に布団を丸めて押し込んで、ちょうどいい具合に高さを調整して寝直して、そうして得意げに俺を見上げる。あの、なんかムキになってたりしませんか。
ええと、俺は一体どういうリアクションを求められてるんだ。というかなんで、こんないきなり懐かれてるんだ。
「ハギト」
「はいはい?」
困り果てる俺を、膝の上から姫様が呼ぶ。
「物足りない。もう少し、私を甘やかしてみろ」
いやだから何言ってんのこの人。ホントにもうどうしろと。
脳内で色々思案と逡巡と妥協を重ねた結果、俺は子供にするように彼女の頭を撫でてみた。
ありきたりかと思ったけれど、姫様はご満悦といった感じで目を細める。もしも姫様が猫だったなら、ごろごろ喉を鳴らしていたに違いない。というか実際「ん……っ」なんて小さく心地よさげな吐息を漏らしたりして、なんかエロいですこの子。
いやしかし、一体なんであろうか、姫様の髪のこの手触りの良さは。
おそらく凄く丁寧に手入れしているのだろう。手のひらで軽くすくうように梳れば、さらさらと水めいて指をくすぐり零れていく。
「…………」
たっぷり数十秒は無心に彼女の髪を堪能して、それから俺ははっと我に返った。
そういえばこないだナナちゃんに忠告されたじゃないか。「普通女の子は髪をこんなにされたら怒る」って。思えば杏子も髪の事には敏感だった。褒めるつもりで何気なく頭を撫でたら、その後こんこんと説教をされた記憶がある。
今のところ姫様はご機嫌っぽい様子だけども、これはよくない選択だったかもしれない。これはいかんと手を引こうとしたその瞬間、やにわに姫様は首をもたげて、かぷりと俺の指を甘く噛んだ。
「……あの」
「……」
指をくわえたそのままで、姫様はじとーっと恨めしげな目で睨めつけてくる。
「なんで噛まれてるんですか、俺」
「今、他の女の事を考えていただろう?」
「……滅相もない」
口を離してからの回答に大慌てで首を振ったけれど、姫様は何もかもお見通しの風情で、ふん、と鼻を鳴らしてむくれてしまった。
さて、どうフォローしたものだろうか。
ここで無遠慮にまた触ったりしたら、きっと噛み付かれるよなあと逡巡していたら、
「何をしている。続けろ」
「あ、はい」
お達しとあれば致し方なしである。
ご要望のままにに撫でていると、そのうちに姫様の目がとろんと眠気を帯びてきた。口元を隠して小さく欠伸を漏らしたりもして、そういえば彼女、最初から憔悴した感じだったっけ。
ならそろそろ、部屋に帰ってちゃんと眠るように言わなきゃだよな。
「……タルマとスクナナに、嘘を詫びなければな」
「え?」
切り出すタイミングを窺っていたら、不意に姫様が呟いた。
「『お前たちに譲る』と、そう話していたのだが──やはり止めだ。私は私の欲しいものを、きちんと欲しいと言う事にした」
じっと俺の顔を見つめたままで告げて、人を惹きつけてやまない、いつもの不敵で晴れやかな笑み方をする。
姫様はそれからくうっと伸びをして目を閉じる。俺には話がまったく見えないのだけども、どうやら解説してくれるつもりはなさそうだ。
「ハギト」
「はいはい?」
「特別なヒーローなどいないとお前は言う。だが、私はその事に異を唱えておきたい。私の側に居てくれるお前が、お前こそは私の……」
言葉は、最後まで紡がれなかった。
姫様はいい加減限界だったようで、糸が切れるように、すとんと眠りに落ちてしまったようだった。後は小さく、安らかな寝息しか聞こえない。
「……あ」
機を逸したと気づいたのは、その直後である。
いやこれマズイですよね?
俺が身動きならないとかそういうのもあるけど、それとは別に色んな意味で、若い男女が深夜同じベッドの上とかマズイですよね?
「あの、姫様?」
声をかけて軽く揺するがまったくの無反応。
一体誰だ、この子の眠りが浅いとか言ったの。熟睡じゃないですか。責任者出て来い。
困ったなあと思いながらも寝顔を眺めていたら、桜色の唇がそっと動いた。音にはならなかったけれど、何故だか俺を呼んだのだと思った。
「居るよ。ちゃんと俺はここに居る」
囁くと、それが正答だったみたいに彼女は笑う。いつもの不敵なそれでも、口の端だけでのものでもなく。年相応に、あどけなく。
その頬にかかった髪を、指でそっと除けた。
なんだろうな、この無防備ないきもの。
「──シンシア」
急に衝動が湧き起って、俺もこっそり呼んでみた。
うーむ。誰も聞いていないと承知の上でも、何やらくすぐったいものがありますな。
「……あのー」
「うぇぇえい!?」
とかなんとか思っていたら、唐突に呼びかけられた。
びくっとなってドアの方を見ると、半分開いた扉から顔を覗かせていたのは、恒例の夜回りに来てくれたと思しきタマちゃんである。
彼女は人差し指を唇の前に立て、奇声を発した俺に向けて「お静かに」のジェスチャーをして、そのまま足音を忍ばせてベッドサイドまでやって来る。
「あ、いやそのこれは」
後ろめたい。すっごい後ろめたい。そして死にそうに恥ずかしい。
だって女の子の寝顔を覗き込んで、その上その子の名前を呟いてにやついてる現場を抑えられたんである。恥ずかしさのあまり人一人が死ねる単位を1ハギトと定義するなら、余裕の14ハギトくらいは獲得してる。死屍累々だ。
「わたし、何か申し上げるべきでしょうか?」
「……できたら、ノーコメントでお願いします」
やめて。そんな、「大丈夫ですよ、誰にも言いませんから」みたいな目で見るのやめて。
「まあ、他にも色々とお伺いしたい事はあるんですけど」
タマちゃんはそこで俺から視線を外し、姫様にひどく優しい眼差しを向けた。
「今夜のところは、姫さまのこの寝顔に免じて許してあげます」
このできたお姉さんの事だから、姫様に張り詰めていた心労には当然気がついていたはずだ。そんな彼女であったればこそ、今の姫様からはそれがすっかり抜け落ちているのをひと目で悟ったのだろう。
姫様を慈しむタマちゃんの様子から、俺はそんな推察をする。
いやでもあの、それじゃあですね。
一体全体なんで俺、君に耳を抓られてんでしょうか?




