3.
結局。
ナナちゃんはそれからずっと挙動不審で、挙動不審のまま「やっておかなきゃな仕事があるから」と空の食器を乗せたワゴンを押して出て行った。意気消沈から立ち直ったら不審行動連発とか、あの子情緒不安定なんじゃなかろうか。
というか次のお仕事大丈夫なんだろうか。
そんなナナちゃんとバトンタッチでやってきたタマちゃんは、
「ヴァンさま、雰囲気がやわらかになってましたね」
出て行く彼女を見送って、開口一番そう言った。
「タマちゃんから見ても、さっきまでのナナちゃんは変だった?」
「はい。真面目な方ですから、きっと責任を感じて心を痛めてらっしゃるのだろうなーって思ってました。なのでひとまずわたしは退散して、ハギトさんにお任せしたんです」
言われて思い返せば、俺をからかってさっと出て行くあのやり口、姫様っぽくはあってもタマちゃんらしくはない。
「俺に任せてどうなるものかは別として、気を遣ってくれてたんだ?」
「ええ、まあ、一応は。なんせわたしはおねーさんですから」
言って、小さく胸を張るタマちゃんである。
いや冗談めかしているけれど、実際良く出来たお姉さんだよなあと思う。
「それに、ハギトさんに任せてちゃんと大丈夫だったでしょう? ハギトさんはひとの気持ちに関して特効薬みたいなところがありますから」
いやタマちゃんの中で、俺は一体どんなですか。
「特効薬って、そうかなあ?」
「そーですよ。姫さまやヴァンさま、それにわたしみたいな症状には、それは劇的に効くんです。もうイチコロです」
「その言い方だと俺、毒薬かなんかみたいだな」
苦笑してみせたら、んー、とタマちゃんは考えて、
「確かにそんな一面もあるかもしれません。ハギトさんは、ちょっとは自覚してくださいな」
ちょこんと腕組みをして、何故だか責めるような目つきをする。
「えっと……俺、なんかタマちゃんに悪い事した?」
「いいえ。ハギトさんは悪い事なんてしてませんけど。全然してないんですけど。でもできたら、責任は取って欲しいなーって思います」
いやだから、一体何の責任ですか。
「まあハギトさんが駄目な子なのはひとまずおいておくとしてですね、ヴァンさまばかりじゃなくて、姫さまも大変だったんですから」
「俺に、ずっとついててくれたんだよな?」
「ええ。ハギトさんの容態が落ち着くまで全然眠ってくださらなくて、もー、姫さままで倒れちゃうんじゃないかって、はらはらしました。これもハギトさんの所為ですからね。反省してください、反省」
あ、はい。ごめんなさい。
俺なりに一生懸命やった挙句の怪我なのでちょっと理不尽な気はしたけれど、タマちゃんの剣幕に負けてつい謝ってしまった。
「それじゃあ今度姫さまと顔を合わせたら、お詫びにたーんと甘やかしてあげてくださいな」
「へーい」
それは了解なんだけれどもさ。
俺、タマちゃんに言われるまでもなく姫様にはかなり甘いような気がする。凄く甘いような気がする。一応そんな自覚はある。
「まあ迷惑をかけちゃったのは大失敗だけど、俺、皆に心配してもらえて嬉しいや。タマちゃんも、ありがとな」
「……もー。またそういう事言って、ずるいんですから」
タマちゃんは困り顔で自分の膝に目を落として、それから、
「あ、でもハギトさん、姫さまにはしばらくお会いできないと思います」
「え、なんで?」
「実は姫さま、ハギトさんの件でしばらく公務を放ったらかしにされてまして。まあそれは大丈夫なんですけど」
いや大丈夫なのかそれ、と思ったりもしたが、そういえば「政治向きの事は基本官僚制で上手く回ってて、だから上はお神輿でも問題ない」みたいな話を聞いた気がする。
「そのお休みの理由をですね、『私も手を負った事にしておけ』なんて仰ったからさあ大変です。法王府の塾に通っていたりク族院を建てたりで、姫さま、他の王族に比べて市井への露出が多かったんです。なのでお顔を知られていて、その分親しまれてるんです。そこに暗殺未遂の騒ぎと負傷が伝わったものですから、姫さまの安否についての憶測があれこれと飛び交っちゃいまして」
あー、なんか分かる気がする。
そもそもこっちはテレビのような映像メディアがなくて、情報は活字媒体が主だ。けれど識字率は高くない。だから流言飛語が広まりやすいのだ。病魔云々という俺についての情報工作をしやすかったのも、その辺りが一因である。
でもって今回の渦中となった姫様は、ただ立ってるだけでスポットライト浴びてるみたいな存在感がある人だ。どんな人ごみの中にあっても、ひと呼吸で衆目を集める圧倒的な空気を持ってる人だ。
そんな女の子がただでさえ耳目を集めそうな権力闘争に巻き込まれたとなったら、そりゃ噂にもなろうってもんだ。
「じゃあ今は、そっちの騒ぎを鎮めに?」
「はい。顔見せに市街を行脚してらっしゃいます。予定コースに場所取りが出るくらい大盛況のご様子ですよ」
うーむ、こちらの世界の人って娯楽に飢えてるのだろうか。いや、アイドルの街頭ライヴみたいなのをイメージすると近いのかもしれない。にしても暗殺事件のその後にコース決めて練り歩くとか肝の太い事だ。
「姫様は流石の人気だなあ」
「まったくです。ですのでその姫さまを守ったハギトさんも、実は時の人だったりするんですよー」
「うえ!?」
「身を呈して魔手から主を守った使い魔だとか、我が身を顧みずに姫君様を助け出した真の騎士だとか、そんな話が出回ってます。ハギトさんてば、現在人気急上昇中です」
熱病を蔓延らせる魔物ってのに続いて、またしても虚名が膨らんでるのか。なんてこった。こちらの人の認識において、俺は一体全体どういう存在になってるのでだろうか。
「あ。今ちょっとだけ、嬉しそーにしましたね?」
「……してないぞ。全然してない」
タマちゃんは俺のクールな否定をスルーして、
「だけどあんまり人気者になりすぎないでくださいね」
そう言って、俺の前髪をちょっと引っ張る。
「ハギトさんがたくさんの人に好かれるのが嬉しくないわけじゃないんですけど。でも、困ります」
いやどうしてタマちゃんが困るのさ、なんてツッコみたい気はした。仲良しの俺がもて囃されるんだからもっと喜んでくださいよ。
でもそれを言ったらまた髪をぷち抜かれる予感が閃いたので、大人しく口は噤んでおいた。
さて。
そんな世間話を交わしつつ、俺はベッドに座ったままで、タマちゃんに包帯を変えてもらたり回復魔法を施術してもらったり着替えさせてもらったりしていた。
もう至れり尽くせりな感じで、女の子にそんなの手伝わせるのは正直気が引けたりもするのだけれど、片手で全部やるのは流石に厳しいし、それに自分で着替えるとなると、うっかり手を肩の上に持っていってしまう事がありそうで怖い。
そんな次第でタマちゃんにされるがままの俺である。
着替えは上だけなのでセーフだと言い張りたいけど、やっぱり距離が近くなった拍子でかすかに香水が香ったりすると、お守りをかけてもらったあの時を思い出さずにはいられなくて。
「はい、おしまいです。痛むところはありませんか?」
「あ、大丈夫です、ありがとうございます」
ドギマギしていたところへ声をかけられて、つい返答が敬語になった。いかんいかん。
それにしても、と頭を振って、俺は自分の肩にそっと触れる。
まだ若干ながら痛みとひきつるような感覚は残っているけれど、あの傷がほんの数日でここまで治るのだから魔法って凄い。
というかナナちゃん情報によると、姫様とタマちゃんの回復魔法の資質ってのは、それだけで一生食うに困らないどころか普通に豪邸が立つレベルのものだという。天は依怙の沙汰が激しくて、与える相手には二物も三物も与えちゃうのだな。
そんな二人が四六時中ついてくれてたのだから、そりゃ回復だって早いわけだ。
そしてそもそも、「魔法凄い」と言えばである。
俺の傷がこの程度で済んだのは、洒落にならない命の危機を乗り越えられたのは、タマちゃんの魔法のお守りのお陰なのだ。
「そういえばタマちゃん」
「はい、どーしました?」
俺は枕元の手文庫を開けて、例のお守りを引っ張り出す。
「これのお礼、言いそびれてたよな。ありがとう。お陰で命拾いしました」
ベッドの上ながらで頭を下げると、
「いーえ。わたしこそ、お礼を申し上げないとですね」
座っていた椅子から立って、タマちゃんはきちんと一礼。
「姫さまを助けてくれて、ありがとーございました。ふたりとも無事で、あ、ニーロさんはあんまり無事じゃないですけど、とにかく何よりでした」
俺の頭を「いい子いい子」とばかりに撫でてくれた。
手を押さえるのはできないし、逃げるのは失礼だし、でもそのままじゃ気恥ずかしい。
俺は努めて無表情をキープしつつ、
「で、このお守りだけど、返した方がいいんだよね? なんか凄いものだって聞いたし」
「えーと……そうですね、お願いします」
桜色の唇に人差し指を当てて思案をし、それからタマちゃんは両手を出して、俺からお守りを受け取った。
「そのうちにきちんと仕上げて、また正式にプレゼントしますね。その時は」
にふ、と企み顔で笑って、意味ありげな目配せをする。
「また、わたしがかけてあげますね」
言葉と同時に人差し指で頬をふにふに突かれて、不覚にも絶句してしまった。
あーもー、タマちゃんってば時々妙に艶っぽいから困る。からかわれているのだと承知はしていても、やはりドキっとしてしまう。
当の彼女はひどく楽しげに微笑んでいて、とても負けた気分である。
「ちょっと話が逸れましたね。とにかくハギトさんも姫さまも、自分を大事にしてくださいなというお話です。おふたりを案じる人間は、ここにちゃんといるんですから」
それからこほんと咳払いして、タマちゃんはお姉さんぶって訓戒をした。
あ、はい。仰る通りです。気をつけます。
「だけどさ、やっぱり大事な相手がピンチだったら、細かい事考える前に体が動いちゃんじゃないかな」
「……それは、そうかもですけど……」
「ま、大丈夫大丈夫。またなんかあったって、俺にはタマちゃん特製のお守りがついてるんだ。タマちゃんの窮地にだって颯爽と駆けつけるぜ。たとえ火の中水のな──」
「やめてください!」
ナナちゃんの「僕がハギの事守るから」なんて宣言が実は結構嬉しかったりしたので、その剽窃めいて嘯いたりしてみたら、突然に怒鳴られてしまった。
勿論あのタマちゃんにである。
「やめてください、危ない事するの。ハギトさん血まみれで、全然目を覚まさなくて、こんなふうにお話だってもうできなくなってしまうんじゃないかって、わたし、心配したんですからね。たくさん心配したんですからね。ほんとのほんとに心配したんですからね!」
堰を切ったように、俺の両腕をぎゅっと掴んでタマちゃんは言い募る。目の端が、泣き出しそうに濡れていた。
思えばタマちゃんも責任感の強いタイプである。俺が怪我をしたのは、自分が「姫さまをお願いしますね」なんて頼んだからだとか、そんなふうに感じてたんだろう。
そこを考えずにこんな話運びをしたのは俺の失態だ。
「ごめん、タマちゃん、ごめん」
杏子やナナちゃん相手だったら、「悪かったすまなかった」と頭を撫でておくところだけども、タマちゃん相手にそれは御法度だ。
どうしたものかとおろおろ詫びているとタマちゃんは大仰なくらいに首を振って、
「わたしこそ、ごめんなさい。こんな事言うつもりじゃなかったんです。けど、けど」
「いや、悪いのは俺の方だって。心配かけて、一杯案じてもらったばっかなのに、つい調子に乗って言わなくていい事まで言った。でもほら、大丈夫だから。俺、大丈夫だから」
必死に取り繕ったのが可笑しかったのだろう。
タマちゃんは「はい」と笑って頷いて、その拍子にぽろりと涙の粒が頬を伝った。
多分。
変な周期で寝たり起きたりが続いていて。でもって傷の所為でまだちょっと熱があったりもして。
俺の頭はぼけっと働いていなかったのだ。
タマちゃんが泣くのを見た途端思考は真っ白になって、それがしてはならない行為だと思い出した時には遅かった。伸ばした俺の指先は肩の高さの禁忌を越えて、その涙を拭っている。
「──タマちゃん、悪い!」
大慌てで腕を背中に引っ込めはしたけど、もう駄目だ。タマちゃんを脅かしてしまったに違いない。きっと夕餐会の時みたいに、怯えて身を竦ませてしまうに違いない。
そう、思ったのだけれど。
「……あれ?」
きょとんとした表情で、タマちゃんはぱちくり目を瞬かせる。
「わたし、平気みたいです」
彼女は背中側に隠した俺の左手を引っ張り出すと、自分の鼻先で確認めいて上げ下げしてみる。
例の症状は少しも出なくて、それでタマちゃんは含羞むようにえへへと笑った。
「ハギトさんは。ハギトさんの手は。──わたし、だいじょーぶみたいです」
まるで神聖な儀式のように。
タマちゃんは片手に包んだ俺の手を、自分の頬に押し当てる。そうして目を閉じて、小さな息を漏らした。
多分これは、二人目になれたって事なんだろう。タマちゃんの前で手を持ち上げても大丈夫な、タマちゃんに心の底から信頼される人間に、姫様に続いて俺もなれたって事なんだろう。
嬉しくも光栄でもあるけれど、この状況はちょっとどころでなく気恥ずかしい。
でも、瞑目した彼女の横顔があんまりに幸せそうなので。
俺は少しも動けずに、ただされるがままになっていた。
あの一件の爪痕は、こうして静かに癒えていくように見えた。
だけど、本当はそうじゃない。それを俺は知っている。
まだ表に出ていないものがある。秘められたままになっているものがある。
あの日、姫様の奥深くを抉った何か。姫様に自暴自棄めいた行動をさせた何か。その正体は未だ詳らかならないままで、つまり病根はおそらく、姫様の内側に残ったままだ。
そういう目で見るからもあるだろう。
姫様の挙措にはどこかしら、儚い危うさが漂っている気がしてならない。とこか無理をして虚勢を張って、それでいつも通りに振舞っているように見えてならない。
一度きちんと話をしたいとは思うのだけれど、しかし姫様はこのところ、ちっとも俺の前に顔を出してくれない。
暗殺事件の波及で大忙しというのもあるのだろう。けれどそればかりではないような気配があった。
考えてみればあの一件、俺が結果的に弟さんを追い込んだみたいなものだ。それで姫様もああまで苛烈な処置をせざるを得なくなってしまった節がある。
──ひょっとして俺、嫌われた?
可能性としてはありうる話で、自分の思いつきに凹みまくって鬱々としたりもした。
そんな俺の元を姫様が訪れたのは、とある月の好い夜の事だった。




