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病は君から  作者: 鵜狩三善
ニーズホッグ
65/104

16.

 応接室には、足首まで沈みそうな絨毯が敷き詰められている。

 貧乏性で日本人な俺としては、平素は靴のまま踏み入るのが躊躇われてならない場所だ。

 部屋の中央には長方形の大きなテーブルがあり、その周りをまるで二人がけのような肘掛付きの一人がけソファーが取り囲んでいる。その数は手前側と奥側に二脚、入口から見て左右に四脚ずつ。

 つまり部屋は入口から奥までの辺が一番長い長方形の構造で、その奥まった位置に姫様とアンリは居た。二人とも椅子には掛けず、丁度テーブルの幅分の距離を置いて、睨み合うように立っている。


「ああ知ってたよ。父上が何をしようとしてたのかは全部知ってた。でもだからなんだよ。だからなんだっていうんだよ。それをお前に教えてやる義理なんて、僕には少しもないんだからな!」


 ドアを押し開けるなり、そんな弟さんの叫びが耳を打つ。

 俺が鎧男とやりあっていたその間に、どうやら姉弟は侃々諤々(かんかんがくがく)の舌戦を繰り広げていたものらしい。彼は白皙の美貌を朱に染めて、随分とヒートアップした様子だった。

 けれど戦っているつもりなのは、多分その弟さんの方だけだろう。

 姫様はといえばらしからぬ虚脱した風情で、鏡像でも眺めるように、ただ茫漠(ぼうばく)とアンリの方を見るばかりだ。


 ──よかった。


 それでも、姫様の無事な姿は俺を安堵させるのに十分だった。

 胸を撫で下ろしつつ弟さんへと視線を転じ、そして「しまった」と思った。

 闖入(ちんにゅう)者である俺に、彼は驚いたような目を向けていた。やがて乱入したのが俺だと把握して、瞳は激しく憎悪に燃えて姫様へと戻る。

 その面持ちはまさに一触即発といった雰囲気で、後先考えずにこの場に割り込むという俺の行動は、ぱんぱんに膨らんだ風船を針で突くのに等しい仕業だったのだと直感された。


「やっぱりか。やっぱりそうか!」


 その感覚通り、案の定で弟さんは激発した。

 あ、やばい。

 俺の背中を怖気(おぞけ)が走った。これはよくない。あの顔はよくない。絶対、悪い方向に覚悟を固めてる顔だ。


「僕に有利な、都合のいいような長広舌をしておいて、やっぱりそういう事か。こいつが来るのを待ってたんだろう!? 全部それまでの時間稼ぎだったんだな!」

「違う。これは……」

「うるさい! 今更お前なんか信じられるか!」


 釈明しようとする姫様を無視して、アンリは腰に手を伸ばす。そうして帯びていた細剣を刃音を立てて引き抜いた。

 形状からして明らかにそれは刺突用で、その事実に俺の心がまた掻き立てられる。

 こちらの世界には回復魔法が存在している。けれど魔法は可視範囲までにしか効果を及ぼせないから、体の内側までは治せない。つまり切り傷よりも、刺し傷の方が結果として助かりにくい。

 そんな得物を帯びてくるって事自体が、もう──。

 なのに、姫様は動かない。

 ぎらつく刃じゃなくて、未だアンリの顔を目で追うばかりだ。まるで浴びせられた彼の悪意に、呪縛されてるみたいだった。


「何してんだ、逃げろ!」


 たまらず叫んだその時、やっと姫様が俺を見た。そうして、淡く微笑んだ。

 ひどく弱々しい笑みだった。いつもの不敵なそれではなくて、透き通って消えてしまいそうな笑みだった。

 その瞬間に、何故だかぱっと分かってしまった。

 この人は、ここで死ぬつもりだ。死んでしまっていいつもりだ。


「──ふざけんなっ!」


 そこには何かの思惑があるのかもしれない。

 いつものように深慮遠謀の結果なのかもしれない。

 でも、それがなんだ。なんだっていうんだ。どんなにいい結末が待ってるとしたって、そんなの駄目だ。そんな未来なんて駄目に決まってる。

 俺は嫌だ。

 ()がいなくなるなんて、絶対に嫌だ。


 最初に「やばい」と感じたその瞬間から、もうスタートは切っている。

 部活柄、短距離のダッシュには自信があった。

 でも姫様は絶対的にアンリと近くて、絶望的に俺から遠い。これだから金持ちの家は無駄に広くて嫌なんだと、さっきとは逆の感想が湧いて出る。

 走れ。動けよ俺の足。ここで間に合わなかったら、一生悔やんでも悔やみきれない事になる。それが嫌なら後先なんて考えてる場合じゃない。走れ、走れ、走れ!


 テーブルに手をついて、その上に飛び乗った。ソファーまで含めて迂回するよりこちらが早い。

 アンリが剣を引いて腰だめにする。刺突の予備動作だった。

 姫様は俺から視線を外さない。まるで別れを告げるように。

 卓上を駆け抜けて、体当たりの勢いで手を伸ばす。

 止まる時の事は考えない。ただ間に合えとそれだけを祈る。

 切っ先が閃いた。

 姫様は動かない。

 スローモーションめいた視界の中、俺はアンリの細剣が肉に刃を沈めていく様を見る。

 姫様が床へと倒れ込んでいく。長い髪が尾を曳くようにふわり広がった。

 勢い余った俺の体も絨毯に転げて、その衝撃で時間感覚は正常へと復帰する。


「──なんでだよ!」


 永遠のような数瞬の静寂を破ったのは、悲鳴じみたアンリの声だった。

 先端に血を絡ませた細剣を手に、数歩後退(あとずさ)る。それは人を傷つけた事への怯えではなく。


「なんでお前が、その女を庇うんだよ!? なんでその女の身代わりになろうなんて奴がいるんだよ!」


 俺が従う義理のないこちらの使い魔のルールを参照すれば当然の行為であるのだけれど。

 それでもアンリにとって、自分が憎くて大嫌いでたまらないお姉ちゃんを身を(てい)して庇われるってのは、相当衝撃的な事態みたいだった。

 にしても痛ぇなこんちくしょう。

 左手一本を支えに立ち上がり、俺はちらりと傷を見る。

 右肩。鎖骨の横辺りをぶっすりとやられた。興奮状態にある所為か、幸い痛みは薄い。でもだくだくだくだくと血が溢れてきてて、鎧と服とを染めていってる。なんか見てたら貧血になりそう。あと利き手を動かすのはちょっと無理そう。

 流石に今のアンリから完全に目は離すのは怖い。だからやはり横目で、次いで姫様の無事を確認した。

 姫様は床に尻餅をついた格好のまま、ぽかんと俺を見上げていた。そのどこにも外傷はない。

 自分の唇が、自然笑みの形になるのが分かった。

 まあ刃物が自分の体に(うず)まってく光景ってのはぞっとしないものがあった。何よりも視覚的な怖さがやばい。異物がずぶりと潜り込んできているという、その気持ち悪さと不気味さは半端なかった。

 だけど間に合ったぞ。やってのけたぞざまァみろ。

 いやギリギリすぎて自分が刺される破目になってるけども、それがなんだってんだ。姫様が怪我するのに比べたら、こんなの全然痛くない。俺は男の子だからな。こんなのよりも、兄貴のゲンコツの方がよっぽど痛かった。

 姫様との間に体を割り込ませながら、最後に視線をアンリに戻す。すると彼はと小さく息を飲んで、更に一歩下がった。その隙に不器用ながらも左手だけで佩刀を抜く。


 ──それにしても。


 刺されるあの一瞬、妙な感覚があった。

 突きと同じ方向へ姫様を突き飛ばしながら入れ替わったわけだから、俺は思い切り胸の辺りを串刺しにされていてもおかしくなかったはずだ。でもあの瞬間、俺の体を貫くはずの切っ先がおかしな具合に逸れたような。

 でも姫様は、未だに唖然とした面持ちのまま、立ち直りも立ち上がりもしていない。今回に限っては、この人がなんかしてくれたって事はなさそうである。


「ハギト、どうして──」


 思考が脇道に入りかけた俺の意識を、その姫様の呟きが引き戻した。いや姉弟揃っておんなじ事訊くなよ。


「どうしてもこうしてもあるか馬鹿! そんなの俺が知るか馬鹿! 頭いいんだろ、自分で考えろ!」


 俺の怒声に、姫様はびくりと身を(すく)ませる。

 どうやら怒られる事をした自覚はあるらしい。なら、体を張った甲斐があったってもんだ。


「そうか、分かったぞ。お前、使い魔だもんな。でも大丈夫だ、その契約を切る方法はある。それを僕は知ってる。だからさ、こっち側につけよ。僕の味方になれよ」


 そこへ割って入った声に、俺は一瞬ぽかんとした。

 え、何言ってるんだこいつ?


「不満そうだな。ああ、他に金も貰ってるのか。そうなんだな? そうだよな、こんな女に付き従う理由なんてそれくらいなものだもんな。いくら貰ったんだ? 言ってみろ。その倍はくれてやる。それともひょっとして色の方か? お前は知らないかもしれないが、その女は見た目だけの欠陥品だ。子を産めない、術才を伝えられない出来損ないだ。でも僕ならお前の好みのを用意してやれるぞ。勿論一人ならずだ。用意されるのが気に入らないなら、お前が直接選んできてもいい。僕が話をつけてやる。だからほら、その女を見捨てろよ。いらない人間だって教えてやれよ。皆が僕にしたように、お前もそいつを裏切れよ。裏切って見捨てろよぉぉぉぉぉ!」

  

 まるで泣き喚く子供だった。

 いや、子供なのか。姫様の弟なのだから、年齢からすれば中学生とかそれくらいのはずだ。それがひたすら周りに持ち上げられて、悪意を吹き込まれて。それを考えれば憐憫(れんびん)すら覚える。彼の世界の見方がこうもねじ曲がってしまうのは致し方ない事だったのかもしれない。

 それに子供と言ったって、等号で間抜けである事を意味しない。子供だからこそ、周りの大人の感情や意図に敏感な場合すらある。

 アンリも多分、自分の立場の危うさを認識していたのだろう。ちやほやと褒めそやされるのは自身ではなく、後継ぎの地位だという自覚があったのだろう。

 だからこそ、「いらない人間」なんて言葉が出る。

 これは自己紹介みたいなものだ。姉と見比べ続けられてきた彼はそう言われるのが一等怖い。自分が(えぐ)られて一番痛い場所であるから、他人を傷つけようとする時、同じ場所を狙うのだ。

 そんな彼にしてみれば、夕餐会の一件以来次々と自分の取り巻きが減っていくのは、さぞや恐ろしい眺めだったろうと思う。

 ある日突然自分の周りから誰もいなくなって、世界中に置いてけぼりにされたみたいな、世界が敵に回ったような、そんな心持ちになったんだのだろう。

 俺も妬む側、兄貴や姫様みたいな人たちを見上げる側の人間だから、その気持ちが少しは分かる。

 だけど。


「答えは『馬鹿め』だ。お前の味方なんて御免こうむる」

「……は?」

「お前の現状には、ちょっぴりだけど同情もするよ。だけどアンリ・アンデール、お前に味方がいないのはお前の選択の結果だ。『姫様さえいなければ』なんて思ってるんだろうけど、それは違う。断じて違う。お前の側に誰もいないのは、誰の手も取らなかったお前の所為だ。だからくだらない言い訳に姫様を使うな。姫様の手すら払い除けたのは、お前自身だ」


 それから、声だけを姫様に向けた。


「もし今、ちょっとでも俺を疑ったんなら、姫様は猛省しといてください。言ったろ。『俺が姫様を嫌うなんて絶対にない』って」


 ま、甘やかすわけじゃないから、後でこの件について怒りはするけどな。

 遅まきながらじんじんと主張を始めた傷の痛みを押し隠して、俺は努めて明るく言い切る。


「お前、」


 血を吐くような声に意識を戻せば、紅潮していたアンリの顔からはすっかり血の気が引いていた。

 死人のように蒼白になって体を震わせ、転瞬、怯えたような表情が居直った凶悪さに変じる。


「お前、誰に口を利いてるんだよ。誰を妨げてるんだよ。もういいよ、お前から死ねよ。手傷を負って、おまけに力を封じられてる使い魔なんて恐るるに足らない。お前から殺してやるよッ!」


 (わめ)きたてながら、再び腰だめに構えた剣で突いてくる。

 だけどその動きは見え見えで、テレフォンパンチもいいところである。いや、テレフォンスラストとでも言うべきか。

 アンリの所作は、ナナさんにちょっとしごかれたレベルでしかない俺から見てもへっぽこだ。構えも握りも足さばきも、何もかもがなってない。

 けれど油断ばかりはしていられなかった。

 その、どう見ても素人丸出しのアンリの刺突に、さっき革の装甲は紙切れのようにあっさりと突き破られた。あの剣は魔法か何かを帯びているのかもしれない。

 だから俺は胸元を狙うその一撃の軌道を読んで、横合いから剣をうち当てた。

 突きは逸らして(かわ)せ。教えられた通りの行動だった。

 けれど、その瞬間。

 アンリの目がしてやったりとばかりに、きゅっと細められた。

 まずいと思う(いとま)もなかった。

 短く、鋭く。アンリが合言葉(ワンワードスペル)を吟じる。細剣の刀身が強烈な閃光を発した。青白く電弧が跳ねたかと思うと、俺の全身を満遍なく鈍器でぶん殴られたような衝撃が貫いた。


「が……ッ!?」


 あまりに強烈な衝撃で、意図せず喉から空気が漏れる。

 魔符が起動していたのはほんのひと刹那の間だけだったけれど、その威は確実に俺を蝕んだ。

 意図ならずでだらりと垂れた手から、剣が滑り落ちた。全身に力が入らない。そのまま俺は膝から崩れる。


 ──なんだこれ? 一体何をされた!?


 混乱する俺の顎を、アンリが蹴り飛ばした。防ぐどころか受身も取れず、俺はまたしても床に転がる。これが上質の絨毯じゃなかったら、思い切り後頭部をぶつけていたところだ。


「ハギト!?」

「動くな」


 立ち上がって駆けつけようとした姫様を、その一言が凍りつかせる。


「動くなよ、姉さん。大事なペットが惜しいなら、絶対にだ」


 俺の喉元に切っ先を突きつけ、そうしてアンリは舌なめずりをした。

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