12.
意図したわけじゃないけれど、でも笑ったらその分だけ気持ちは楽になった。
その余裕を見失わないよう、俺はいつもの太平楽で自分を塗り固める。
「よし、まずはタマちゃんに、俺の世界の魔法儀式を教えておこう」
「え、ハギトさんの魔法ですか?」
タマちゃんはきょとんと目を瞬かせる。
俺の世界に魔法はなかったと話してあるから、まあ当然の反応か。
「そう、魔法。緊張が吹っ飛ぶ魔法だ。いいか、手のひらに人、人、人と三回書いてごっくんするんだ」
空中に指で書いて「人」って漢字を教えると、タマちゃんは素直に従った。
言われた通り生真面目な顔で手のひらに記した文字を飲む。
「効いた?」
「……えと、効いてきた気がします!」
ぐっと胸の前で両拳を握るタマちゃん。うむ、やっぱ和むなあこの子。
「オッケー、それは重畳だ。頼れるお姉さんには、落ち着いてこれからを熟慮して欲しいトコだからな」
言葉じゃ余裕ぶっているけれど、正直居ても立ってもいられない気持ちだ。
俺がもたついている間に、姫様にもしもがあったら。そんな不安は黒雲のように湧き上がって、俺は体を引き裂きたくなる。
だけど焦るな。
そう、今すぐにでも姫様のところに駆け出したい自分に言い聞かせる。
肝心な時こそ落ち着かなきゃ駄目だ。気持ちだけじゃどうにもならない事があるって、俺はノノの時に学んでいる。陸上のスタート前と一緒だ。緊張しすぎて、怖がりすぎて、それでいい事なんてひとつだって起きない。
不安はある。あって当然だ。だから様々に対処できるように、考えて考えて積み上げて備えるのだ。
「お前は対応に妙手を指すが、それは所詮受け身だ。『こうなりたくない』であって、『こうなりたい』ではない」
と、これはまるで将棋で勝てない俺への、姫様のアドバイスである。
「一度意識してみろ。お前はどうしたいのか、お前の勝ちとは何かを。場面場面に対応するのではなく、自ら局面を作り上げろ。理想の形を明確に思い描いて、それへと邁進してみるがいい」
そのお互いの理想をぶつけ合って読み合ってしのぎを削るのが戦術だと続くわけだけれども、これは一事でなく万事に通じる話だと思う。
確かにこれまで、俺は自分の理想を考えるという事をしてこなかった。
どうせ無理だから。どうせ俺なんかに。そんな言い訳を先に立てて、始める前から諦めていた。
でも今、俺には絶対に諦めたくはなくて、石に齧り付いたって守りたいものがある。
だから姫様の言葉を胸に、俺は思考する。緊張で乾ききった唇を舌先で湿す。
只今現在、姫様に身の危険が迫ってる。
とりあえずこれは確かだ。
ひょっとしたら全部が俺とタマちゃんの杞憂で、姫様の言う通り全然大丈夫で何事もなかった、無駄騒ぎしただけだった、みたいな希望的観測に縋りたいところではあるけども、それはちょっと無理だろう。
何故って単身訪れた弟さんは、一人とはいえ完全武装で殺る気満々のお供を同伴していて、しかも迎えに出たタマちゃんの話によれば、姫様は自分の馬車の御者さんに早めに帰るようにと命じていたそうである。
通いの人間が帰ってからの帰宅といいこれといい、どうも意図があって姫様に人払いを頼んでるのに違いなかろう。
何より護衛部隊の動きだ。
まるで弟さんの訪問と連動するように、今日に限って何の連絡もなしに現れない彼ら。
おっちゃんからこの不審な部隊設立の動きを聞いたのは例のパーティの前で、つまりかなり前の段階から水面下で練られてた何かが動き出したって印象がある。
この辺を鑑みて「大丈夫」と言っちゃうほど、俺の頭はお花畑じゃない。
というか弟さんが一発逆転を狙って、姫様の暗殺でもしに来たようにしか見えない状況になっている。姫様を殺したその後でどう言い繕って取り繕うつもりなのかはさっぱりだけど、ちらっと垣間見た彼のあの性格からして、「姫様さえいなければどうにでもなる」とか思い込んでてもおかしくない。それくらいの視野狭窄はありえる感じ。
だけどなまじっかな謀略なら、噛み破って当然な感じなのが姫様である。
そもそもこの程度、俺にだってできる推測だ。同じかそれ以上の判断材料を持ってる姫様なら、弟さんの心中を掌を指すように看破してたって不思議はない。
でも今回に限って、姫様の挙動はなんかおかしい。
相手のいい様に動いているというか、ただ流されているだけというかな印象がある。言葉は非常に悪いけど、まるで手の込んだ自殺みたいな。
だからこそ過ったのが、姫様が全部諦めてしまったのではないかという先の不安だ。
姫様がどうしてそんな自棄めいた行動を取るのかは分からない。現時点で憶測したって分かりっこない。きっと本人に問い質すしかないだろう。
でも人間、追い詰められると投げやりな心境に陥ってしまうのだと俺は知っている。世界のどこにも居場所がないような気持ちになるのだと実感している。
こちらの世界に喚ばれて、俺の風邪でばたばたと人が死んで。それで館を武装集団に囲まれたその時、妙に落ち着いた気持ちで、「ああ、ここで殺されるんだな」なんて考えた。
企ててでなくとも人を殺したのだから、裁かれて罰を受けるのが当然で。そうなるのが正しくて楽だなと思った。
でも。
「で、その『これから』だけどさ。タマちゃん、俺、姫様を助けに行く」
あの人はそんな俺に言ってくれた。
──ようこそ、ニーロ・ハギト。
俺はそれで、ここに居てもいいんだって思えた。
今度は俺が手を伸べる番だ。
だから、俺にとっての勝ちとはそれだ。
姫様とタマちゃんの無事。単純至極なそれこそが、俺とっての勝ちの形だ。
さて、するとその為に必要なのは姫様との合流になってくるのだけれども、現在姫様が居るのは一階中央、窓なしかつ扉ひとつの部屋の中。
この応接室の壁面には防音消音の符が設置してあって、中の声は外に漏れず、外の声は中に届かない。どれだけ廊下から姫様を呼んでも無駄ってわけだ。
よってこの部屋の前に陣取るという鎧男の排除は絶対条件という事になる。
その後の弟さんへの対処は状況次第で構わないと思う。というか姫様を引っ張り出したら、後は全部姫様にぶん投げるつもりでいる。
自分だけの事なら自暴自棄になれても、他人が介入すればその為に獅子奮迅しちゃうのがあの人であるから、おおよそそれで大丈夫だろう。姫様救出作戦ならぬ、姫様合流作戦ってなわけだ。些か締まらないっぽいけど、まあ気にしない気にしない。
「荒事の心得なんて付け焼刃だけどさ。俺は今ここにいて、姫様の力になりたいって思ってる。なら強いとか弱いとか、凄いとか凄くないとか、そんなのはただのおまけだ」
自分を鼓舞すべく壮語すると、タマちゃんはひどく優しい目で俺を見た。
「分かりました。じゃあハギトさんには、まずこれをお渡ししておきますね」
手渡されたのは鍵である。
「お掃除用のマスターキーです。きっと応接室は鍵がかかってると思いますけど、これがあれば大丈夫です」
……。
これだから俺は駄目なのだととても凹んだ。施錠という事態をまるで考慮してなかった。タマちゃんが居てくれてよかったと心底思う。
「それと、わたしはク族院に逃げて人を呼んできますね」
その言葉に、多分俺は意外そうな顔をしてしまっただろう。
タマちゃんはふんわりしているようでいて、結構芯の強い、頑固な一面がある。
だから俺的勝利条件のもう一方ではあるけれど、それを満たすべく「タマちゃんはとりあえず一人で逃げて」なんて言ったら、絶対叱られると思ってたのだ。
「わたしがこういう事態に向かないのは自明ですから。手助けどころか役立たず、いいえ、足手まといにしかなりません。そうなるくらいなら、不本意でも自分にできる最善をします。わたしは、頼れるおねーさんですから」
タマちゃんは一瞬だけ悔しげに唇を噛んで、それから「だからハギトさん、姫さまをお願いしますね」と微笑んだ。
「でも、大丈夫? ひょっとしたら弟さん一味が他にも周りにいるかもだけど」
「大丈夫です。わたし、これでも乗馬の心得はありますから。それに、デルパーレ卿の噂は小耳に挟んだ事があります。権勢を笠に着て横暴に振舞う方だとか。そういう人って密やかに事を進めなければならない時に、頼れる相手っていないのじゃないでしょうか。それにですね、これってアンリさまの支持者が減ってきているのを焦っての動きな気がするんです。自分たちが有利なら、そもそも姫さまを罠に嵌めるみたいな、危ない橋を渡る必要はないわけですから」
ああ、なんか分かる気がする。
先日のあいつの下っ端の取り扱いも酷いものだった。なんせナナちゃんへの盾に捨て置いて、自分は一目散に逃げたからな。あれに忠誠心を抱ける人間ってのがいたら見てみたい。
まあ札束で頬を叩くような真似もできるのだろうけど、後暗い真似をする場合、それは自分で自分の弱みを握らせるようなものだろうし。
確実に言い逃れできる状況になるまで、第三者の介入がある可能性は低いと考えてよさそうだ。
「それから多分館の人間──つまりわたしとハギトさんには手出ししない、みたいな約束を姫様にしてるんじゃないかって思います。それなのに大人数を引き入れたりしたら、姫さまは絶対黙ってません。だからたった一人の妨害役が応接室前に陣取ってるのも苦肉の策じゃないかって、わたしは見てます」
「つまり到着まで時間がかかると分かってる救援伝令はスルーして、扉の守りを優先してるって事か」
「はい。あそこから外は監視できませんから、助けを呼びに行く邪魔はできません。でも迂闊に姫さまに接触されない為には、そこに陣取るしかないのかと」
「なら、尚更急がないとだな」
俺の言葉に、タマちゃんがゆっくりと頷いた。
遅効の危険を完全放置するって事は、逆に言えばある程度早く決着がつくと目算してるという事でもある。
……うわ。
改めて気がついたけど、俺責任重大じゃないか。
タマちゃんが戻ってくるまでの間に起こるかもしれない、姫様の「もしも」を防げるのは俺だけだ。なんてこった。
自分のやろうとしてる事を実感したら、急に恐怖心が来た。
ここで兄貴みたいに「俺が 主役だ!」なんてふんぞり返れたらよかったのだけど、残念ながら俺の肝はそこまで太くない。
ぐうっと立ちくらみめいて視界が狭まって、足元が覚束無いような具合になった。呼吸も浅く、荒くなる。「そんな大役がお前などに務まるものか」と、頭の中で誰かが笑う。
その時だった。
俺の手をぎゅっと、タマちゃんの両手が包み込んだ。
「だいじょーぶですよ。落ち着いて、いつも通りのハギトさんになってください。ハギトさんはできる子ですから、いつも通りなら絶対大丈夫です」
言ってタマちゃんは、にふ、と笑う。
でもそんな彼女の手のひらだって、不安で小さく震えていたりするのだ。
やれやれ、さっきと立場逆転じゃないか。
というか、である。
堅実に考えるなら、選択肢としてはタマちゃんと一緒に逃げるのが一番賢い。
俺は大立ち回りなんてできない。本当は物語の主人公みたいに真正面から困難を蹴散らして、颯爽と格好よく姫様を助け出したいところだけれど、そんなの無理だと分かってる。
だから仕方ない。助けを呼びに行って、後はできる人に任せる。それが理知的な行動ってものだ。自分に力がないのは確かなのだから、それは卑怯でもなんでもない。
大切なのは保身ですよ、保身。身の安全こそが第一です。喧嘩とかはできる人向いてる人が頑張ればいいんです。
とか思うのに。
なのにだけどなんだって、俺の中では姫様んとこへ急ぐのが決定事項になってるんでしょうね。どんなに頑張ったって、気張ったって、また駄目かもしれないのに。いやはやまったく不思議な限りだ。
強いてその理由を探すなら、きっと「俺がしたくないから」なのだろう。
同じ言葉ではあるけれど、ちゃんと有言実行できる姫様に比せば、それはせせこましくてちっぽけでなわがままめいた意地と見栄かもしれない。それだけじゃ何の役にも立たない、ただの気持ちだけなのかもしれない。
だけどそれでも「私が欲しい時に助けはなかった。だから私は助けるんだ」なんてのを理由にしてしまう人の手を、一瞬だって離したくなかった。
多分タマちゃんも同じ気持ちで、だから俺に「姫さまをお願いします」と告げた時、隠しきれずない悔しさを滲ませたのだ。
なら。
それならこれは、俺がしたくてする事だ。俺の望んだ通りって事だ。自分の希望に怯えるなんて、なんとも馬鹿らしい限りじゃないか。
「……そうだよな。俺ってばやればできる子だもんな」
「そーです。その意気です」
俺とタマちゃんは頷き合って、それだけで俺の心を覆った影は、嘘みたいに消え失せる。
一寸の虫にも五分の魂。
「やってやるさ」ってなもんである。




