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病は君から  作者: 鵜狩三善
ニーズホッグ
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7.

 べったり掻いた汗を流して軽食を摂って、気分を切り替えた俺が次に向かうのは厨房横の談話室へである。

 一応休憩室的なスペースのはずなのだけど、すっかり教室として俺が専有してしまっている感がなくもないよな、などと思いつつ歩いていると、


「お、タマちゃん」


 その手前で、俺とは逆側からやって来るタマちゃんの姿が目に入った。教材を胸に抱えて、丁度午後の授業に赴いてきましたってな雰囲気だ。

 肩より下を意識しつつで軽く手を振って声をかけると、それで彼女も俺に気づいた。


「あ、ハギトさん」


 タマちゃんは顔をほころばせると、てててっと小走りに駆け寄ってくる。いやでも談話室のドアは俺とタマちゃんの中間地点くらいにあったわけで、オーバランして余計な距離移動する事になっちゃってませんかお嬢さん。


「ちょーどよかったです。実は折り入って、ハギトさんにお願いしたい事ができまして」


 横に並んだタマちゃんは、俺を見上げながら言う。 

 おやおや、この子方から頼み事とは珍しい。こないだ「何か思いついたらいつでもわがまま言ってくれていい」なんて格好つけた手前もあるし、いいでしょう。俺にできる事ならなんだって聞いちゃいましょう。

 そう返して、俺は少しだけ足を早めた。

 いや別に意地悪するつもりじゃあなくて、手ぶらの俺がちょっと行って、先にドア開けとくのが親切だろうと思っただけの話だ。

 タマちゃんはちょこりと会釈して俺の横を通り抜け、テーブルに教材を置く。


「それではお言葉に甘えてなんですけど。あのですね、ハギトさんの言葉を教えてくださませんか?」

「俺の言葉?」

「はい」


 頷いて、タマちゃんは卓上の教材をぱらぱらと捲った。


「こうやってあちこちに、ハギトさん書き込みしてらっしゃいますよね。これって、こちらの言葉をハギトさんの言葉に訳して書いているんでしょう? それなら、そちらの言葉の勉強にも使えるんじゃないかと、姫さまが」


 確かにこの「こちらの平仮名書き取りドリル」的なものには、そこら中に俺の日本語が落書きされてる。こう見えても結構必死で勉強しているのだ。

 いやだって姫様がスペア作成を試みてくれてるとはいえ、翻訳さんにもしもの事があったら意思疎通がすっかり無理になるわけで、こんな気楽な会話なんて不可能なわけで。そりゃもう受験勉強なんかとは熱の入れようも違ってくるってなもんだ。

 それを利用すれば逆転の発想で、これを使えば日本語入門講座とかできなくもないかもしれない。


「いやだけどさ、俺がこっちの言葉覚えるのはまあ当然として、タマちゃんや姫様が日本語覚えてもしょうがなくないか? 使う機会なんてないだろうし」

「ニホンゴ?」

「あ、俺の世界の俺の国の言葉は、そういう名前なんだ」


 何故かタマちゃんが立ったままなので、ひと足お先で俺が腰を下ろす。すると昨日に引き続きで、タマちゃんは俺の隣に並んで座った。 あ、やっぱその位置なんですね。

 目で問うと、にこーっと笑みかけられてしまった。いやタマちゃんがいいなら、まあ俺は構わないんだけども、さ。

 タマちゃん的には気のおけない間柄、気安い友達って評価なのだろうけど、俺は自意識過剰な元男子高校生でありますから。そんなふうに間近で幸せそうに笑顔されたりすると、ちょっぴり勘違いしてしまいそうになりますから。


「えっとですね、特に用途はないかもなんですけど、でもハギトさんを理解する手がかりにはなるかなーって思うんです。わたしも姫さまも、ハギトさんの事、もっとよく知りたいんですよ?」


 更に実にタイムリーな思わせぶりを口にするタマちゃんである。

 というかこれ、絶対翻訳さんの嫌がらせだろ。当のタマちゃんにそんな意識はないに決まってるのだ。くそ、この無警戒さんめ。

 それよりも本題だ本題と俺は思考を矯正して、テーブルの上の教科書に目を落とした。


 俺、外人さんに国語を教えた経験がないから断言はできないのだけども、日本語って体系立てて教えるの、結構難しいのではあるまいか。

 語順はわりにフリーダムだし、同じ言葉でも抑揚と状況で意味が異なったりする。例えば何気ない「いいよ」の一言にしても、状況とアクセント次第で承諾と拒絶、どちらの返事としても使えてしまう。

 これに加えて漢字が厄介だ。見慣れなきゃ読めないし、ものによっては「一体ひとつの字にいくつ当てはめてんだよ」的な数の読みが存在してたりする。

 そして一番根本的な部分なんだけど、日本生まれ日本育ち異世界暮らしの俺には、名詞動詞形容詞助詞副詞接続詞なんて文法上のエトセトラを的確に教示する自信はない。

 そりゃまあ普段から使ってる言語ではあるけども、でも喋る時に毎回「文法上はこうだから」と頭の中で吟味して発言してるわけじゃないのだ。そんな七面倒臭い真似を日常的にできてたなら、俺の国語の成績はもっとよかった。

 歩く時に「次は右足を出す。バランスを保ちつつ膝を上げて前へ出して、次は足の裏から重心を移動させつつ順次接地させて」なんて事細かに挙動を考えてる人間がいないのと同じで、基本的にこれ、無意識で処理してる部分なのだ。

 それを顕在化させてちゃんとってなると、爆発するほど煩雑な気配がする。


 というわけで本来ならば、「そんな面倒な事やってられっかー!」とちゃぶ台をひっくり返すところだけれど、顧みてみれば俺、今までタマちゃんにその爆発しそうな作業をずーっとやってきてもらっちゃってるわけで。

 うーむ、とりあえず平仮名片仮名句読点をあたりを抑えてもらえば、ちょっとした読み書き会話くらいはいけるだろうか。


「……了解。多難そうだけどちょっと考えてやってみる。ただ俺、タマちゃんと違って人にもの教えるのは得意じゃないから、その辺りはあんまり期待しないどいてくれな」

「はい、優しく教えてくださいね!」


 いかん。なんかすっごくいい笑顔をされてしまった。どっしり「責任」の二文字が肩にのしかかってきた気がする。


「えーと、そしたら次、タマちゃんと姫様の予定が合うのっていつかな?」

「いえ、その」


 いつまでに日本語学習の準備を整えておけばいいのかと尋ねたら、タマちゃんはどうしてか困り果てた風情になった。


「姫さまは、わたしがハギトさんに習った後に、わたしから教わる手はずになってまして……」

「いやそんなの二度手間だろ。一緒にやればいいのに」

「えと、あの、姫さまはですね」


 タマちゃんが言いかけたところでぴんと来た。

 ああ、そうか。

 姫様は基本的にお忙しいんである。昨日は思い切り夜更ししてたけど、平素は朝出た後は帰宅の時間すら日によってまちまちだ。つまりやる事の量が安定しない感じで立て込んでるって事だと思われる。

 国政は基本官僚任せでトップはお飾りだなんて話だったけど、こないだ「承認して責任を負って、皆が心置きなく動けるように場を整えるのが私の仕事だ」とか言ってた。

 きっと、いざとなったら全部自分ひとりで背負い込むつもりなのだろうな。いや、立派な志だとは、思うけどさ。


「そーゆーのもあるんですけど。でも姫さまは多分、その……お気を回してくださってるんだと、思います」


 教科書で顔の下半分を隠して、タマちゃんは含羞(はにか)むような上目遣いでこちらを伺う。


「……」

「……」

「……?」


 しばしの沈黙の後で首を傾げたら、唐突にばしばしと手にした本で頭を(はた)かれた。

 女の子の力だしそもそも本気じゃないからさして痛くはないんだけれど、でもお手上げ禁止の上に隣からの攻撃なので逃げ場も防ぎようもない。いやこらやめなさいと騒いでいたら、


「何を遊んでいるんだ、お前たちは」


 涼やかな声が割って入った。

 驚いてそちらを見れば、一体いつの間にやって来たのか、居たのは呆れ顔の姫様である。


「あ、姫様。お帰りなさい」

「すみません、お見苦しいところを!」


 姫様は軽く頷いて俺に応えると、背筋の伸びた綺麗な姿勢のままこちらへ寄って、あたふたするタマちゃんの手から教科書を抜き取った。そして器用に片手で丸めたそれで、ポコンとタマちゃんの頭をヒットする。

 うむ、実に正当なお裁きだ。最近のタマちゃんは、時々ちょっぴり凶暴であるからな。「あう」と頭を抑えるタマちゃんを見ながらそんな具合に勝ち誇っていたら、続けて俺もポコられた。


「何すんですかもう。俺は被害者ですよ、被害者」


 訴えたのだが、即座に「馬鹿め」と切り捨てられた。


「タルマを怒らせたのなら、それはおそらくお前も悪い」


 ……あれー?

 得心のいかない俺を尻目に、タマちゃんはうんうん頷いて「正しい扱いです」みたいな顔してる。

 しかし姫様とタマちゃんって、やっぱ仲良いよな。この通じ合ってる空気は傍からでも温かいものとして感じられる。

 そもそも姫様になら目の前で手を上げられても平気っていうのが、タマちゃんの信頼の厚さの表れだろう。「この人は絶対大丈夫」って信じ込んでるって事だし。


「にしても、今日は姫様お早いんですね」

「ああ。先日の夕餐会で色々と捗ったお陰もあってな。少し前に、丁度お前とスクナナが立ち回りをしている頃に戻っていた」


 え、マジですか。全然気付かなかった。声かけてくれりゃよかったのに。そうすりゃ俺も少しは休憩できたのに。

 というかあのバテバテでへっぴり腰な状態を目撃されてたと思うと、格好がつかなくてちょっと嫌だ。


「ではお昼の用意を」

「それは後でで頼む。この件はタルマも同席して聞いておいて欲しい。悪いが少し邪魔をさせてもらうぞ」


 腰を浮かせかけるタマちゃんを制すると、姫様はテーブルを挟んで俺たちの向かいに座った。

 あ、これお説教される時の座席の位置ではあるまいか。心当たりはないけれど、そう思ったらなんか緊張してきたぞ。


「実はハギト、お前に伝える事がふたつある。本来ならもっと早く話しておくべきだったのだが、昨夜はお前の遊戯に付き合って話しそびれてしまったからな」


 おい。

 おいこら嘘はよくないぞ姫様。付き合ったのはどう考えても俺の方だ。

 じとっと視線を向けると姫様は片目をつむり、そして口元に握った手を当ててわざとらしくこほんと咳払いをした。さてはそれで押し通す気か。


「そういう事言うなら姫様、あれ返してください」

「やだ!」


 間髪入れない反応だった。

 完全にお気に入りの玩具に対する子供の態度である。あまりの事にタマちゃんがびっくりしてるじゃないか。


「「あ、あの? 姫さま?」

「大丈夫だ、何の問題もない。昨日は色々と興味深い事があってお陰でままならなかったと、それだけの話だ。そうだな、ハギト?」


 逆らったらまたテーブルの下で蹴られそうだったので、俺ははいはいと気のない同意しておく。


「とにかく、だ。まずはこれを見てもらおう」


 おろおろと俺と姫様を見比べるタマちゃんに言い切って、姫様は教科書とは逆の手に持っていた大きな封筒をひっくり返した。

 かさかさと卓上に出てきたその中身は、手のひらサイズな十数通の封書である。姫様のお仕事絡みかと思ったが、それにしては色合いが妙にカラフルというか、可愛らしいというか。


「なんですか、これ?」


 率直に尋ねると姫様は口の端で実に悪戯っぽく笑って、


「恋文だ。ハギト宛のな」

「へ?」

「ええっ!?」


 いやなんだってタマちゃんが、俺より派手に驚いてますか。

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