4.
「どうだ? 何か意見はあるか?」
書類とにらめっこ中の俺に尋ねるのは、卓向こうの姫様である。
いつもより早く帰宅して、俺のお仕事タイムテーブルの草案を持ってきてくれたのだ。場所が俺の部屋なのは、この後ここで夕食の予定だから。ちなみに、
「姫様色んな意味で俺のご主人様なんだから、こうやって部屋に来ていただくって恐れ多くないですか」
などと一応申し述べてみたのだが、「今更か。今更だ」と一笑に付されて現在に至る。ああ、うん、ですよねー。まあそうなりますよねー。
そこらはさておき、当面の問題はこの書面だ。
俺のこっちの言語力は、簡単な数字と一言メモを読み解ける程度のものであるのだが、その拙い読解力ですら判明してしまう事実がある。それは「あ、俺全然期待されてないな」だ。
……いや分かってましたけどね。流石に自分が即戦力にならないだろうってのは理解してましたけどね。
タマちゃんの家事能力には及びも付かないし、護衛としてはナナちゃんの足を引っ張るレベルだし。
なのに「俺がやるんだできるんだ」って背伸びして、それで「お手伝いする!」としゃしゃり出る子供みたいに逆に迷惑かけるみたいな感じになっても困るし、当然の裁定ではあるのだけれど、意気込んでただけにちょっと寂しい。
というか朝食を姫様と一緒してから午前中はナナちゃんと稽古、その後タマちゃんとお勉強して姫様と夕食ってこれ、今までの生活と全く変わってないじゃないか。
「無論、これはあくまで基本だ。同様に見える項目でも、これまでとは取り組む内容も変えていく。また見込みがあるようなら、適宜新規でやるべきを追加していくつもりだ」
そんな俺の考えを目線から察して、姫様が付け加えた。
「スクナナからは基礎武術の他に、近衛としての目配りや意識を教わる形になるだろう。いざという時、自分自身を守り抜く程度の仕業は遂げてもらわねば困る。お前は、私の大事な飾りなのだ」
「頑張ります」
昨日の一件もあるので神妙に頷いておく。突然冗談抜きの命懸けになるからファンタジーは油断がならない。
あと「護衛なのだから私を守ってもらなければ困る」とは絶対言わない辺り、やっぱり姫様ってば何があっても全て独力で対処する心構えなのだろう。
本人からすればそれは「周りに負担をかけない」という考えに基づいた善意なのだろうけど、逆に周囲の人間からすれば、「ひょっとして何も期待されてないのじゃないか」「自分はどうでもいい存在なのではないか」みたいな不安を感じさせて疑心暗鬼になりかねない。
俺をやたらに警戒してた以前のナナちゃんの気持ちが、ちょっぴりながら分かった気がした。彼女はこれが怖かったんだろうな。
実感を伴ってしんみりしていたところへ、
「何よりお前が血を流せば、周囲は病毒を恐れて騒然とするだろうからな。まったく、つまらない巷談の影に怯えるものだ」
「いやそれ誰の流した噂だよ!」
しれっと言ってのけやがったので、思わずツッコんでしまった。「これの体は病毒億千の褥だ。返り血でも浴びた日には腐れて死ぬぞ」とか公衆の面前でぶっこいたのは、他でもないこの人である。
だがすると姫様、悪戯を成功させて勝ち誇る子供めいてふふんと笑った。あまりにいい笑顔に気を削がれて、俺は二の句が継げなくなる。
きっと時折見せるこういう仕草こそが、この人の素であるのだろう。わりに困った本性ではあるけども、俺の前では気を緩めて油断してくれてるのだと思えば、まあ嬉しくなくもない。
「それからタルマにはこちらの普遍的観点を重視して教えるようにと伝えておいた。通貨概念と生活必需品の相場辺りを手始めに、政治向き配慮の方針と有力貴族の名くらいは覚えていってもらう形になる。こちらの一般的な考え方を把握できれば、お前の世界との差異がより明確に浮き彫られるはずだ。それはお前の知識を活かす事にも繋がるだろう」
なるほど、言葉の方は翻訳さんがいてくれればなんとかなるから、まずは一般常識を覚えなさいって事か。
でもってその常識と、俺の常識を比較して、気になった事があればどんどん上申しろと。「お前の世界からの視点で、私の思案に違う角度、異なる切り口からの助言をもらいたい」なんて言われた通りの、ご意見役を仰せつかったってなわけだ。
そこまで咀嚼して、俺はひとつ身震いをした。
やる事学ぶ事が具体性を帯びてくると、なんかこう、緊張するな。
「でも姫様」
「うん? どうした?」
「結構当て込んでくださってるみたいですけど、俺の半端な知識って、そんな使い道があるもんですか?」
水道管は一回くるりと捻ってU字にしておくと匂いが登ってこないだとか、排水口のぬめり防止には10円玉が効果があるだとか、そんな暮らしの知恵みたいなのは提供できるだろうけども、総合的に見て所詮は何の専門家でもない一高校生の見識だ。
教科書レベルすら危うい他世界の基礎知識なんて役立つものだろうか。
そう危ぶんでの問いだったのだが、姫様はまたしても軽く笑って「馬鹿め」と一蹴をした。
「どうも軽視しているようだが、お前の知識はある種の終着点だ。貴重で危険な劇薬だ。扱いを誤れば国が滅ぶ」
「いやいやいや、そこまでのものじゃないでしょう」
だが姫様は首を振り、
「以前聞いた義務教育というシステムを例に挙げようか。知っての通り、こちらではただ才能のみを重視する。よって法王府が開設する魔法塾以外は個人授業が一般的であり、それがこちらの『普通』だ。秀でた才覚を伸ばすのには向く方式だが、同時にその他大勢を切り捨てる形態でもある。だがお前の語った教育制度であれば、今まで学識を得られなかった層まが広く、一定水準の教育を受ける事が可能になる。そして知は力だ。知る事により選択肢と可能性は増加する。これはとても大切な事だ。良い事であると私は思う」
やっべぇ。
姫様がなんかお仕事モードだ。顔はこっちを向いているが、目は全然俺を見てない。
え、何、なんですかこの人。俺の「高校生」って身分を説明する為にした何気ない話から、そんな事まで考えちゃってたんですか。
「しかし、だ。多くの民衆が知恵を得るという事は、術才を基盤にした現在のこちらの王制を揺るがしかねない。こちらの社会体制は魔術に、つまり個人の資質に依存する面が大きい。可能性を知ったとしても、それを活かす戸口は狭く、受け皿は小さい。届かない希望は不足を意識させ、不満を蓄積させる。よって情報の公開と知識の普遍化をそのままに取り入れれば、それは体制側への敵意ばかりを増大させる結果となるだろう。ここから続く事態の推移は想像に容易い。得たはずの知識は集ったが故に鈍化して衆愚へと堕し、鬱屈は尖りきった暴力の形をとって爆発する」
あー、いや、というかですね。
姫様、熱弁を揮うのは結構なんですけども、今日のドレスでですね、ぐっとテーブルに身を乗り出したりするのはやめてください。以前「そういう視線はバレバレだ」ってな警告は受けましたけど、つい女の子の女の子らしい部分を見ちゃうのは男の性だから。
しかし話に熱が入るとぐいぐい距離を詰めてくるのは、この人の癖なのであろうか。前も同様をしていたわけだし、だとしたらちらっと苦言を呈しておくべきなのかもしれない。
他のヤツにこんな姫様を見られるのは、ちょっと嫌だ。
「まあこれは非常に極端な例話ではあるが、お前の側の教育の導入は、こうした危険性を孕んでもいる。こちらの体制崩壊を招く、蟻の一穴となりうるというわけだな。これがお前の知識を劇薬と……こら、ハギト。ちゃんと聞いているのか?」
できるだけ紳士的に目を逸らす俺に気づいて、姫様は、む、と眉を寄せた。
胸元を直してから元の位置に座り直し、続く声がちょっぴり詰問口調なのは致し方ないところだろう。
「そ、そりゃもう勿論」
「ほう? 言ってみろ」
「要約するなら『魚に羽が生えて空を飛べるようになったって、エラ呼吸のままなら窒息するぞ』って話ですよね。俺の世界とこっちとじゃ、風土も文化も常識も、そもそも取り扱う人間も違う。だから『俺の世界じゃこうだった』みたいに、何も考えないで物事をやろうとするととんでもない事になるぞって」
こちらとあちら、どっちが優れてるかと議論するのは、「塩と砂糖、どっちが美味しいか」を論ずるようなものだと俺は思う。
それぞれにそれぞれの長所と短所とがあって、だから適材適所で用いるべきだ。分量と使いどころを誤れば、両者とも料理そのものを台無しにしかねない。なんでもかんでも、どかどかぶち込めばいいってもんじゃないのだ。
なんでそういうやり方をしていて、どういう過程でそうなったのか。
それを理解しておくのが大切だと、こっちに来てつくづく思い知ってる。
というかなんだけれども、そもそもこっちの魔法文明ってかなり凄い。
なんだかんだで俺、日本と殆ど変わらないような、いや一部においてはそれ以上の暮らしをさせてもらってる。
大きな違いといえば、魔法の射程距離の問題でテレビや電話みたいな遠距離通信がないってくらいだろうか。なのでわざわざ「うちの世界凄いんですよ!」みたいなセールスマン的真似をする必要は基本的にないのだ。
「と、こんな感じでどうですか? おおよそでは間違えてないと思うんですけど」
「あ、うん。そういう事では、あるのだが……」
真面目に回答してのけた俺に対し、姫様は釈然としない表情になる。
どうせ右から左に聞き流していたと決め込んで、セクハラへのお仕置き込みでぴしりと来るつもりだったのだろうけれども、そうは問屋が卸さない。今度はこちらがどや顔する番である。
姫様はご存知ないだろうけども、明後日の方向見ながら耳だけで授業聞いてるの、昔から俺の得意技なんですよ。ふふふ。
「あいてっ!?」
などと悦に入っていたら、テーブルの下で向こう脛を蹴っ飛ばされた。
恨みがましく視線を送ると、つーんと姫様はそっぽを向く。くそ、そんな仕草まで可愛いっての、なんかずるくないか。美人は得だ。
「話を戻そう」
「……」
「話を戻そう」
「……はい」
やがて姫様は座り直して、目配せで謝罪を伝えてくる。
一瞬迷ったがこれ以上引っ張る理由も意味もないので、受け入れておく事にする。
「今は毒としての一面を強調して取り上げたが、同時にお前の知識は暗闇を照らす光にもなりうる。自転車、自動車といった交通機関の話をしていたろう。その詳しい原理は知れずとも、どういう形でどういった機能を持っていたかが分かっていれば、そこに至るまでの試行錯誤を大幅に省略できる。突き詰めてどこに辿り着くかが最初から分かっているというのは、とても大きな利点だ。暗中模索の手探りに不安はつきものだが、着地すべき場所の所在が知れているなら失敗の確率も恐怖も薄まる。私との食事の間とその後で、聞かせて欲しいのはそういった話だ」
「……了解です。でも」
承諾するまでのわずかな躊躇で、姫様は俺の不安を汲み取ったのだろう。皆まで言うなと頷いて、
「大丈夫だ。私の目の届く範囲において、絶対にお前の知恵を悪用はさせない。またお前が伝えるべきでないと思う事柄については話さなくていい。私は全面的にお前の判断を信じよう」
「助かります」
俺の世界だって理想郷じゃない。
色々と嫌なもの、見たくないもの、口にしたくないようなものがある。しかもそういう代物に限って、権力を得たり戦争で勝ったりに有益だったりする。
そこらの吟味を俺に一任してフィルターかけさせてもらえるってのは、心情的にとてもありがたい事だった。
「まあ、あまり固く考えるな。聞かせて欲しいとは言いこそしたが、これは建前のようなものだ。お前はまず飾りとして十分に有用だ。そこへ付加価値がつくのなら尚重宝ではあるが、所詮その程度の事だとも言える。無理に今以上を目指して背伸びをする必要はない」
ふっと口元をやわらかくして俺を見る。
「私はおそらく単純に、お前と他愛のない話をしているのが好きなのだろう。本当は話題も何だって構わない。だがもし所望してもいいのなら、それがお前の心を傷つける仕業にならないのなら」
姫様はそこでひどく優しい、それでいて諦念に似た色を瞳に浮かべた。
「お前の家族の話を、また聞きたいな」




