12.
夏休みの宿題の片付け方には、人間の性格が出る。そりゃもう如実に出る。そんなふうに俺は思ってる。
例えば兄貴。
あれは最初の数日で何もかも全部終わらるタイプだった。
でもって後はひたすらに遊び呆けて、休み明けに「久しぶりに文字書いた」なんて宣うんである。物凄い実行力ではあるのだが、夏休みの日記までその数日で仕上げていた事実を俺は知っている。流石にそれはどうなんだ。
杏子は真逆で、初日にきちんと計画的を立てて一日分の作業量を割り出して、自分で決めたその分量を堅実にこなしていくスタイルだった。
その計画性だけでも大したものだけど、あいつの一番偉いところは、毎日少しずつそれを多めにこなしていくところだ。
そうやって余裕を作っておくと、突発的な事態にも対処できるのだという。
「友達との買い物とかハギ兄とのデートとか、外せない用事の時に怠けられないと嫌でしょ」とは本人の弁である。しかしその言い草だと、俺がまるで妹に構ってもらいたくて仕方ないお兄ちゃんみたいじゃないかと思う。
でもってそんな子供たちを横目におふくろは、「宿題も勉強もなんて自分の為にやるものよ。きちんとこなすのは感心だけど、人に課せられたものに振り回される人生なんてつまらないわよ」。
これである。
このダメ親、昔からそんな屁理屈でサボっていたに違いない。
ちなみに当の俺はというと、中途半端この上なかった。
兄貴の真似して途中までしか終わらせられず、杏子のように計画的に対処しようとして破綻して、結局新学期が始まる直前に友人たちと寄り集まって必死になって片付けてたような具合だ。
その集会場が毎度のように俺んちだったのは、男どもは杏子が、女子連中は兄貴が目当てだったからで間違いはない。一目瞭然の分かりやすさに、俺は毎年友情について考えたりもした。
まあともあれつまるところ、俺はそういう具合にやらなければならない事を日延べ先延べで後回しにしてしまうタイプなのだ。意志薄弱なんである。
なので。
「姫さま、もうすぐいらっしゃいますから。ハギトさんはじたばたせずに大人しく座っててくださいな」
今のこの状況は俺にとって、ありがたいとすら言えるものだった。
──今日は姫さまとふたりきり、差し向かいでお夕飯してください。
それが先ほどタマちゃんに言い渡された、おしおきの内容である。
おしおきというより、これは援護射撃だ。しっかり顔を会わせる機会を作ってやるから、腹を割って話をしなさいってな事であろう。
まるで手のかかる弟みたいに俺を扱う手並みを見れば、タマちゃんってばやっぱり面倒見のいい年上のお姉さんなのだなあと思わざるを得ない。
ところでそのタマちゃんが調えている会食の舞台は台所である。厨房脇の小さなデーブル席である。
いや会食つったって二人だから場所が狭くたっていいんだろうけども、え、でも姫様が来るんじゃないの? それでこれってありなの?
などと思ったが、でも昨日使ってたみたいなお客様客人用のでっかいテーブルを使われたりしたら、席の距離的にきちんと話すって感じではなくなってしまう。
「じゃあ朝と同じく俺の部屋で」って案も浮かんだけれど、いやどうしたってそれは駄目だろう。そもそも一国の姫君様を部屋に呼びつけるとか、お前一体何様だって話である。
まあ思い起こせば今まで毎日、これを無自覚にやらかしてたわけで。そりゃナナちゃんだって怒る。むしろ怒って当然だ。よくまあ姫様に愛想を尽かされなかったものだと冷や汗が出る。
なら逆に「姫様の部屋に参上してください」ってなると、その場合、俺が緊張でがちがちに固まりそうなのが目に見えていた。なんというか敷居とハードルが高過ぎる。
難儀な俺の性格を把握し尽くしたかのようなこの采配は、やっぱりタマちゃんの気配りの賜物なのであろう。どんどん彼女に頭が上がらなくなっていく気がする。
だがしかし、である。
台所なら全然緊張しないかといえば、ぶっちゃけそんな事はない。
何より今朝方変な態度を取ってしまった所為で、顔を合わせるのがとても気まずい。大変気まずい。おまけに俺には姫様にはお願いしたい一件があって、それをどう切り出したものかの思案してたら、なんだか頭と胃が揃って痛くなってきた。
「ハギトさん、ハギトさん」
「うい?」
「あんまり心配しなくてもだいじょーぶですよ。姫さまがハギトさんを見捨てたりなんて、滝が逆さに流れたってありませんから」
眉根を寄せていたら、タマちゃんからそんなフォローがやってきた。どうやら別方向で思い悩んでいるように見えたらしい。
ああでもこれまた今更な自覚だけれど、俺、姫様に見捨てられたらこちらでの生活基盤がゼロとかナッシングとかそういうレベルなのだよな。わりに薄氷を踏む生き様である。
「それにもし万が一、ハギトさんが姫さまと喧嘩別れするような事になったら。その時はわたしがハギトさんの面倒を見てあげますよ」
さらっと凄い事を言われてしまった。
この子もあれだ、類に呼ばれた友だ。姫様の親友だけあって、無自覚なダメ人間製造機2号である。甘やかし過ぎは本人の為になりませんってば。
……でもこういう事言われちゃうくらい、現状の俺ってヒモだよな。姫様のヒモだよな。うう、自己嫌悪だ。
「あ、いや、そういう類の事を悩んでたんじゃなくて」
「はい、分かってます。今のは一応冗談です。けど」
やれやれと言わんばかりに腰に手を当て、タマちゃんは優しく叱る目つきで続ける。
「姫さまとハギトさんは、そーゆーところ、そっくりですよね。二人とも妙なところで臆病なんですから」
「臆病? 姫様が?」
思わず声を漏らしてしまった。
いやあの姫様に臆病な箇所なんて、髪の毛の先っぽにすらなさそうなんだけど。頭の天辺から爪先まで勇猛果敢で大胆不敵。そんな印象なんだけども。
するとタマちゃんは小さく嘆息して首を振り、「まったくもー」と呟いた。
「前も言いましたけど、ハギトさんは姫さまを特別視しすぎですよー。本当にそうだったなら、ハギトさんの部屋のドアは今朝のうちに蹴破られてます」
ざっくり言い切られたところで、小さくノックの音がした。
俺が身構える間もなく、気楽にタマちゃんが「どうぞー」と応え、厨房のドアが開いて姫様が顔を出す。
なんか、随分と久しぶりに会うような気がした。
自分んちで食事ってこんな場面でも相変わらずきちっとしたドレス姿で、この人、本当に隙を見せないんだよな。
そんな事を思う俺と、ふっとこちらを向いた姫様の視線がかち合う。薄紫の瞳は一度だけ俺を映して、すぐ戸惑うように床へ落ちた。それが不安げと見えたのは、きっと俺の心情の反射だろう。
「……」
「……」
そうして双方、言葉が出ない。
色々とシミュレーションしていたはずなのに、いざ対面したら頭の中は真っ白だ。
俺の発言を待っているのだろうか。姫様もドアを抜けたきり、それから動く気配がない。
「さて、それじゃあわたしは一旦失礼しますね」
固まってしまった俺たちの空気を完全に無視して、朗らかに言ってのけたのはタマちゃんである。
「用意の分だけじゃなくて、おかわりも自由ですから」
外した三角巾とエプロンを畳んでぱんぱんと均すと、姫様に一礼を、俺へは器用なウィンクを残して、タマちゃんはするりと台所を出て行ってしまう。
待ってタマちゃんもうちょっとだけここに居て、と縋る目線は華麗かつ完璧にスルーされました。
小さな音で扉が閉じられると、肩越しにタマちゃん見送る格好だった姫様の体が少し動いた。深呼吸をしたようだった。
それからくるりと向き直り、いつも通りに凛と背筋を伸ばしたまま、真っ直ぐこちらにやって来る。
……あ、えっと、そうだ。話題話題。
「今日はですね、その」
しどもどと俺が言いかけるうちに、席には着かずに卓をぐるっと周って横に立ち、そうして俺の顔を覗き込むようにした。
「ふむ」
吐息めいて呟くと、やおら姫様は片手を伸ばした。細い指先で、俺の顎をくいと持ち上げる。
触れられて、顔がかっと熱を持つのが分かった。いや何意識してんだ俺。
でも突然になんなんだこの人。どういう意図だこの行動。というか誰だ、この人の事を臆病とか言ったの。責任者出てこい。
「男前になったな」
そう言って、姫様は口の端を笑みの形に持ち上げる。
ああ、俺の傷を見ていたのだと、そこでようやく把握した。ナナちゃんに化粧してもらってタマちゃんに治してもらって、大分目立たなくなってはいるけれど、腫れまで綺麗さっぱりなくなっているわけではない。
聞き及んでいたのか見るなりで気づいたのかは分からないが、その程度を検分されたのだ。
「負けた喧嘩の名残なんで、自慢にゃならないですけども」
照れ隠しでぶっきらぼうに答えると、姫様は小さく笑って指を外した。
そのままふわりと卓の向こうに着座して、悪戯っ子めいた表情を見せる。
「聞かせてもらいたいな。お前が、どこでどう負けてきたのかを」
「ちょっと趣味が良すぎやしませんか」
「私の大事な飾り物に手を出したのだ。それなりの報復はしなければだろう?」
俺の皮肉を軽口で受け、姫様は方にかかった髪をさらりと後ろに流した。その月の光に似た色合いに、またしても罪悪感が刺激される。
あと今更なんだけど、姫様が来た時点で俺は立ち上がって椅子を引いたりとかすべきだったんじゃないだろうか。気が利かない男アピールばかりが万全である。
「私はそれなりに、お前という人間を知っていると自負している。お前が喧嘩っ早い性分ではない。むしろ些事に拘泥しない、身軽な類の人間だ。つまらない諍いならば、巻き込まれる前に逃げ出してのけるだろう。だのに、そのお前が少なからぬ怪我をこしらえてきた。ならばそれは負けを覚悟で、それでも退けない争いをしてきたという事だ。お前がそうまでして守ってやりたいものがそこにあったという事だ。縁も縁もないこの世界を、私の住む世界を、少しは愛おしんでくれたという事だ」
卓の上で腕組みをするように身を乗り出して、姫様は促すように俺に視線を向けた。
「私はそれを喜ばしく感じるし、だからこそ詳しく知りたいと思う。──聞かせてはくれないか、ハギト」
……くそう。
気が付けば、またしても助け舟を出してもらってしまった形になっている。俺が切り出しに困り果てているのを察して、向こうから俺が話をしやすい形にしてくれたのだ。
俺は各種の諦めが入り混じったため息をついて、
「その、街でちょっとあれこれありまして」
「街へ出たのか」
「はい。俺の考えだけじゃ煮詰まってたんで、今日一日、色んな人の意見を聞いて回ってみました」
いや見栄張って「色んな人」とか言ったけど、きちんと話したのは、実質タマちゃんナナちゃんの二人とだけである。サバを読むにも程がある。
「でもってク族絡みのトラブルなんかに行き遭ったりもしまして」
自分史の闇に葬り去りたいような部分は巧みに伏せて、俺は今日の一件を掻い摘んで語った。
ナナちゃんに諭されて、タマちゃんに優しくしてもらって、ノノに会って、意地を張って、刃傷沙汰になって。
要約してみると、俺は皆に気にかけてもらってるんだなって事が改めてよく分かる。人間、絶対に一人きりで生きていない。
ちょっと癪だけども後で、おっちゃんにもお礼を言っとかなければと思った。あの時剣を押し付けられてなかったら、俺、真っ二つになってたかもしれないし。
「まあ概ねそんな感じでした。あ、でも悪いばっかりじゃなかったですよ。お陰でナナ……スクナナさんとはきっちり和解できましたし」
そんな具合に話を結んだら、姫様は面白そうに笑った。
「お前の中ではスクナナとは、今日和解した事になっているのか」
「?」
「私はとうの昔に友誼を深めているのだとばかり思っていた。スクナナはお前をよく褒めていたからな。あれが他人を褒めるのは珍しいが、そもそも私の前で他人の話を、そうした世間話をする事自体が相当に稀だ。だからよっぽどに気に入られたのだろうと」
え、何それ初耳ですよ。
俺ってばナナちゃんからそんな高評価されてたの? ならいっつもしていたあのおっかない顔はなんだったというのか。単に怒りんぼなのか、あの子。
「しかしハギト、お前はどれだけの女たらしなのだろうな?」
俺が豆鉄砲を食らった鳩みたいになってたら、更に姫様に畳み掛けられた。いつもの悪戯っ子モードである。
「いやいや、そういうんじゃないですから。そんな事実はこれっぽっちもないですから」
「どうかな? お前は自己評価が低すぎて、些かならず鈍感だ。元の世界においても、さぞ周囲をやきもきさせていたのではないか?」
「だからないですって。女子のお目当ては俺よりも兄貴でしたから」
「それだ」
不当に持ち上げられた俺がそう否定したら、姫様は我が意を得たりとばかりに身を乗り出した。
なんでそんなにノリノリですか。
「私に言わせればそれこそが都合のいい隠れ蓑だ。お前に分かりやすい理由で装って、そうして無警戒のお前に近づいた人間は少なからずだったはずだと、私は思うよ」
「穿ち過ぎです。何を根拠に、そんな俺を持ち上げるんですか」
「馬鹿。今の流れで根拠を分かっていないから、こうして苦言を呈している」
呆れたように鼻を鳴らされてしまった。
まあ昔から相手を問わず、俺はこういう理不尽な振る舞いを受ける係なんで慣れてるけども。
ちょっと額を掻いてから、俺は「えっとですね」と切り出した。
いい雰囲気に戻っては来たけれど、でもこれは伝えておかねばならないだろう。ナナちゃんは「僕の方から」なんて言っててくれたけど、告げ口みたくなる話はあの子だってしにくいだろう。何より自分が嫌な事を人に任せてはいかんと思う。
「でもってその喧嘩相手の事なんですけど、その、ロイド・デルパーレって、ご存知ですか」
「……アンリか」
予想通り、姫様が憂い顔になった。
「はい。さっき話したノノが、ク族の子供が狙われてるみたいで。意図は分からないですけど、俺やスクナナさんじゃ対処できない事みたいで」
「承知した。おそらくはク族の庇護をする私への嫌がらせと、昨夜の意趣晴らしといったところだろうな。しばらくはスクナナを早くに帰らせて、ク族院の警備に回す。ここの警護からも幾人かを差し向けるよう手配しよう。示威をしてやれば、すぐにも手を引くはずだ」
「すみません。ありがとうございます」
「いや、詫びるのは私の方こそだ」
首を振ってから、姫様は不意に押し黙った。やがて姿勢を正すと俺へ向けて問うた。
「私を恨むか?」
「へ?」
「弟との不仲にお前を巻き込む格好になっている。アンリを掣肘しきれずにスクナナにも少なからず迷惑をかけている。その自覚はあるんだ。私の情は、それに基づく行動は、きっと馬鹿馬鹿しいと笑われる類のものだ。お前たちをそんなものに巻き込んで、すまないとは思っている。でも──」
そうだよな。
でも、家族だもんな。
「姫様、実はですね」
皆まで言わせず、俺は強引に言葉尻を奪い取った。
怪訝そうにしながらも、姫様は生真面目に耳を傾ける。
「俺、一時期変な趣味にハマってまして」
「……趣味?」
「ええ。小石集めに凝ってたんですよ。この石は形がいいとか、色が他とは違ってるとか、手触りが優れてるとか、模様が殊更綺麗だとか。そういう俺だけが分かる、俺だけにしかわからない価値を見出して、石をコレクションしてたんです」
まあ分析すると優秀な兄妹に挟まれた俺の劣等感的なものが透けて見えたりするので、細かくは割愛である。大幅にばっさりカットである。だって小っ恥ずかしいし、あと肝心なのはそこじゃないし。
そう。肝心なのはあの頃の俺にとって、その石たちが確かに特別だったって事だ。
「勿論同じ趣味のヤツなんて周りにはいなくて、皆からはそんなのつまらない、くだらないって言われてました。でも」
攫ったのと、同じ言葉で息を継ぐ。
それはある。
他の誰も認めなくても。自分以外に意味がなくても。
それでも大切なものはある。
例えばもう帰れない俺が見る、家族の夢みたいに。
「俺にとって、それは宝物だったんです」
「そうか」
姫様は少しの間目を閉じて、それから真っ直ぐに俺を見た。今度は、いつも通りに。
「──ありがとう」




