9.
「ともかく。ニーロ殿、一度院の方へいらしてください」
しばしむすっと口を結んでいたスクナナさんだが、やがて表情を改めた。
「治癒の使い手は居ませんが、それでも応急手当くらいはできます。そんな顔で戻ったら、シンシア様もタルマ様も心配されますよ」
「……ぱっと見でそんなにひどい?」
「はい」
「ハギお兄ちゃん、痛そう」
出血こそないが、殴られた箇所は結構ずきずきと疼いている。
多分腫れてるなって感はあるのだけども、そんなにだろうか。尋ねたらスクナナさんは強く頷き、ノノは見上げて眉をひそめた。どうも折角のハンサムが台無しな模様である。
そうと意識したら、なんか余計に痛くなってきた。ここは意地を張らずに、好意に甘えておくべきであろう。
「じゃあ悪いけど、ちょっとお邪魔させてもらっていいかな」
「ハギお兄ちゃん、うち来るの!?」
両手を挙げて快哉を叫ぶノノの頭へ、スクナナさんが「そんな呼び方、失礼でしょ」とゲンコツを落とした。
「あ、いや俺別に偉い人とかじゃなんで。ノノの好きなように呼んでくれて構わないから」
大体ハギって呼ぶように言ったのは俺である。なのに怒られたんじゃノノだって納得がいくまい。
そう考えてのフォローだったのだが、スクナナさんにじろっと睨まれてしまった。「うちの子の事に口出ししないでください」ってな雰囲気で、スクナナおねーちゃんはどうも教育ママらしい。
ノノとまたしても目で分かりあっていると、スクナナさんがおもむろに咳払いした。明らかな警告である。
背筋をピンと伸ばすして了解の意を示すと、彼女はひとつ頷いてから、先立って歩き出した。
「ところで、ニーロ殿はどうしてここに?」
そして数歩進んでから肩越しに振り返り、俺たちが追従してるのを確認しつつで問う。
ああ、うん、まあそこは気になるよな。
ぶっちゃれば俺は、この世界に来てからずっと姫様んちに引きこもってた人間だ。そいつがいきなり表をふらふらしてるのを見かけたら、そりゃまあ誰だって不思議に思う。
だがしかし、俺としてはその疑問に正直に答えるわけにはいかない。
いやだって「自分探しの小遠足です」とか恥ずかしいし。死ぬほど恥ずかしいし。
というわけで俺は道中で、タマちゃんとの買い物の事とそれで思い立って一人で街に散策に出た事、そしてノノと出会ってからのトラブルの経緯とを、一部隠蔽しつつで彼女に伝えた。
勿論迷子になった件についても黙秘である。
これでタマちゃんやおっちゃんに帰りが遅くなったのを叱られたとしても、「ちょっとトラブルに巻き込まれまして」と言い訳ができるってわけだ。完璧な作戦だ。
ちなみに話の途中でノノが幾度か物言いたげにしていたけれど、その都度ぐりぐり頭を撫でて大人しくさせておいた。
後で俺の自分語りとかその辺のくだりに関しては、生涯口外しないよう念押ししておかねばなるまい。俺の心の平穏の為にも断じてそうせねばなるまい。
「ただこうして日が落ちちゃうと、慣れない道だけに帰りが不安でさ。よかったら姫様んちまで道案内してもらえないかな?」
話をひとまとめしてからお願いすると、「わかりました」と頼もしい即答である。流石ナナおねーちゃん。
「今しがた追い払ったばかりですからまず大丈夫とは思いますが、あの手のゴロツキの思考は測りしれません。一応の警戒はしておくべきでしょう。馬車を仕立てますから、ニーロ殿はそれでお帰りください」
それから俺の隣のノノを差し招き、
「そういうわけだから、ノノ。先に帰ってお湯を沸かしてきて。それから誰か大人に頼んで馬車の用意を」
「えー。ハギお兄ちゃんと一緒がいい」
「ノノ!」
「……はーい」
強権を発動されて不承不承ノノは頷き、俺に「また後でね」と手を振って走っていった。
目的の院とやらはもうシルエットが見える距離だから、それこそ何かあるって事もあるまい。
それにしても、と俺は手を振り返しつつにんまりしてみたりする。
正直言うと、ノノが懐いてくれるのが大変嬉しい。
受け入れられつつはあるけれど、こっちの人にとって俺は「病魔様」である。怖がりつつとかおっかなびっくりとか、そういう腫れ物に触るような感じで取り扱われるのが基本なのだ。
そりゃ姫様とかタマちゃんとかおっちゃんらとかみたいに屈託なく接してくれる人もいるけれど、そういうのは実のところ少数派であって、つまりああいう純朴な反応はとても癒される。「ちゃんと面倒見るから持って帰っていい?」とか訊きたくなる感じ。
まあそれはともかくとして。
足を早めて隣に並び、まじまじとスクナナさんを見る。ノノとスクナナさん、姉弟だけあってよく似ているなと思う。
どちらも丁寧で礼儀正しくしているのだけれど、ちょっと油断するとそのタガが外れるのだ。
まるで帽子を変えるくらい簡単に態度を切り替えてのける姫様とは違って、「頑張って背伸びして生きてます」みたいな感じを以前から受けてはいたのだけれど、改めて今日はそれが如実だ。
立場や役割で大人になってる。状況で大人にならざるをえなかった。そういう事なんだろうと思う。
つまりこの態度は作り物なのだ。
「……どうかしましたか」
つんと前だけ向いていた彼女だったが、流石に俺の視線が気になったのだろう。言いながらいつものガード体勢に移行する。
いやだから、そんな胸ばっか見てるわけじゃないっての。誤解だっての。そりゃまあ俺も健全な男子であるからして、全く見てないとは申しませんが。申しませんが。
「スクナナさん」
「はい?」
「俺、いつも通りのスクナナさんの方が親しみが湧く気がする」
「薮から棒になんでしょうか。自分は、いつもこの通りです」
嘘つきめ。
さっき俺とノノに声を合わせて「変な喋り方」呼ばわりされたくせに。
「そっか。それはつまり、俺とは仲良くしたくないって事だよな」
「……え?」
「スクナナさん、いつも礼儀正しくて丁寧で立派なんだけどさ。でもそれって壁を作ってるって事だよな。つまり壁の外に置いておきたい相手だって事だよな」
「え、えっ!?」
ぶっちゃけ牽強付会もいいところである。
でも以前の経験から、俺は彼女がとても押しに弱いと知っている。いい機会だからとことん利用してやろうと思う。ほとんど毎日顔を合わせて面倒見てもらってる相手なのに、なんか距離があるのって嫌だしな。
これ見よがしに嘆息をして、
「あーあ。残念だな悲しいな。嫌われてるなんて泣きそうだ」
「えと、あの、決してそういうわけでは、そういうわけではないのですが」
「本当に?」
「本当です!」
「じゃあいつも通りの喋り方がいいな。その方が親しみが湧きそうだな」
「う」
「い、い、なー」
「うう」
節回しをつけて歌うようにしたら頭を抱えてしまった。実に反応が素直で弄り甲斐のある子だ。でもそのうち悪い男にころっと誑かされたりしそうで、ちょっぴり将来が不安でもある。
俺が余計なお世話的思考をしているうちに、スクナナさんは口をもにょもにょさせながら長考をして、
「じゃあ、それじゃあ失礼だけど、これでいかせてもらっていいかな」
うん。その方がいい。その方が断然付き合いやすい雰囲気だ。
素直に肯定したらスクナナさんは、少し呆れたふうに笑う。いつもの取り澄ましたような笑顔じゃなくて、気と身構えの抜けた、やわらかい笑い方だった。
「ニーロ殿って、やっぱり変わり者だよね」
「あ、待った」
「?」
「ノノにも言ったけど、俺の事は『ハギ』でいいぜ。友達は大体そう呼ぶから」
するとスクナナさん、何故だか驚いたように手で口元を覆ってしばらく固まってしまった。
それから小さく「ともだち……」と復唱して再起動。顔を夕日の所為ばかりじゃなく真っ赤にしながら、
「ナナ」
蚊の鳴くような声でそう言った。
「それなら僕はナナでいいよ。かぞ……親しい人は、皆そう呼ぶから」
「了解だ、ナナさん」
お許しが出たので早速用いてたらば、スクナナさんは何とも言えない表情になった。
例えるなら、にくまんのつもりでかぶりついたらあんまんだった、みたいな顔である。
「なんで僕はさんづけなの?」
「うえ?」
いやそこにツッコむのかよ。
なんで、と言われても深い考えがあったわけではないので困ってしまう。敢えて言うなら戦闘系訓練の師匠だし? あ、あとお堅くておっかないイメージだったってのもあるかもしれない。
「でもタルマ様は『タマちゃん』だよね?」
「あの子はおねーさんってよりも、なんか小動物っぽいですから」
「じゃあ僕がタルマ様やシンシア様より年下だって知ってた?」
「……」
「……」
なんとも言えない沈黙が、群れを成して俺たちの間を通り過ぎた。
「お、おう。知ってた知ってた」
あ、こらちょっと、痛い痛い。チョップはやめなさい。連打するのもやめなさい。痛い痛ってかなり痛い。手加減を知らんのか君は。俺ってば一応怪我人なんだぞ。
などと被害者ぶってみたものの、普段からちょっと怒りっぽいところのあるナナさんであるからして、そのあしらい方は心得ている。伊達に日々、いらん事言って追っかけ回されてるわけじゃない。
彼女の怒りは基本的に持続しないんで、ちょっと話を振って、気を逸らしてやればいいのだ。
謂れのない暴力が若干勢いを減じた辺りで半歩逃げ、
「それよりほら、本題。本題に入ろう」
ナナさんとノノんち、先程から「院」と呼称されている場所はもう目と鼻の距離だ。
だってのにわざわざノノだけを単独先行させたんだから、なんかノノに聞かれたくないような話を切り出す為なんじゃないかってのは、俺にだって想像がつく。
「え、あ、うん。別に本題って程じゃないけど、まあ一応、話はありまし……あるよ」
未だ鼻息の荒い感じのナナさんだったが、案の定そのひと呼吸で我に返ったようだった。
足を止めるとまず背筋を伸ばし、それから腰を二つに折って、深々と俺にお辞儀する。
「まずはお礼。本当にありがとう。ノノを助けてくれて。守ってくれて。ニ……ハギがいなかったらあの子、どうなってたか分からなかったから」
あんな子供にそんな酷い事はするまいよ、と言いかけたが思いとどまった。
あの鎧男は弱い者には嵩にかかった振る舞いをしそうである。ク族は立場が弱いとかなんとか聞いてもいるし、俺の知らないような込み入った事情が更にあったりもするのだろう。
「あー、いや。俺は結局何にもできてなかったよ。本当にただ居合わせただけだけだから」
ただ俺としてはこのお礼、ちょっと真正面からは受け止められないところがある。
だから目を伏せて首を振った。
「いいや。俺は本当に何もしてないんだ。結局さ、俺一人じゃどうにもならなかった。何もできなかった。むしろナナさんに助けられた側だな」
「ううん、それは違うよ。そこに居てくれなかったら、ハギが頑張ってくれてなかったら、僕は間に合わなかったから。だからそれを言うなら僕も一緒。僕一人じゃどうにもならなかったし、何もできなかったよ」
だから、と言葉を切って、ナナさんは俺に片目を瞑ってみせる。
「ありがとう、ハギ。君は僕たちの恩人だよ」
実は無力感で凹んでところだった。結局俺は駄目で何にもできなかったと、そんな感じのテンションになってた。
なんでそこにこの言葉はとても嬉しい。「ありがとう」と言うべきは俺の方こそかもしれない。
「それにハギ、逃げなかったよね」
「いやだってノノが居たし、普通は逃げないだろ」
「普通は逃げるの。相手の狙いは会ったばっかりの知らない子だもん。見捨てて逃げれば自分だけはって、普通はそう考えるよ」
……うん。
正直に言えば、格好悪いけど本当に正直に言えば、ほんの一瞬だけそんな事をちらっと考えた。
「まあ、でも、さ。したくなかったんだよ、俺。そういう事はしたくなかった。だって意地っ張りで見栄っ張りだからな」
呟いたらナナさん、ため息めいた息を深々とついて、
「なんていうかハギってさ、お人好し過ぎるくらいいい人だよね」
あれ? 俺今貶された?
「言っとくけど、ちゃんと褒めてるからね?」
「あんまり褒められた気がしないのは何故だろう」
「だから、褒めてるってば」
ひらひらと手を振るナナさん。
言葉遣いひとつで思った以上に距離が縮まってるような気がする。年相応の雰囲気というか、なんかクラスメイトと話してるみたいな感じになってきた。
きっと彼女にとっても、丁寧語モードは切り替えスイッチっぽいものであったのだろう。
「あのね、僕は勇気のある人を尊敬するんだ。それは叶わないかもしれない事柄に挑む時に振り絞るものだって思うから。なんの保証もない暗い道を、一人でも歩いていく為のものだって思うから」
少しだけ前に立って歩く彼女の表情は、俺からは窺えない。
でもナナさんは今、とても大切にしている自分の一部を見せてくれているんだって気がした。
「できて当たり前の事をするのに勇気は要らない。息をするのに一々勇気を奮い立たせる人なんていない。それは大仰に口に出しすものじゃ絶対なくて、いざの行動だけが語るものだって思う。だから静かにそれを示せる人を、僕は尊敬するんだよ。例えば、シンシア様みたいに」
両手を広げて空を仰ぎ、それからナナさんは何かを抱きしめるようにする。
「あのひとはね、僕たち丸ごとに手を差し伸べてくれたんだ。皆が距離を置いて見てるだけの僕たちに無造作に歩み寄って、それで言ってくれたんだ。『お前たちの事を私が解決できるかは分からない。だができる限りに努めてみよう。後はお前たちがどうするかだけだ。だがこのまま膝を抱えているのなら、いっそ私を信じてみないか?』って。そう言って、少しだけ恥ずかしそうに笑ったんだ」
姫様が具体的に何をどうしたのかまでは、ナナさんの言葉だけじゃ分からない。
でも姫様のその表情だけは、克明に思い描けた。
不遜なような、傲慢なような、いつもの超然とした態度で。俺を助けてくれた時みたいに。タマちゃんを助けた時みたいに。
あの人はそうやって、いつだって誰かの為に手を伸べるのだ。
「僕とそんなに歳も変わらないのに、シンシア様はずっとずっと大人に見えた。凄く立派な大人に見えたよ。分かるかな?」
そうして肩越しに、ナナさんはちらりと俺を盗み見る。
「ハギがノノの為してくれたのは、それだって言ってるんだよ? さっきの君の行動を、僕は勇気だって思う。だから僕はハギの事、尊敬するよ。ね? ちゃんと褒めてるでしょ?」
「……」
俺が姫様と同列とかマジないっすわ。あの人はなんか生まれついての特別なイキモノで、俺とか絶対及びもつきません。
そんな咄嗟の冗談口で茶化して誤魔化してしまいそうになったけれど、ここは絶対そういう事をする場面じゃない。そう思った。
というかもしそんな真似をしようものなら、多分兄貴が自力で世界の壁を乗り越えて俺を殴り飛ばしに来そうな気がする。いや誓ってもいい。絶対来る。あの兄貴ならやりかねない。
「あー、その、なんだ」
上手く言葉が出てこなくて、俺はナナさんへ向けた手を意味もなくぐーぱーしてみたり。
彼女の方も少し気恥ずかしくなったのだろう。足取りを少しだけ早くする。
「あ、でもね、ああいうのは慎むべきだって思う」
「ああいうの?」
「ハギの最後の捨て台詞だよ。僕がやっつけた後、背中に隠れて『ばーかばーかザマを見ろ』って」
いやいやいやいや。
煽ったのは事実だけれどもそこまではしてない。断じてそこまで言ってない。
「うーん、やっぱあれは駄目っだったっすかね。虎の威を借る小物みたいだったっすかね。カッコ悪かったみたいなんで、二度としないように気をつけます」
と反省を述べてたところ、「誤魔化さないの」と窘められてしまった。
「シンシア様やタルマ様から、僕たちク族の事、ちょっとは聞いて知ってたんでしょ? だから変な遺恨が残らないように、自分が憎まれ役を買って出たんでしょ? 違う?」
ぐぬぬぬ。
バレバレとか格好悪いにも程があるだろ。
そりゃあナナさん、普段はあれだけ張り詰めて過敏に生きているのだ。敵意や厚意といった周りの態度とその意味には自然と明敏になるんだろうけど、気づいても黙っているのが武士の情けってヤツではあるまいか。言明されてしまったら、どうにも立つ瀬がないじゃあないか。
憮然としていると、手を後ろに組んだナナさんが下から俺の顔を覗き込む。
「ハギ、ちょっと照れた?」
言って、くすくすと笑った。
だーかーらー。
そういうの、いちいち口に出すなってんである。




