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病は君から  作者: 鵜狩三善
届かない夢
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8.

 さて。

 おやすみなさいと姫様を見送ってから、俺は思い切りベッドにダイブした。

 あー、布団超やわらかい。

 それからごろんと寝返りを打って、高い天井を見上げた。

 そっかー。やっぱりか。

 やっぱ、帰れないのか。

 そのまま目を閉じて、家の事を考えた。


「母親がこんななんだから、杏子も絶対美人になるわよ」


 とは、おふくろがよく口にする台詞だ。

 確かにうちのおふくろは、今だにナンパされたりするほど見目(みめ)はいい。外面(そとづら)しか見ない馬鹿どもが多い残念な世の中だ。あとその回数と口説き文句とを子供に披露するのはどうなのかと思う。

 そこはさておき、親と兄の欲目のみならずで、杏子は美人と言われる類の子である。性格もいいので当然家族からも愛される。

 だから将来嫁に行く時は、俺が花婿をぶん殴る役回りなんだろうな、なんて話をしてたりもした。だって親父はいないわけだし、そんなら父親代わりが入用(いりよう)だろうし。


「そういうの抜きにしても、ハギはシスコンだしな」


 うるせぇマッチョ。

 ちなみに絶対に親父の代役を任せちゃならないのがこの兄貴だ。これが本気で人殴ったら、結婚式が葬式に早変わりしかねない。

 体格のいい分、喧嘩も強いんである。俺は一度も勝った事がない。喧嘩でだけじゃなく、何でも勝てた事がない。

 悔しくて、いつも背中を追っていた。陸上もそれで始めたようなものだった。兄貴には知られずに、兄貴のレコードに挑めるのが俺にとっては密やかな利点だった。

 いつか何かでひとつくらい勝ちたいと思ってた。

 でもまああれこれ含めて一切合切もう全部、手の届かない夢になっちまったわけだけど。


 そういえば行方不明は何年かすると死亡扱いになるのだと、ドラマかなんかで聞いた気がする。

 もしも葬式になったなら、おふくろは人目も(はばか)らずに泣くだろう。多分だけど、杏子も一緒に泣いてくれると思う。兄貴はそんな二人を支えながら、その裏で万事の手配を恙無(つつがな)く成し遂げるだろう。一時も(うつむ)かないで、全部を引き受けて終わらせるだろう。

 屈しない兄貴のその顔は、簡単に想像できた。だって、親父の時もそうだったから。

 何故だか天井の輪郭(りんかく)が歪んできたので目を閉じた。


 ともあれ、である。

 こっちの世界に残留確定ってんなら、ちゃんと生きていく算段を立てねばならない。

 いつまでも姫様に頼ってすがってじゃ、呆れられて捨てられたっておかしくはない。何かできちんと役に立たねば、である。

 しかしならどうすればいいのか、それがさっぱり分からない。

 日本で居場所を作ろうと思ったら、社会に所属して仕事を頑張る。まずこれに尽きるだろうし、それで格好も体裁(ていさい)も整ったろう。

 じゃあこの世界ではどうなのか。俺はそれをまるで知らない。

 仮にもっと俺に知識があったら、それに依拠(いきょ)して身を立てられたのかもしれない。

 だけど俺は何にも知らない。自分の暮らしのすぐ間近、日常卑近の事ですら、だ。

 例えば携帯電話。あれってどういう仕組みで起動して、声を飛ばして、声が聞こえる?

 例えば水道。どうして蛇口を捻ったら簡単に水が出るのか。どこにどうやって貯めた水が、どういう仕組みで流れているのか。そんな事すら俺には分からない。電気やガスも同様だ。

 およそライフラインと呼ばれるものについてすら、俺の知識は覚束無(おぼつかな)かった。

 世界ってのは偉大な才能と、膨大な時間の積み重ねで組み上がっていたのだなと痛感する。そして享受(きょうじゅ)していただけの自分を恥じる。

 学べるという事は、実に幸福な事だったのだなあと今更に思う。

「道に迷ったらとりあえず走れ」が家訓ではあるけども、方向性が知れなけりゃ、そもそもどっちへ走り出せばいいのか、今は少しも分からなかった。

 眠れないまま、俺は夜明けまで延々と寝返りを打ち続けた。



 翌朝、姫様との朝食はお断りした。

 タマちゃんの授業も、わがままを言ってなしにしてもらった。

 どうも予想以上の大ダメージで思った以上にネガティブになっていたから、色々と取り(つくろ)える自信がなかったのだ。でもってそのまま部屋に引きこもってた。

 甘えてばっかじゃ駄目だとなんて思いながら、いきなりこの(てい)たらくである。


「……いかんよなあ」


 繰り返し呟きはするのだけれど、午後になっても一向に気力は湧いてこない。

 結局昨夜は一睡もしてないから本当は眠いはずなのに、変に心が波立って、少しも眠れそうにない。

 ため息と一緒にまたぐるぐるごろごろ転げていたら、小さくノックの音がした。

 返事をしようとしたのだが、どうしてか声が出なかった。気持ちが驚く程億劫(おっくう)になっているみたいだった。

 黙ったままでいるうちにも、ノックは幾度か繰り返され、やがて止んだ。諦めて帰ってくれたかな、なんてどうしようもない考えが過ぎったその時、


「タルマです。あ、えと、タマです。無理にお返事いただかなくてもだいじょーぶです」


 閉じたままのドア向こうから、そう語りかけられた。


「朝から何も召し上がってらっしゃらないから、お腹減ってると思います。だからあの、お夕飯には姫さまとわたしの好きなものを一杯作ります、ニーロさんもぜひ食べてみてください。それでもし気に入ったものがあったら、わたしに教えてください。そしたらニーロさんの好きなものリストに、それをちゃんと加えますから」


 それはつっかえつっかえだけれど、一生懸命考えて、俺の為に発されている言葉だった。


「そうやって、こっちの好きなものもちょっとずつ増やすっていうの、どーでしょう? 今はあっちの事がすごく思い出されるのかもしれません。でもこっちだって、悪いばっかりじゃないと思いますから。こっちで好きなものを見つけてもらえるように、わたしも頑張ってお手伝いしますから」


 殆ど会ったばかりみたいな俺を、こうも案じてくれる人がいる。

 恵まれてるなと、寝転んだままちょっと笑った。ちょっとだけでも、笑えた。


「じゃあとりあえず、リストに米味噌醤油の追記をお願いします」

「コメミソショーユ?」


 タマちゃんのリピート発音は、一体化してなんか魔法の呪文みたいになってた。

 多分扉向こうで「それはなんだろう?」と首を傾げているに違いない。

 この手のそのまんま伝達方式を翻訳さんが採用したという事は、米も味噌も醤油もこっちにはまるでないか、或いはタマちゃんが全く知らないという事になる。

 となると、うーむ、和食は絶望的か。


「え、えと、よくわからないけどとにかく頑張りますよー?」


 それにしても和むなあ、この子。

 扉越しのまま、しばらく他愛のない話をした。それで気が緩んだのか、少し眠った。



 そうして夢を見た。

 朝起きると兄貴がメシを作っていて、


「寝ぼすけめ。本当なら今週はお前の当番だぞ」

「おかーさん稲葉のご飯の方が好きよ。だって萩人のより美味しいもの」


 既に食卓についたおふくろが、すかさず俺をこき下ろす。俺の時だろうが兄貴の時だろうが、必ず完食するくせに。

 それは見慣れたいつもの朝の景色で、俺はほっと安堵する。

 帰れないなんて事はなかったのだ。いや、そもそもあの異世界行き自体が病床(びょうしょう)の幻だったのだ。

 そんな俺の所作を(いぶか)しんだのか、杏子が小声で、「ハギ兄、どうかしたの?」なんてと訊いてくるから、「いいや、何も」と俺は答える。

 そう、何もなかったのだ。全て世は事もなし。ああ、よかったよかった。

 そんなふうに思ったところで、目が覚めた。


 ──うわ、みっともねぇ。


 目を(しばた)いて、姫さまんちの高い天井を見つめて、それから俺は頭を抱えた。

 タマちゃんに元気づけてもらったばっかだってのに、なんて未練がましい夢か。おまけに気づけば頬が濡れていた。まったく、情けないったらありゃしないぜ。

 ぐしぐしを顔を(ぬぐ)ったところに、


「起きたか」

「うわ!?」


 そりゃもう心底びびった驚いた。一瞬体がびくってなった。

 声を頼りに視線を投げれば、残照を過ぎて薄暗がりが忍び寄り始めた部屋の中、扉にもたれかかって腕組みをする姫様の姿があった。、


「脅かさないでくださいよ」

「それはこちらの台詞だ。ノックにも声にも、まるで反応しないから心配したぞ? よもやの事まで考えた」

「いや考え過ぎですって……って、あれ?」


 やっぱり起き抜けでボケていたのかもしれない。そこでやっと、俺は不自然に気がついた。


「あのさ姫様」

「どうした?」

「鍵、かかってましたよね?」

「ああ」

「……」

「……」


 明かりは点けてない。今の光量では細かな表情までは見えない。でもまあ今の姫様の顔は、大体想像がついた。


「姫様んちですもんね。そりゃマスターキーくらいありますよね。いやそれはいいんです。俺が心配かけるような真似してたのがいけないんだから。それについてはいいんです」


 不法侵入に関しては、とりあえず不問に付す。気になるけども気にしない。

 それよりも何よりも問題は、「見られてた」ってトコである。

 女々しく家族の夢なんか見て、泣いちゃってるのを目撃されてしまったというところにこそにある。

 俺は片手で顔を覆った。

 ああもういっそ殺してください。


「ハギト」

「いや、泣いてないんで。全然泣いてないんで。男は涙を見せないもんだって兄貴が歌ってましたし」


 ここでフォローとか謝罪とかを述べられたら、それこそもういたたまれない。

 そのままの格好で遮ってまくし立てると、微笑の気配がした。


「お前は、存外に見栄坊だな」

「ほっといてください。あと俺、人前では胸を張れとも言われてるんで。みっともない事とかしませんので。してませんので」

「涙を見せないと泣かないは同義ではないだろう。それと、人前とは他人の前という事だ。そこに私を含めるな」


 応答の声は足音と一緒に近づいて、やがてきしりと小さくベッドが軋んだ。俺の頭のすぐ脇に姫様が腰掛けたのだ。

 慌てて起き上がろうとしたら、「そのままでいい」と手のひらで制された。

 そうして姫様は言い聞かせるみたいな声で、


「すまないハギト。お前を帰す方法は、今のところないのだ。本当にすまない」

「……だからそれ、姫様が謝る事じゃないから」

「しかしこれはやはり、私の世界の側の仕出(しで)かしだ。しかも私はお前の世界への干渉を、止められたかもしれない立ち位置にいた。けれど看過したのだ。それはお前の拉致(らち)に手を貸したも同然で、だからお前には、私を(なじ)る権利がある」


 いやもうホントにこの人は。


「言われても、姫様に当たったりしませんから」


 そう応えたら、姫様は決まり悪く微笑んだ。悪戯を見抜かれた子供みたいだった。

 この困った人は今、憎まれ役を買って出やがったんである。

 八つ当たりでも見当違いでも、誰かに全責任を押し付けて(わめ)き散らせばわずかなりとも発散になる。多分そんな具合に考えて、俺に恨まれようとしたのだ。

 自分を責めて楽になれって事なんだろうけど、意図に気づいてしまったら、そんな格好悪い真似できっこない。


「……」

「……」


 そこで、ふと会話が途切れた。

 気づけば月が昇ってきている。薄暗い室内を、三色の光の輪が照らしていた。寝転んだまま見上げたら、月光を浴びた姫様は、ぞくりとするほど神秘的だった。

 いつの間にか姫様も、俺を見返していた。ふたりの視線が絡まって、絡め取られて、逸らせなくなる。

 鼻先をほのかに、姫様の香りがくすぐった。淡い紫のその瞳は、濡れたように(つや)っぽかった。

 姫様の小さな身動(みじろ)ぎのたび、長い髪がさらさらと音色を奏でる。その音は静けさが包む部屋の中、やけに大きく響く気がした。

 どうしてか口の中がからから乾いていた。俺は舌先で唇を湿す。

 ほんの言葉ひとつで弾けてしまいそうな、シャボン玉みたいな空気だった。

 その張力の限界を探るみたいに、そろそろと姫様が動いた。這うような速度で伸びてきたその手のひらが、俺の額に届いて撫でた。


「……子供扱いですか」

「大人だろうと子供だろうと、辛い時はある。そうだろう?」


 小声で言うと、やはり小声で返された。

 細くて白い指が、俺の髪を絡めて(くしけず)る。

 悔しいけれど撫でられるそのたびに、自分が弛緩(しかん)するのが分かった。人のぬくもりがくれる、安心感があった。心と体の強張りがゆっくりと剥落(はくらく)していく。


「姫様には、みっともないトコばっか見られてる気がします」

「馬鹿め」


 抗するのを諦めて呟くと、優しい囁きで罵られた。


「つまらない事を気に病むな」


 言いながら、姫様はまた俺の髪をくしゃくしゃとかき回す。

 相変わらず声音は不敵だったけれど、その手にはどこか怯えが混ざるようで。

 だから俺は拒めずに、いつまでもただ、されるがままになっていた。

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