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さくらさくら

作者: さいとうももこ


 私が『彼女』と出会ったのは、一本の桜の木の下であった。



 山中に根を張った大きな桜の花は、風に吹かれて雪のように白い花びらを散らす。

 はらはらと、それはまるで一枚の絵のように美しい光景だった。

 桜が開花する時期になると、私は早起きして、学園の裏にある桜の木へと向かう。人気のない静かな環境は、私の望む場所だったからだ。

 黒を基調とした私のセーラー服に花びらが舞い降りる。

 綺麗に彩られた桜の幹に背を任せ、いつもの場所で本を開く。

 これが私が文学少女と呼ばれている所以だ。こうして本を読んでいる姿を誰かに見られたらしく、いつの間にか文学少女と呼ばれるようになった。

 誰でも気に入っている場所の一つはあるだろう。それが私はこの桜の木の下であっただけで、文学少女と呼ばれるのはくすぐったい感じもするのだが、どうやら人間何事も慣れてしまうものらしく、今はなにも感じなくなっていたりする。

 周りに咲き乱れる桜の中でも一際大きく樹齢を重ねている桜は、私にとって特別な桜として心に想い残っている。

 満開に咲く周りの桜と異なり、この桜だけは半分も咲いていない。満開になるのはいつだろうか、想像するのが私の小さな楽しみであった。

 その日は薄蒼い空だった。いつものように桜の元に向かうと、そこには『彼女』が佇んでいた。

 腰まで伸びた黒髪、柔らかなまつ毛に守られた儚げな瞳。繊細な表情と極まって幻想的な雰囲気を持った人。彼女は私に気がつくと柔らかな微笑みを浮かべた。


「こんにちわ。文学少女さん」


 ざわっ、と全身に風が吹き抜けた。桜の花びらが一瞬にして舞い上がり、セーラー服を撫で付ける。 

「え……っと、私の事を知っているのですか?」

「ええ、いつもここで本を読んでいる子よね」

 くすり、と彼女は顔をほころばせた。

 なんとも不思議な人だった。存在が儚げで、霞のように消えてしまいような印象を受ける。それはまるで私が一瞬でも目を離してしまったら溶けてしまいそうな、そんなことを私は感じていた。


「わたしは木花咲耶。貴方の好きに呼んでくれたらいいわ」


 彼女の表情は柔らかく、まるで見る人すべてを笑顔にさせてしまうような温かい魅力に満ちていた。

「隣、いいかしら」

「ええ、どうぞ」

 彼女は私に断ってから隣に座り込む。取り出した小さな猪口に、酒らしい液体を注いだ。

「貴方もどう?」

「いえ、私は……」

 小さく首を振る私に、残念、と呟いて彼女は猪口に口を付けた。

 こんなに近くでもシミ一つない透明感に溢れた肌、整った顔立ち。花のように美しいと言う表現が彼女を表すのに一番相応しいのかもしれない。

 それは穏やかな時間だった。暖かい春風に吹かれ、一片の花びらが本に挟まるように舞い降りる。

 花びらを栞の代わりに、私は静かに本を閉じる。

 そろそろ授業が始まってしまう。名残惜しいが、授業に遅刻するわけにはいかない。

「じゃあ、またね」

 桜の木の下で手を振る彼女に見送られながら、学園への道を急ぐ。

 今日はちょっと長居し過ぎてしまった。急がないと間に合わないかも知れない。

「ふふ……」

 少しだけ早めた私の足取りは軽く、なぜか心はとても清々しい気持ちでいっぱいだった。





「あら、また会ったわね」

 最初の出会いから数日過ぎたとある休日。図書館で借りた本が入った鞄を手に、学園裏の桜の木へ訪れた私を、目を細め、お酒を口にしながら木花さんは出迎えた。軽く挨拶を済ませ、彼女の隣に座り込み本を開く。

 雲ひとつない蒼穹の昼下がり。山中を涼やかに駆け抜ける春風は、自由奔放に遥か彼方へと吹き抜けて往く。

 優しい時間が流れていた。

「木花さんって、お酒好きなんですね」

 読み終わった本をぱたんと閉じながら尋ねる。

「勿論。現し世で愉しみと云えば酒でしょう? 貴方がまだこの愉しみを知らないのは残念ね」

 くすくす、と悪戯気な感情が込められた声が響く。二、三度瞬くと猪口を呷った。

 風に吹かれた梢が音を立てて揺れている。

「人生を損してるって、そう言いたいんですか」

 不満を視線に乗せた私に、彼女は口元をほころばせた。

 それは世の理を全て悟ったかの如く、色の無い微笑み。


「人の生が、花が散るが如く儚く短いのなら――」


 言葉が途切れる。スッと立ち上がった彼女の双眸から目を反らすことができない。

 その瞳は周囲に咲き誇る桜を見つめている。


「――せめて愉しまないと報われないでしょう」


 小さな呟きは寂しさを伴なって、私の耳朶を打った。

 桜が咲き乱れる姿は、誰もが魅了される美しさを誇る。だが、咲き誇る桜もすぐに散り逝く運命にある。

 花の寿命は短い、花は散るからこそ美しい。一瞬の輝きに全てを懸け、それだけに全力を尽くすのだ。

 誰もが魅了される美しさは、花が散る儚さがあるからこそ生まれるのだ。


「儚いからこそ美しいのではなくて、美しいからこそ儚いのよ」


 そっと背にした桜の幹に手を添える。はらはらと春風に舞い散る花びらには、淡い芳香のような仄かな香りを含んでいた。


「貴方は、美しいわね」


 ふぅ、と彼女の口から吐息が零れる。ざわっと桜の木が大きく靡くように揺れた。

 冗談だろう。私は美しいと表現されるような女ではない。私なんかよりも美しいと、その言葉が相応しいのは彼女の方ではないか。


「そんなことはないわ。貴方はとても美しい――たとえ貴方自身がそれを否定しようとも、その事実に変わりはないのだから」


 囁くように呟いた彼女の瞳には、どこか憂いを帯びたような悲しみの色が宿っていた。 


「有限と無限。貴方ならどちらを選ぶかしら」


 スッと座り込んだ彼女の瞳からは悲しみの色は消え失せ、はにかんだような薄い微笑を浮かべながら、猪口に酒を注いだ。

「どちらか、ですか」

 こくり、と頷いて彼女は猪口に口をつける。


 その問いにどれだけの意味があるのだろうか、様々な疑問が頭に浮かんでは消え失せる。少し考えて、私は口を開いた。

「……私なら、無限を選びます。限りある有限はいずれ終焉を迎えます」


 なら、私は永久を望むだろう。それは決して終わりの来ない、メビウスの輪のような、繰り返し繰り返しても変わらない――


「――変化のない永久を、私は求めているのかもしれません」


 私の答えに彼女は何も言わなかった。ただ、無言で猪口を呷るだけで口を開こうとしない。私もそれ以上何か言うこともなく、ただ遠くを眺めていた。

 沈黙が痛みを持つことを私は初めて知った。

 静謐な時間が過ぎる。どれだけの時間が過ぎただろうか。空が茜色に染まるまで、いつしか私は仰向けになって空を眺めていた。

 ゆっくりと、ゆっくりと空へと手を伸ばす。空は遥か遠く、手に掴めるものは何もない。

 それが現実だ。ちっぽけな人間が手を伸ばしたところで空に手が届くわけもなく、何もせずとも時間は過ぎていく。

 そろそろ帰らなければ。あまり遅くなっては妹が心配する。いつも元気で人懐っこい妹だが、アレでいて寂しがり屋であることは姉である私が一番よく知っている。

 ゆっくりと立ち上がる。先ほどまで心地良かったはずの春風が肌寒いまでに感じられた。

「……わたしなら」

 私が立ち去ろうとした瞬間、今まで黙り込んでいた彼女の呟きが私の耳に届いた。


「きっと有限を選ぶわ。終わりがあるからこそ、全ては生まれて来るの。終わりがあるからこそ、全ては始まるの。何も生まれず始まらない。そんな変化の無い永久なんて――」


 言葉が詰まる。彼女は憂いを含んだ視線を空へと向け、


「――存在する意味はないのだわ」


 悲しげに言葉を紡いだ彼女のその表情が、なぜか私には印象的だった。





 夕焼けに染まった玄関の扉を開けると、上り口で靴を履いている妹の姿があった。

「お帰り、お姉ちゃん」

 私を見ると、妹はどこかほっとしたような明るい笑顔を浮かべた。

「ただいま。あなたはどこかに行くの?」

「お姉ちゃんの帰りが遅いから、今日は私が買い物に行かなきゃと思って」

 照れくさそうに笑いながら妹が私の手をギュッと握る。お姉ちゃんも一緒に行こうと言っているのだ。

 手にしていた鞄を玄関に置き、妹と一緒に家を出た。

「お婆ちゃんは何してる?」

「居間でテレビでも見てると思うよ」

 二人、手を繋いで歩きながら何気ない話をする。

「さっきご飯はまだかって聞かれたから、お婆ちゃん。ご飯ならさっき私が食べたでしょ? って言っといた」

「……お婆ちゃんに謝って来なさい」

 無邪気に笑う妹に、自然と笑みがこぼれた。

 繋いだ小さな手のひらは柔らかくてとても温かかった。

「わぁ……」

 妹の感嘆の声に視線を向けると、小学校の校門に咲いている桜の花が目に映った。

 淡紅から白色の混じり合う春の風情を満面に映し出す桜の花びら。

 入学を迎えた子供たちを迎えるために植えられた、美しく咲く染井吉野。

「綺麗だね、お姉ちゃん」

「そう、ね」

 口ではそう言いながら、私の心はそれほど綺麗だと感じてはいなかった。

 古くから親しまれ、硬貨の表に描かれるほど日本に馴染みの深い花である桜。

 街に植えられ綺麗に咲き誇っている桜は、実は染井吉野が殆どで、他の種類の桜を目にする機会は少ない。

 染井吉野が短い期間で散ってしまうその姿は儚くて、美しくて人を魅入らせて。

 だが、染井吉野は桜として歪な種であることを誰が認知しているであろうか。

「お姉ちゃん。どうかしたの?」

 ぼんやりとしているように見えたのか、妹が心配げな顔つきで私の顔を眺めていた。

 なんでもない。と自分でもわかるほど無理に笑顔を作って、私は繋いでいた手をゆっくりと離した。





「染井吉野って木花さんはどう思います?」

 あれから私が桜の木へ行けばいつもそこに彼女の姿があった。

 相も変わらず、のんびりとお酒を飲んでいる彼女に疑問に思っていた事を聞いてみた。

「どう、と云われても」

 私の質問に彼女は困ったような顔を浮かべた。

「染井吉野は種子で増えることの無い、謂わば種のない一代交配種です。子を成せない種は自然の繁栄保存から外れた存在ではないでしょうか」

 子を成せないというのなら、生存競争を放棄したと等しい。それを歪と呼ばずになんと呼ぶ。

 考えを吐露するかのように言い立てた私に、彼女は相好を崩し、

「貴方はそれを認められないのね」

 語りかけるように言葉を紡いだ。

「その考えは人の生み出した概念に縛られ過ぎなのだと思うわ。染井吉野が子を成せないのは自家交配の場合だけ。だからこそ染井吉野は子を成せないと云われているのだけれど、他の桜とならば染井吉野は交配し、子を成すことができる。実際は子を成し、子孫繁栄を行っているのです。生を謳歌し、子を作り、そして死んでいく。染井吉野を歪と謳うのは、染井吉野と云う概念を人が勝手に決めつけただけに過ぎないの」


 クスッと彼女は小さく笑った。


「桜はわたしの子供たち。貴方も桜はただ綺麗に咲き誇っているだけで良いのだと、思わないかしら」


 透き通るような彼女の瞳、濁りのない潤沢。本当に桜を慈しむ心が私にも伝わって来る。彼女が桜を子供と呼ぶのもその顕れなのだろう。

 心が洗われるように鬱濁した気持ちが消えていく。

「……木花さんって、不思議な人ですよね」

「あら、それはわたしを褒めているのかしら」

 捉え方によっては失礼な私の言葉に気分を害するわけでもなく、変わらない態度で彼女は猪口を口へ運ぶ。

「結局ね、単に感じ方の問題なのよ。貴方が見る桜もわたしも、貴方の感じ方が変われば全て変わって見える。本当は何も変わってなくてもね」

 だから何も気にすることはないの。彼女はそう呟いた。

 散り行く桜はそろそろ終わりを迎えつつある。染井吉野は元を辿れば同一の一本の木。

 だからこそ一斉に咲き、一斉に花を散らす。それが染井吉野の特徴であり。


 私にとって特別なこの大きな桜はそろそろ満開だ――


「春風の花を散らすと見る夢の さめても胸のさわぐなりけり」


 それは私の心に残り続ける歌。私の心を顕す桜の歌。


 どうして気がつかなかったのだろう。私にとって桜とは他の何物でもなく。


 この桜しか在り得なかったのに――

「貴方も呑む?」

 心を見透かされたかのようなタイミングで差し出された猪口を、私は一気に呷いだ。





 夜、私の部屋にノックの音が響く。

 読んでいた本を閉じ、ドアを開くとそこにはお風呂上がりらしくバスタオルを肩にかけ、乾ききっていない髪が額にくっついた妹の姿があった。

 普段の明るい表情とは異なり、不安げな瞳が潤んで揺れていた。

「お姉ちゃん、最近変じゃない?」

 自分でもなんて言ったらいいのかわからないという風に、

「変に考えこんでる時もあるし……えっと、ぼんやりしてる時間も増えたみたいだし、あんまり感情が見えなくなっちゃったというかなんといったらいいか……えっとぉ」

 支離滅裂にあたふたとしながら、ぶつぶつと呟く。やがて結論が出たのか、

「うーん……その、お姉ちゃんには悩み事でもあるのじゃないかなぁ、とかそんなこと思ってみたり?」

 上目使いに可愛く見上げながらそう言った。

 そんなことはないのだけど。苦笑交じりの息を吐く。

「お姉ちゃんは大丈夫だから。ほら髪の毛乾かして」

 肩にかけてあるバスタオルを取って、髪が痛まないように優しく拭いてやる。私の行動に戸惑っていた妹も、やがて気持ち良さそうに目を細めた。

 柔らかな石鹸の香りが鼻腔に届く。妹のほんのりと朱に染まった頬を眺めながら、ついでに顔も拭いてやった。

 バスタオルが離れた時に見えた瞳は、もういつもと同じ明るく輝いたものに戻っていた。

「ほら、もう寝る時間でしょ。自分の部屋に戻りなさい」

「うーん、今日はお姉ちゃんと一緒に寝たいんだけど、ダメ?」

 私がそう言うと妹は庇護欲を掻き立てるような、小動物のような呟きを漏らす。

 はぁ、とため息をついて頭を撫でると、妹は甘えるように私のベッドに跳び込んだ。

「えへへ、ごめんねお姉ちゃん」

「いいから早く寝なさい」

 電気を消して、私も一緒にベッドに入る。一人用だが、少しぐらい窮屈でも二人並んで寝られるぐらいのスペースはある。

 私の胸に頭を押し付けたり、そわそわと抱きしめてきたりと、しばらく私に甘えていたが、やがて大人しい寝息が伝わって来た。

 ごめんね、と小声で謝りながら、妹を起こさないように気を払いながらそっとベッドから抜け出す。

 一度むずがるように動いたが、手を握ってやるとすぐ寝直した。

 握った手から伝わって来る優しい温もり。妹は今のままでいて欲しい。そう願わずにはいられない。

 明るく優しく、人に笑顔を振りまいて。幸せな毎日を過ごして欲しい。

 私は自分の選択を間違っているとは思わない。

 それでも、と私は思う。 

 きっとこの優しい妹は悲しむだろう。泣きながら毎日を過ごすのかもしれない。

 そう思うと、胸が痛い。私の自分勝手でこの子を悲しませることになるのだ。

 握っていた手を離すと、妹が悲しそうに顔を歪ませた。

 ごめんね、と寝息を立てている妹の頭を撫でる。

 ゆっくりと、妹の顔が安らかな表情に変わっていった。

 甘えたがりなんだから、と微笑ましい気持ちになりながら、最後に妹の頬に口付ける。

 制服に着替え、起こさないようにと、私は静かに部屋を出る。


 さぁ、満開に咲いている夜桜を見に行こう――





 春とはいえ夜になれば風が冷たい。

 静かな夜に虫たちの合唱が鳴り響く。

 今年の染井吉野は咲き誇る時間を終え、地面は散った淡紅色の花びらで染まっていた。


「あら、夜分遅くにどうしたの?」


 ふわり、と夜の霞から馴染みのある声が掛けられる。

 ここで彼女と出会うことはわかっていた。

 それは最初に私と彼女が邂逅した時点で定められていたことだろう。

 柔らかな桜色した着物姿で、彼女は霞から姿を見せる。黒髪と極まって月光に照らされた幻想を包み込むかのように。

 絶世の美しさを持った人間離れした花の美しさを現わしていた。

「そろそろ、眠らないといけない時間かと思いまして」

 くすり、と彼女は笑う。

 凪いだかのように静かな世界。私と彼女だけが立っていた。

「わたしは終わりがあるからこそ、輝くのだと思うのだけれど」

 確認するかのように私に尋ねる彼女の瞳はとてもまっすぐで、だから私は目を逸らすことなく答えた。


「はい、それでも私は永久を求めたいと思います――コノハナノサクヤビメ」


 きっと今の私は穏やかな顔をしているに違いない、と他人事のようにそう思った。

 一瞬の静寂。やがて出会った時と同じ柔らかな微笑みが彼女に浮かぶ。きっとこの人は全て知っていて、私を止めようとしてくれていたのだ。

「そう、なら仕方ないわね」

 すっと私に道を譲るように下がる。そう、満開に咲き乱れている桜へと続く道を。

 彼女の後ろには薄墨のような白い単弁の花が咲き乱れていた。

 私が特別だと呼んだ桜。私を誘う幻想の墨染桜。

 色よく霞む桜の花。はらはらと春風に靡きながら蠕動するかの如く、ざわざわ音を立てる。

 周り一面に桜の花が踊るかのように舞っている。まるでここだけ別世界であるかのように感じられた。

 幻想の華に彩られ、装飾された世界を踏みしめる。


永久の世界とはこんなにも美しい――


 ゆっくりと私は目を閉じる。

 瞼の裏には、幻視された桜が優雅に咲き乱れている。


 深く幻想の世界に桜の花が舞う。優しい桜の芳香。誘われるがまま暗い先の見えない闇の道を私は一人、歩み始める。


「貴方が綺麗に咲くその日を、楽しみに待っているわ」


 遠く、遥か遠くから聞こえた彼女の呟きは、宙に吸い込まれるように消えていった。





 私のお姉ちゃんが失踪して二週間が立った。

 お姉ちゃんが失踪した日の朝、私が目を覚ますと、一緒に寝ていたはずのお姉ちゃんの姿はなく、それ以来家にも帰って来ない。

 両親から警察に失踪届けが出された。私も街中捜し歩いたが、結局お姉ちゃんを見つけることは出来なかった。

 お姉ちゃんは忽然と消えてしまったのだ。

 私は泣いた。泣いて泣いて泣き続けた。

 お姉ちゃんがいないのが寂しくて、私を置いて行ってしまったのが悲しくて。

 その日以来、私は半身を奪われたような状態で毎日を過ごしている。

 お姉ちゃんがいない世界は、私にとって偽物も同然なのだ。

 ぼんやりと道を歩く。お姉ちゃんと一緒に見た桜は散り去り、その役割を終えていた。

「桜は美しかれども刹那に散り、石は醜かれども永久にある。有限と無限。貴方ならどちらを選ぶかしら」

 はたり、と足が止まる。気がつけば、散った桜の木の下に一人の女の人が佇んでいた。

 花のように美しい美貌に柔らかな表情を浮かべ、私に近付いてくる。

「貴方は……」

 綺麗な黒髪が風に靡いて揺れる。私が知っている中で一番美しいそんな人。

「わたしは木花咲耶姫。貴方のお姉さんの友達で――」

 ふふっ、と小さく笑い彼女は私の顔を見つめ、


「――桜の女神でもあるわ」


 なんて言葉を口にした。





 地面に散った桜の花びらが一面に広がっている。花びらを踏みしめながら、私は彼女に教えられた桜の木へと向かう。

 桜の木の下には、人間が埋められている。桜が紅く咲くのは人間の養分を吸っているからだ。

 誰でもそんな話を一度は耳にした事があるだろう。私は只のよくある迷信だ、なんて口では強がりながらもやっぱり怖くて、お姉ちゃんに抱き付いていた記憶がある。

 呆れたような事を言いながらも、優しくて大好きだったお姉ちゃん。


「それは貴方が私から奪った」


 ほとんどの桜が散り行く中で、巨大な墨染桜だけが満開の花を咲き乱れている。

 春が訪れる度、一層激しく咲き誇り、そして一層激しく花を散らせる。

 この美しい桜がお姉ちゃんを、私から奪い去ったのだ。


 コノハナノサクヤビメ。

 日本神話に登場する女神で、古事記や日本書記で木花之佐久夜毘売、木花開耶姫など、様々な名前を持っており、桜の花が咲くように美しい女性であると書には記されている。

 富士の山頂から桜の種を撒いたり、炎の中で出産する火中出産の話から、桜の神、火の神として富士山の神霊として崇められている女神。


「わたしはわたし。それはわたしが一番良く知ってるの。他の誰かが、わたしを何と云おうとも、わたし自身はなにも変わらない。わたしはただ、美しい桜と共に過ごしたい」


 桜が咲いたかのような笑顔で、彼女はそう私に告げた。

 多くの神話の編者が彼女の物語を変えた。彼女の生を変えた。彼女を本当の彼女として描くこともなく、改竄して様々な彼女の像が生まれてしまった。コノハナノサクヤビメとは彼女で在りながら、彼女ではない存在となる。

 それでも彼女はそれで良いと、微笑を浮かべながら呟いた。

 わたしはわたし。その言葉に彼女のすべてが込められている。

 たとえ、コノハナノサクヤビメがどんな風に語り継がれ、どんな風に知られていようとも。

 大好きな桜と共に彼女はあり、彼女は大切な桜と共にある。

 ただそれだけを、彼女は願っているのだから――


「学園の裏にある墨染桜は、美しさに魅入った生者を死に誘う妖桜。開花で死に誘い、散る事で冥府に魂を還す」

 

 その桜は生者の棲む有限の世界から、永久に続く死者の棲む冥府へと魂を反転させる力を持つ。

 桜と共に過ごしている彼女は、その桜の持つ力に気が付いていたのだ。

 だからこそ、彼女は妖桜に死を望まぬ生者が誘われないように、見守り続けているのだ。

 お姉ちゃんは桜に誘われるを望んだ。だから彼女も止めはせず。


 お姉ちゃんはムコウへ行ってしまった――


 私は憎い。

 お姉ちゃんを奪ったこの桜が憎い。

 なんで私を置いて行ってしまったのか、なんで桜がお姉ちゃんを連れ去ってしまったのか、恨み事は山ほどある。お姉ちゃんを返してと声が嗄れても叫びたい。

 だけどそれは――


「そんなことは、桜にとってはどうでもいいことなんだろうね」


 桜はただ咲くだけだ。咲くが定めで散るが掟。誰もが望む満開の花を開花させ、散り去ることに咎などあるわけがない。だから私が憎いと思うのも桜にとっては関係のないことなのだ。

 それは彼女と同じ形。生きるがまま生きて、望む通りに花を咲かす。

 はらりと花びらが舞い降りて、私の手のひらに収まった。


「咲いて散って眠り続け、季節が巡り花が咲く。貴方もいつか綺麗な花を咲かせるでしょう」


 お姉ちゃんはきっと、お姉ちゃんが願った通り、桜の下で眠っている。いつか咲く日のことを夢に見て。


「おやすみなさい。お姉ちゃん」


 ああ――なんて美しい、散り誇る桜。


 手のひらに残る桜の花びらはお姉ちゃんなのだと、そんなことを心の片隅に、私は思った。


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