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鳥風

 お袖と喜作が心から願った思いが通じたのだろう、柳清丸様はすくすくと健康に育ち、とうとう元服をお迎えになられた。藩主の御世継も、彼に決まる事だろう。

 御正室様は可哀想だけれど、気の病で伏せってしまったそうな。

 若殿様――否、今ではお殿様だ――は、自身の祝賀の時と同じように秋祭りに見世物を催した。

 彼は芸事が好きなのだろう。しかしそれを後押ししたのは、ご側室様のおねだりだったという。

 いつもは表立った事をしないご側室様の株が、ちょっとだけ上がった。

 株が上がっているところに加えて、見世物を皆と一緒にご観覧させるという事になったので、皆が心を浮き立たせた。お殿様のご側室様を拝見出来るなんて、ごくごく稀な事だからだ。

 しかも、そのお方はお世継ぎ柳清様の実母となれば、しもじもの気を引かないわけが無い。

 もう年増だよ、という声もあったが、いやいや、観覧席に現れたご側室様の美しい事と言ったら、饒舌に尽くしがたく、この世の者とは思えない端麗なものだった。

 シンと静まり返った後に、誰かが「柳の上様ー!」と声を上げた。

『柳清様』の母上だから『柳の上』というわけだ。

 皆がその呼び名を気に入って、ご側室様を『柳の上様』と呼んで喝采を上げた。

 お殿様もご満足なのか、ご側室様の方を見て頷き笑んでいらっしゃる。

 立派で身目麗しい柳清様も微笑んで、優しく彼女の手を取って席に座るのを手伝った。

 その際柳の上様は、民衆の方をふと見て、顔をパッと一瞬だけ少女の様に輝かせると微笑んだ。

 それが一体何だったのかは、彼女の微笑みを受けた者にしか分からず仕舞いだ。

 『母上』とでも声を掛けられたのだろう、柳の上様は頷いて、息子の手を借りて座ってしまった。

 お殿様と、柳清様、柳の上様が並んだ。

 柳清様の後ろには、抜身の稚児刀が彼を見守る様に輝いていた。

 元服を迎えたのに少しおかしな趣旨だが、皆は気にしなかった。


 そんな中、彼女の姿を見て目を見開く者が幾人かいた。

 この第一回目の演目に、居合わせる事の出来る裕福な人々の中でも、特に洒落者の幾人かだ。

 ――――おい、ありゃあ……。

 その者達の頭の中で、反物が舞う。美しい、忘れ難い笑顔が咲く。

 あの、枝垂桜みたいな佇まい。

 とろんと色っぽい、黒目がちな瞳。

 あの、枝垂桜が薫る様な――――

 ――――まさかね、そんなね。

 そう思いつつ、ついつい目で探す。

 出来過ぎた物語の様に、彼らの目が老いた男を見つけ出した。

 最近隠居した、呉服屋の大旦那だ――――けれど、視線に気づかない。

 皆がこんなにも、何か問いた気な視線だと言うのに。

 老いた男は何とも言えない顔で、柳の上様を見詰めている。ただ、見詰めている。見詰めている……。

 演目が、始まっているというのに。



 年月が流れた。


 時は天保十二年を迎えており、贅沢への目が厳しくなった。

 彩白井でも贅沢な反物を扱えなくなり、そこから流れて来るお客が減ってぬい丸も厳しい状況となった。

 けれども、頭を捻り、手足を使ってなんとかやっていた。

 一年、二年と耐えていた。

 そんな時、ぬい丸の実質主である寅之助が病で倒れ、亡くなった。

 彼は亡くなる前日に、お袖を病床に呼んだ。

 お袖は弱り切った兄の姿に心を痛めた。

「どうしたんですか、寅兄さん。元気を出して頂かないと、祥之助さんも大きくなりましたがまだまだ修行中なんですから」

 祥之助は、寅之助の一人息子である。上に一人、下に二人の兄弟を亡くしてぬい丸の跡継ぎとなるべく奉公へ出て修行中だ。もちろん、彩白井が預かってくれている。

 寅之助は、お袖のそんな呼びかけが聴こえていないかの様に、仰向けに寝て天井をじっと見つめている。

「寅兄さん?」

「俺はもう死ぬ」

 乾いてボロボロになった寅之助の唇が、ぱさぱさと動いた。

「なにを言ってるんです!」

「死ぬ。やっと」

「いけません。ダメです。気苦労で疲れてしまっているだけなんですから……。贅沢の禁止も、今だけですから、きっとまた……」

「羨ましかったんだ……」

「え?」

「羨ましくなるだろう……俺は……俺はずっと真面目に……」

 お袖は首を傾げる。老いた母や寅之助の嫁が言うには、数年前から心身とも衰弱し始めていたという。

 もしかして、お店を苦しめるお上の命令で、心を病まれてしまったのだろうか。

「お上は私達を羨んであんな禁止令を出しているのではありませんよ」

「おまえたちだよ」

 寅之助が、変わらず天井を見詰めながら囁いた。

 もう、腹にも喉にさえも、力が入らないのかも知れない。

「そんなわけ、ありませんよ」

「羨ましかったんだ……」

 すぅ、と、寅之助の目から涙が溢れ、流れた。

「寅兄さん……?」

「すまない……すまない……眩しいよ、お袖……」

「あらあら……障子をしめましょうか?」

 腰を上げれば、違う、という風に寅之助は首を振る。

 どうすれば良いのか見当もつかなくて、お袖は再び正座し直して寅之助の涙を拭いた。

 寅之助は「すまない、すまない」と繰り返す。

「あんな事になるとは……思いも……あんな事に、まさか……そんな……嘘だ。嘘だ……」

 お袖は彼の白髪交じりの頭をそっと撫でて、「大丈夫ですよ。大丈夫」と優しく言った。

「お店の勢いは、きっとまた、取り戻せますから」

「死ねなかった」

 お袖は悲しくなって来て、布団から兄の手を引っ張り出して握りしめる。

 その手はしわがれて、震えていた。

「死んだりしませんよ。寅兄さんは、これからもお店を支えなくては」

「ああ……そうだ……だから、死ねなかった」

「そうですよ。元気を出して」

「お袖」

「なぁに、寅兄さん」

「眩しいよ……」

 お袖はもう、四十になろうとしている。確かに、同じ年の女達に比べたら未だ随分と美しかったし、喜作は相変わらず彼女を天女か何かの様に大事に大事にしてくれる。

 けれど、眩しいだなんて……?

 私に言っている?

 兄弟の贔屓目?

 否、それよりも、真面目で硬派な寅之助がこんなお世辞を言うなど普段ではありえない。

 お袖は微笑んで見せた。戸惑いを隠して。

 その間に、寅之助はもう一度「すまない」と言って、眠ってしまった。

 お袖が拭った涙の跡の上をなぞる様に、一筋の感情が零れていた。



 そして翌日、寅之助は静かにこの世を去った。

 葬儀や、老いた両親の慰みの為数日実家に泊まり込んだ帰り道、お袖は妙にこの感じ――寅之助の静かな幕引き――を懐かしく思って胸に引っ掛けながら、柳並木に沿って歩いていた。

 帰路でもあったし、頼りがいのある兄であった寅之助を失って寂しく、もう一人の大好きな兄を思いたくもあったのだ。

 柳がさやさや揺れて、遠い遠い処に行ったお袖の思い出に手招きする。

 小刃の様な葉が、一斉に輝いては渦を巻いて、枝の向こうに幼い自分や、おきぬや、辰二郎が笑っている様な気になって来て、お袖は歩く足を止め揺れる緑の枝をぼんやりと眺めた。

 そして、ふ、と思う。

 ――――寅兄さんがいない。

 いない。どこにも。お袖の思い出の、柳の枝のどの揺らぎの中にも。

 お袖は目を閉じる。思い出を探す。おきぬと遊んだ後辰二郎とふざけながら帰ると、そっと賑やかさから逃れる彼の背中を思い出して、胸を突かれた。

 寅之助の死は、その時と同じ静かさだ。

 そっと、逃げる様な、隠れる様な……そうだ。

 彼は、お店を継ぐ為にお袖たちと遊べなかった。厳しく躾けられ、仕込まれ、期待され、それらに真面目に応え続けていた。

 それなのに。

 得意先の若旦那の座を得た辰次郎。その横に、美しいおきぬ。

「兄さん……」

 どちらの兄へか、お袖は呼び掛ける。

「そうね、兄さん。そうね……私達は、きんきらきんだった」

 お袖は手を鋏に見立て、すーと、虚空へ滑らせる。

 手伝う様に、無数の美しい翠色の小刀たちが、揺れて光ってさざめいている。

 よく切れるお袖の刃物は、どうしてだろう、裁って行くのに縫っても行く。

 ――――そうよ。だって、仕立て屋の娘だったんですもの。

 兄さんたち。許して。許してしまう私を許して。

 おきぬちゃんも。ああ、おきぬちゃん!

 お婆ちゃんになったらって、言ったのに。

 あんな風に驚かせて!

 でも、分かるわ。自慢したかったのよ、そうでしょう、おきぬちゃんたら。

 でも、私だってまだ綺麗だったでしょう?

 私にも立派な息子がいるのよ。一人じゃない、二人よ!

 旦那様は、お互いどっこいどっこいね。

 あらやだ……ご面相のお話よ、ふ、ふ、ふ。


 優雅に立ち並ぶ柳並木が、南へ行く鳥風を受けた様に葉をさざめかせ、照り返した日の光が金粉の様に風を追う。

 風に乗るのは、幾千万と世に零れ落ちるきんきらきん。

 きっと、きらきらきんきん鳴りながら、何処か安らげる場所へ、眠りに行くのである。


 了



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