36:脱獄
「こ、これから一体どうなるんでしょうか……」
ピチャン、ピチャン。どこからか雫が石に落ち、弾ける音が定期的に響いてくる。床は氷のように冷たい。
薄暗い地下牢の中、不安そうなフランの声がポツリと聞こえてきた。同じ牢屋の中にはセラ、ソノラ、ガイア、フランが投獄されている。フランは最初投獄される予定ではなかったのだが……「ソノラ様にどこまでもついていくんです!」と自ら投獄されたらしい。
己の膝を抱きながら、ソノラはライゼルの光を失った瞳を思い出す。
(あの時のライゼル様は正気じゃなかった。ブレイズ様になにかされたんだわ。早く助けにいかないと)
歯がゆい気持ちを抑えられず、冷たい柵を握り締める。冷たすぎて痛みが手に染みるが、離せなかった。
「いっ!?」
しばらくすると、急に手に痛みが走る。いつの間にか柵に氷の棘が生えており、ソノラの手を傷つけていた。氷魔法がかけられているようだ。
「ソノラ様、大丈夫ですか!? 血が……!」
「えぇ。大丈夫よ」
血で滲んだ手のひらを見て、ソノラは苦々しく歯を食いしばった。血は手首へ流れる。その手首にも魔法使いを拘束するための手錠がはめられていた。この手錠によってこの場にいる魔法使いは全員魔法が使えない。
この柵と手錠さえなければ、今すぐにでもライゼルの下へ向かいたいというのに!
「申し訳ありません、ソノラ様。俺が動けさえすればすぐにでもここを出て、ライゼル陛下の下へあなたをお連れできるというのに……!」
ソノラの焦る表情を見て、ガイアが弱弱しくそう言った。彼は特に看守に警戒されているようで、痺れ薬によって身体が動けなくされている上に手足を鎖で拘束されているのだ。そんなガイアにセラがため息をこぼす。
「それを言うなら私もそうね。こんな手錠さえなかったらガイア様の解毒をして、ここを出れたというのに」
どうしようもない現状に四人は沈黙するしかなかった。
……と、ここでどこからかクスクス笑い声がする。
「ざまぁないわね、ソノラ・セレニティ。それにセラ・エンハンサまで!」
「マリーナ様!」
声の主は──先日、地下牢に投獄されたマリーナ・アクアリアだ。食事をとっていないのか、柵越しでも彼女が短期間で急激に痩せたのが分かった。
「あはは! アンタ達、王妃選定をしていたんじゃないの? なんでこんな面白いことになってるのよ。あーおかしい!」
マリーナはそれはそれは愉快そうに腹を抱えて笑っている。ソノラはそんなマリーナを睨みつけた。
「マリーナ様。あなたに闇の力を与えた張本人はブレイズ様で間違いないわね?」
そう尋ねると、彼女はピタリと笑うことを止める。
「……そう。もう祭りは終わったのね。その場にいなかったことは残念だわ」
「あなたなら、ブレイズ様についてなにか知ってるんじゃないの? どんなに小さなことでもいいから教えて!」
「はっ、無駄よ。私はただあの御方が嫌いなアンタを陥れる力を貸してあげるって言われたから乗っただけ。特に情報はもっていないし、あの御方との契約も既に終わっているわ」
「残念でしたぁ」とマリーナは口角を上げ、舌を出した。ソノラは眉を下げ、俯く。
結局、この状況を打破する情報はないということだ。そもそもこの牢屋から出る手段が分からない。
その時だ。誰かが重い鉄扉を開けて、地下牢に入ってきた。
コツコツと、看守にしてはやけに高い足音が近づいてくる。その場にいた全員が息を呑んで来訪者の影に注目した。
「ボルテッサ、様……?」
「…………」
ボルテッサはソノラとセラに順番に視線を移し、ゆっくり近づいてくる。
一体どんな嘲笑がとんでくるのかソノラは身構えたが、灯りにうつるボルテッサのターコイズグリーンの瞳が潤っていることに気づいた。
(よく見れば彼女の目元も赤い。今まで泣いていた? あのボルテッサ様が?)
ボルテッサはしばらく檻の前で俯いていたが、震えるため息を吐いて、ソノラを真っ直ぐ見た。
「──こんなこと、私が言うのは間違っていることは重々承知だわ。それでもあなた方にお願いがあるの」
「え?」
「あの子を……エアリスを、助けて……!」
キョトンと顔を見合わせるソノラとセラ。ボルテッサは戸惑う二人を余所に牢屋の鍵を躊躇わずに開けた。
罠かと思ったが、ボルテッサの顔は今まで見たことがないほど真剣な表情だった。そのままその場にいた全員の手錠を次々に開錠してくれる。
「なにか事情がありそうね?」
手錠から解放されたセラが手首をさすりながらそう言うと、ボルテッサはコクリと頷いた。
そして彼女はエアリスとブレイズの関係について話してくれる。彼女がいうには亡くなったはずのブレイズが復活したのは悪魔という存在が関わっているとのことだった。
「つまり、ブレイズ様の正体が悪魔で……エアリス様と契約しているってこと……?」
「二人の会話をそのまま受けとめればそういうことになるわ。でもエアリスは、私の願いを叶えるためにしたことで……。あの子は悪くないの!」
ボルテッサはポロリと涙を流し、そう弱弱しく言った。いつもは強気な彼女がここまで簡単に人前で泣くとは思っておらず、ソノラは動揺する。
それほどボルテッサにとってエアリスは大切な存在だったのだろう。自分のプライドを捨てて、ソノラ達に助けを求めるほどに。
そこで、ガイアの解毒をすませたセラが立ち上がる。
「とにかく! ブレイズ様の正体が悪魔だろうがなんだろうが! エアリス様が自分の命を犠牲にするつもりなら止めなければいけないわね。まず私達がやるべきなのはライゼル陛下と合流することよ。ボルテッサ様、陛下は今どこに?」
「雷宮の私の部屋よ。でも……彼は今、洗脳の術にかかっているわ」
洗脳。ソノラはさきほどの目に光がないライゼルの顔を思い出し、ハッとする。セラが怪訝そうに片眉をつり上げた。
「随分ハッキリ確信しているような口調なのね」
「瞳孔。洗脳の術にかかった者は瞳孔が開きっぱなしだと本で読んだことあるわ。……それに私は幼い頃からライゼル様につきまとってたのよ。話せば一発で分かるわ。彼が正気じゃないことくらい……」
ボルテッサは自嘲し、ソノラを見る。
「彼はソノラ様のことを自分勝手な女性だから苦手だと言っていたわ。おそらく私への感情をソノラ様に、ソノラ様への感情を私に向けるように操られてる。一から幻想を生み出すより、元から持っていた感情を入れ替えた方が効率的でしょうね。……それに私は、」
──あんなに優しい目で、愛おしそうに、彼に見つめられたことがなかったから。
そうポツリと呟くボルテッサに、ソノラは何も言えなかった。何を言えばいいのか、分からなかった。
「悪いけれど、おそらくボルテッサ様の推測は当たっているわ。……ひとまず雷宮へいってライゼル様の状態を確認しましょう」
「セラ様。治癒魔法で洗脳を解呪できるの?」
「できないわ。洗脳系の魔法は強い痛みや刺激を与えることでしか解呪方法がないのよ。だから、もしその時になったら辛いでしょうが──解除は騎士であるガイア様にお願いすることになるかもしれない」
「それは……」
ガイアの眉がきつく顰められた。ガイアのライゼルへの忠誠心をソノラは知っている。
(それって、拷問ってこと? 大切な主を傷つけるだなんて……ガイアにとっては自分の身を切られるよりも苦しいはず……)
そんなガイアの心中をセラも察したのだろう。眉を下げて俯く。
「……他に方法はないわ。ライゼル様は身体能力も魔力も非常に優れた御方。ちょっとやそっとの刺激では彼の心は動かせない。ライゼル様の頭が真っ白になるくらいの刺激を与えるなんて、それこそ拷問でしか……」
そこでソノラは固まった。セラの言葉に心当たりがあった。ありすぎたからだ。
(──んん?? ちょっと待ってそれって……思ったより簡単では??)
ソノラの脳裏に、この深刻な状況にそぐわない、顔を真っ赤にして喘ぐライゼルの顔が思い浮かんだ。
そんなソノラの隣でフランがポンと手を叩く。
「なーんだ! そんなのソノラ様なら簡単なことではありませんか! ねっ!? ソノラ様!」
「ふ、フラン!? ちょっと!」
ソノラは慌ててフランの口を塞ぐ。その場にいた全員がソノラに注目している。事情を知っているガイアだけ、納得したような表情を浮かべていた。
「ソノラ様? なにか策はあるの?」
「え、えぇ……まぁ……道具さえあれば……多分大丈夫かと……」
目をキョロキョロ泳がせながらソノラは答える。セラとボルテッサは知らないのだ。ライゼルの耳の感度がすこぶるいいことを。
ライゼルの威厳に関わることなので、それを言いふらすこともできない。ひとまずソノラはボルテッサに音宮にあるダミーヘッドや耳かき等の道具を持ってきてもらい、雷宮へ向かうことにした。
「よくわからないけれど、ソノラ様がそういうならそうなんでしょう。ひとまずボルテッサ様、案内を頼めるかしら」
「え、えぇ……」
ボルテッサの案内に従い、ソノラ達は牢屋を出た。
地下牢から抜け出す階段に足を乗せた時、ソノラはふと立ち止まり、振り向く。
踵を返して、マリーナがいる牢屋の前に立った。マリーナは面白くなさそうにソノラを見上げ、舌打ちをする。
「なによ、惨めな私を笑いに来たわけ!?」
「そんなわけないでしょう。ボルテッサ様、この牢屋の鍵はあるかしら」
「え、えぇ……」
戸惑うボルテッサから鍵を受け取ると、ソノラはためらわずにマリーナの牢の鍵を開けた。ついでにマリーナの手首を拘束する手錠も。
刹那、マリーナの平手打ちがソノラの右頬に炸裂した。
「同情か、クソ女!? アンタのそういうところが私をより惨めにしているのよ! 死ね!」
じんじんと響く頬の痛みを感じながら、ソノラは黙って立ち上がる。
背後から、セラが慌ててソノラの手を引いた。
「ソノラ様! その女はあなたを殺そうとしたのよ! 解放なんてしたら、」
「大丈夫よ。今のマリーナ様にそんな元気はないわ」
ソノラは再び地下牢を出る階段へ足を向ける。マリーナの憎悪がこもった視線を受け止めながら。
この行動がただのエゴだというのは分かっている。だが、この城がブレイズに支配されている以上、彼女がどんな目にあうか想像すらできない状況で彼女をどうしても置いていきたくなかったのだ。
「私は選択肢を増やしただけ。あとはマリーナ様の自由にすればいい」
そう言い残すなり、ソノラは地下牢を出た。後ろから「ふざけるな、」と弱弱しい文句が聞こえてきたが、ソノラはもう振り向かなかった。




