熊と兎の結婚記念日
熊の夫は浮気など決してしない。
熊の夫が愛するのは兎の妻たった1羽。
他の雌に心移りするなど、兎の妻を溺愛する熊の夫にとってはあり得ないことなのだ。
が、しかし、ある日熊の夫は言い訳に困るような場面を、最愛の兎の妻に目撃されてしまう。
まずは事件の数日前、勤務先での出来事。
「もおぅ、熊主任ったらぁ、うふふ♪」
同じ部署に所属する新入社員の人面魚、寒鰤のぶり子に懐かれてしまった熊の夫。
困ったことに、やたらとボディータッチが多い。
「うわぁ♪ 熊主任のボールペン、インクの出が最高!」
そう言ってボールペンを握り持つ熊主任の右手を、ぶり子は両方の胸鰭でぎゅっと包み込む。
「きゃは♪ 熊主任が持つとA4サイズのバインダーがめっちゃ小ちゃく見えて可愛い!」
そう言ってバインダーを持つ熊主任の腕に、ぶり子はするんと胸鰭を絡ませる。
最初は丁寧に断って、適度な距離感で他人と接するようその都度指導していたが、ぶり子はなかなかにしつこい。
断るためには相手の目をきちんと見て話をしてやらねばならない。
熊の夫は丁寧に根気強く、艶々しい鱗を持つ身がぷりっと引き締まったぶり子を断った。
そして、数日経ってもぶり子が相変わらずなこの日、熊の夫と兎の妻のとても大事な日。
ちょうど1年前、熊の夫は愛する兎の妻に愛を誓い、2匹は夫婦となったのだ。
そう、この日は2匹の結婚記念日。
熊の夫は少しでも早く仕事を終わらせ、愛する兎の妻と暮らす巣穴に帰宅したかった。
今日は自宅で兎の妻と2人、ゆっくり夕食を食べるのだ。
兎の妻は熊の夫の好物を作ってくれると言っていた。
蜂蜜ソースがたっぷりかかった、愛情いっぱい豆腐入りのキャロットバーグ。
そして明日の午前は、兎の妻が行きたがっていた人気の絶景カフェを予約していた。
今夜の残業も明日の休日出勤も、絶対にあってはならないのだ。
脂ノリノリのぶり子に対し、熊の夫はその日、ほぼ無視に近い態度をとっていた。
熊の夫のそんな態度は初めてのことだった。
自分が許されたと勘違いしたぶり子。
熊の夫への身体接触はよりあからさまなものになる。
デスクの席でパソコンに向かう熊の夫の両肩にぶり子は胸鰭を乗せた。
「あっ、熊主任。肩が凝ってますぅ♪」
3回くらい肩を適当に揉んだぶり子は、そのまま熊主任に自らの腹鰭を押し付けて、脂ノリノリの身体でのし掛かる。
さすがに「いい加減にしろ」と言いたくて、熊主任は後ろを振り返ろうとしたのだが、顔を動かすと同時に、オフィスの窓口付近に立つ可憐な女性の姿が目に飛び込んだ。
「う、う、うさたん………」
兎の妻はいつも真ん丸の赤い目をすぅーっと細めた。
目はそのまま、左右の口角だけをくいっと上げて、窓口の女性職員に礼儀正しく挨拶する。
「いつも主人がお世話になっております」
「熊主任の奥様ですね。すぐにお呼びしますね」
後方を見ていなかった為、熊主任の現状を知らない受付嬢の鶯嬢は、兎の妻に笑顔でこたえた。
しかし、兎の妻は取り次ぎを断る。
「いえ、結構です。昼食の弁当を届けに来ただけですので。では、失礼いたします」
そして兎の妻は立ち去った。
その後、熊の夫のスマホにLINEが届いた。
『お疲れ様です。今夜は実家に泊まります。夕食は食べて帰るか買って帰るかでお願いします』
熊の夫は頭を抱えた。
「いやぁん♪ 熊主任の頭髪ってもふもふで気持ちいい!」
熊の夫は無言でぶり子の鰭を払ったが、さすがは寒鰤、熊の夫が発する冷気をものともしない。
「ちょっぴり無口でクールな熊主任、す、て、き♪」
昼食の時間。
ぶり子に見つからないよう、さっと席を立った熊主任は兎の妻が届けてくれた弁当を手に持ち、会社近くの公園へ。
普段は社員食堂を利用している熊の夫だが、兎の妻は2人の記念日だからとわざわざ弁当を作ってくれたのだろう。
熊の夫は公園のベンチに腰掛けて、兎の妻お手製、愛情いっぱい鶏そぼろ弁当をひと口ひと口しっかりと味わいながら、愛しい兎の妻を想い涙をぽろぽろさせながら、独り弁当を食べたのだった。
午後の仕事もきっちりやり終え、熊の夫は定時で退社した。
会社を出てすぐさま、愛する兎の妻に電話を掛ける。
「もしもし兎よ、うさたんよ」
「あ、オレオレ。俺だけど」
やはり妻は今夜は戻って来ないと言った。
けれど、明日のカフェへは行くという。
「じゃ、予約もしてあることだし、ヒトマルサンマルに店内の席で、現地集合でよろしくね」
「了解。無事の来店を祈る」
ピリピリした雰囲気のまま電話は終了したが、可愛い兎の妻の声を聞けた熊の夫の頬は自然とほころんでいた。
翌日。
熊の夫は予定の時間に店を訪れた。
店員に名前を伝えて案内されたのは、シンガポールの某宿プールのような席だった。
「素敵な席よね。昨日お店に電話して、1番端の席をお願いしてみたの。そうしたら、大丈夫ですって言ってもらえて」
兎の妻はアッサムティー、熊の夫はジャスミンティーを注文した。
お茶請けの原材料こだわりクッキーを2人で摘まむ。
……味がしない。全く味がしない。
兎の妻の怒りはいか程か。
兎の妻は熊の夫が高所恐怖症なのを知っていた。
熊の夫の手足はぶるぶる震え、持ち上げたティーカップを元の位置に戻すのに、陶器がガチャガチャと音をたてる。
「ねぇ、くまたん知ってる? キノコにはね、触れるだけで皮膚が爛れてしまうような、猛毒キノコもあるの」
「う、うん。そうなんだ」
「ねぇ、くまたん知ってる? ジャスミンも種類によっては毒があるんですって」
「へ、へぇ。そうなんだ」
「ねぇ、くまたん。毒婦って、知ってる?」
「ぶ、ぶぉっ。ごふっ。……んん、えっ……と?」
「毒婦はね、平気で人を騙すような、悪知恵を働かすようなひどい女なの。くまたん、私のこと……もう嫌いになった?」
兎の妻は急にはらはらと泣き出した。
赤い目は……赤い目のままだった。
熊の夫は先程までの緊張や恐怖はどこへやら、愛する兎の妻の為、椅子から立ち上がって手を伸ばし、頭のもふもふを撫でてやる。
「くまたん、高いところ苦手でしょう? 怖くないの?」
「うさたんに泣かれる方が苦手みたいだ。うさたんに嫌われる方が怖いかな」
こうして、熊の夫は高所恐怖症を無事克服した。
「次は遊園地で絶叫マシーンに乗らなくちゃ」
自称毒婦、兎の妻の企みは続く。




