怪獣2
心の中は自由だからともかく、他人の悪口を口にするのは苦手だ。
私のその気持ちを見透かして、一朗君は「俺には面と向かって『大嫌い』って言ったのに」と軽やかに笑った。
私たちの喧嘩は、友人たちや祖母が誤解を解いて仲直りさせてくれた。
天宮さんへの疑惑も同じで、私がボールを投げれば周りが検証してくれる。
なにせ、彼女を疑う誤解してしまう原因——友人や部活の悪口を言いふらされたり、面と向かって非難されたことがあるのだから。
そんな風に気持ちに寄り添われて、顧問と話すまで一緒にいてくれたので心強かった。
物証なく天宮さんを疑うことに胸が痛んだけど、一朗君が「自分の目にもそう見えた」と背中を押してくれたので、感じたままを伝えることができた。
顧問の石塚先生が親に連絡を取る間、職員室でお昼を食べることになった。
一朗君はいないし同期も不在。寂しくて心細いから食欲に無いし、平気なはずの体、特に左手が痛む。
これまで挨拶しかしたことのなかった鈴木先生が、「差し入れです」と冷たいお茶とチョコレート菓子をくれた。気遣いや笑顔に胸がじんわり温まる。
鈴木先生は私の前、ソファに腰を下ろした。
「足元、階段は特に気をつけないとダメですよ」
石塚先生は鈴木先生に「うちの部員が階段から落ちて」と伝えて私のことを任せた。
私は階段から落ちた生徒だから、ここで休ませて親に連絡をすると。
石塚先生は『問題は慎重に扱う』と考えて、鈴木先生になぜ私が階段から落ちたのか説明しなかったのだろう。
鈴木先生からは何も知らないから今の助言をした。
分かっているけど「気をつけます」と言いたくない。頷くことすら嫌だ。
一朗君があんなに寄り添って信じてくれたから、それを裏切るようなことはしたくない。
「相澤さん?」
「……のに。何も知らないのに、口を挟まないで下さい」
つい、拒否の言葉と涙が溢れた。
慌てて「気遣ってくれてありがとうございます。差し入れも」と頭を下げる。
鈴木先生の優しさを踏みにじるくらいなら、「押された気がして怖くて」と言えば良かった。
「聞いて下さいよ鈴木先生」
吹奏楽部の顧問——三橋先生の声がしてビクリと体がすくむ。
いるはずがないのに、天宮さんの気配を感じて。
「あら、どうしました?」
三橋先生はまだ何も知らないようで、私を軽く見てから鈴木先生に問いかけた。
「彼女は階段で少し滑り落ちてしまったんです。この通り怪我はないんですけど、石塚先生が親御さんに報告しています」
「まあ、相澤さん。大丈夫ですか?」
三橋先生とは面識がある。彼女は私の隣に腰掛けて安否を確認するように、私をゆっくり上から下まで観察した。
「……少し痛いところもあります」
「平気」と言うのも一朗君の善意を無にすることだ。
大袈裟に言う必要はないけど、何も無いことにはしない。
「全国大会前だから不安ですよね。石塚先生なら怪我の程度のチェックはしたでしょう。大丈夫ですよ」
天宮さんが悪意を持って私を攻撃したなら、この優しい三橋先生の顔に泥を塗ったことになる。
吹奏楽部と箏曲部は同じ音楽仲間で、合同の行事もあるから仲良くしている人も多い。
それなのに、天宮さんたちは小百合や箏曲部に陰口という喧嘩を売り続けている。
他の真面目な吹奏楽部の部員が可哀想。私たちを気遣って注意してくれる役員も迷惑だ。
私はこれまで悪意に背を向けてきた。相手を非難しても無駄だ、自分だけの問題だと切り捨てた。
一朗君と過ごす中で、それは間違いだったのではないかと実感している。
「三橋先生は優しいのに……」
「相澤さん?」
「吹部の二年生の一部は先生を裏切るようなことをするんです。友達がやめてって頼んでくれたのに」
梓は天宮さんと同じクラスだからと、「友達の陰口はやめて」と悪口を聞いたその場で言ってくれたことがある。
茉莉が「言いがかり」とか「怖ーい」と嘲笑われたことを教えてくれた。
梓は「幼稚だから放っておこう」と流したけど、クラスで空気が悪くなることもあっただろう。
梓も結衣も茉莉も「あんなの平気」と笑ってくれた。その優しさを無視したくない。
「相澤さん、そうなんですか?」
麗華も「大会組は大事な時だから」と、吹奏楽部の二年役員と相談する役を引き受けてくれた。
向こうの役員は、部活同士の軋轢にならないように「部員同士のこと」として「悪口はやめましょう」と注意してくれたらしい。
吹奏楽部の一部と空気が悪い中、美由と結衣は壮行会係を率先して引き受けてくれた。
そういうみんなの優しさも、私が「何もされていません」と話したら、無駄になってしまう。
「相澤さん?」
どうしてだろう。息がしづらくて耳鳴りがする。
『まさかうちの子が切ったって言うんですか! 生徒を疑うなんて、なんて教室なんでしょう』
お願い、怒鳴らないでと両手で耳を塞ぐ。
そんな鬼のような恐ろしい目で私を見ないで。
悪いことをしたのはあの子なのに、先生も父も困らされた。
私が上手くて気に入らないなら練習すればいいのに、宝物で友達の箏を傷つけて謝りもしない。
あの子はきっと、反省しないまま、今頃誰かを傷つけている。
それは、それぞれの思惑で穏便に済ませた大人たちのせいだ。
それでいて——「平気」や「何もない」と言った私のせいでもある。
「相澤さん、ゆっくり息をして。ゆっくり、ゆっくりですよ」
当時、雇われ講師もしていた父は頭を下げた。客商売で雇われだから、娘を強く庇うようなことを言えなかった。
そんなこと、当時の幼い私にも分かっていたことだ。納得して飲み込んでいたはずなのに、今、受け入れていなかったと分かる。
家に帰った後に両親や祖父母が抱きしめて慈しんでくれたけど、私はあの時、あの場で庇われたかった。
今日、一朗君が即座に味方してくれたように。
「そう、ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて」
あの時も、あれもこれも、父や母、もしくは祖母に泣きついたら一朗君のように庇ってくれただろう。
真由香との間に小さな溝がずっとあったのは、私のそういうところのせいだ。
「……天宮さんたちは他人の悪口を言い過ぎです。注意して反省させて、もうしないようにして下さい」
感情が破裂して一朗君に言いたいこと一方的に突きつけたように「話せ」と自分に命じる。
今は『穏便に』という理性は邪魔だ。
その考えは『穏便』ではなく、誰かのトラウマを生む。私を傷つけて、私を好きな人も傷つける。
「私、彼女に突き落とされたと思ったんです。そのくらい嫌いです。逆恨みで私の大切な友達を傷つけるから大嫌い!」
彼女は優しい三橋先生のことも、他の吹奏楽部員のことも裏切っている。
私たちにこんなことをするなら、同期や後輩のことも虐めているかもしれない。
涙が怒りに染まっていくのが自分でも分かる。
それと同時に蘇った過去も「みんなバカ!」と踏み潰せた。
前とは違う怪獣が、理不尽にきちんと立ち向かえと言う怪獣が、私の中で暴れる。
いつの間にか、鈴木先生が電話を取っていて、三橋先生に「海鳴さんから緊急のご相談だそうです」と告げた。
「相澤さん、話はきちんと聞きますからね。鈴木先生、お願いします」
三橋先生は私の肩を撫でて立ち上がった。電話に出て挨拶をしている。
「箏曲部の顧問、石塚は席を外しておりまして。伝言があればお預かりします」
三橋先生は電話に応対しながらも、私の様子を確認してくれた。
箏曲部と海鳴のことを。野球部の小笠原という人が怖い感じで私と一朗君を呼び出したことだろうか。
一朗君が、うちの学校の生徒のことだから顧問の先生に話すと言っていた。
「それが箏曲部の生徒が怪我をしまして、石塚はその対応をしております。緊急のご相談とのことですが、その後でもよろしいでしょうか」
相槌を繰り返しつつ、「それでお願いします」と口にした三橋先生は、海鳴の先生とどんな話をしているのだろう。
「いただいた電話で恐縮なのですが、私も海鳴さんにちょうどご報告しようと思っていたことがありまして」
先生は衝撃的なことに、剣道部の藤野という生徒が「壮行会のことで」と吹奏楽部を訪ねて、部員に告白をしたと話した。
「交流してみないと分からないから、登下校を一緒にしてみますというようなことを」
海鳴剣道部の藤野は藤野君しかいない。その藤野君は吹奏楽部の部員に告白なんて絶対にしない。
彼は小百合が好きで、二人はまもなく付き合うのだから。
「微笑ましいですが、部活中のはずですし、嘘をついて他校を訪ねてくることはよろしくないです」
石塚先生が戻ってきて、電話をしている三橋先生に会釈をしながら私に近寄り、母が来ると告げた。
その話よりも、藤野君のことが気になってならない。
「石塚が戻ってきましたので代わり……あの」
三橋先生は一方的に通話を切られたような仕草をした。
「石塚先生。海鳴の木村先生が緊急相談があるそうです」
三橋先生は石塚先生に近づいてヒソヒソと話しかけた。二人と距離が近いから会話の内容が聞こえた。
吹奏楽部の一名と、箏曲部の高松と相澤を別々の個室に隔離しておくように。
一体、何がどうなっているのだろう。
☆★
私は母が来るまで鈴木先生と待機。
一応、部活の時間になっているからと、スマホを鈴木先生に預けさせられた。
母と連絡と言っても、石塚先生が連絡するからと返してもらえなかったのでおかしい。
一朗君に藤野君のこと聞きたい。小百合は何か知っているだろうか。
母が到着すると、私は病院に行くことになった。病院が必要な怪我なんてしていないのに。
どうしてなのか——その疑問に石塚先生も母も答えてくれなかった。
さらに妙なことに、母が持ってきた私服に着替えさせられた。私のスマホは母の手に渡り、戻ってこない。
車に乗ると母は「琴音」と真剣な眼差しで私を見つめた。
「突き落とされたは誤解かもしれないけど、本当かもしれないから、病院で記録をつけてもらうことになりました」
「病院で記録? 大したことが無いって記録? そんな患者は迷惑じゃない?」
「大したことないかどうかはプロが判断することなんだからいいのよ」
「一朗君のお父さんと約束してるし、練習もしたいから戻ってきたい」
「あなたはもう。先生に天宮さんって子のことで大泣きしたんでしょう? 親の前でそうやって平気そうなフリをしないの」
「先生たちが『嘘つき』って言わないで、お母さんに調べますって言ってくれたから、勇気づけられて平気になったの。フリじゃないよ」
「そうならいいんだけど」
「あのね、お母さん。お父さんもだけど、いつも大丈夫って言ってたこと……ごめんね。助けてって言う方が良かったこともあったなって思って」
ほんの少し沈黙が流れた。母は微笑んでいる。
「助けてって言うことは大変だけど大切なことよ。謝るなんて、急にどうしたの?」
「お教室のおばさんたちや生徒に虐められたって言ったら、お父さんやお母さんは娘を庇いやすかったのにって、今頃気づいたの」
「今回のことがきっかけで? 誰か何か言ってくれたの?」
「あのね、一朗君って力持ちなんだよ。痛くて少し動けなかったら、ひょいって抱き上げてくれたの」
二人だけの会話を教えたく無いから、『誰か』は察して欲しくて、この話題を出した。
「あら。それは頼りになるわね」
「お礼をしたいからスマホを返して。なんでまだお母さんが持ってるの?」
母はついさっき、笑顔で軽やかな声を出したのに、一気に空気を変えた。肌がピリつく。
「一朗君のお友達の……ううん、琴音の友達の藤野君がね、暴力未遂をしたそうなの」
暴力——藤野君とはまるで結びつかない言葉だ。
「……えっ?」
吹奏楽部の部員に告白といい、藤野君に何が起こっているのだろう。
「藤野君が暴力? 誰に? なんで?」
三橋先生は「微笑ましかった」と言っていたから、吹奏楽部で暴れたりはしていないはず。
私のスマホの話が、なぜ藤野君の話に飛躍したのだろう。
「琴音と一朗君を呼び出した海鳴生よ。その海鳴生は転落現場にもいたそうね。藤野君、琴音を落としたのはお前たちだろうって、その生徒に掴みかかったの」
「……藤野君、私のことを助けてくれようとしたんだ」
「方法は悪かったけどそうね。だから琴音はしばらく誰とも連絡を取らないで。スマホはお母さんが預かっています」
こうなると、吹奏楽部員への告白も無関係では無い。
藤野君は天宮さんがまた悪さをしないか見張るために、彼女に告白したと思えてくる。
藤野君は小百合が好きで、二人はもうすぐ付き合う。だから、心の底から告白相手のことを好きだなんてあり得ない。
私はおもちと一緒に、藤野君が小百合に「好きです」と言うのを聞いた証人だ。
あの美しい夕焼け空の下で笑い合った素敵な二人を誰にも邪魔させたりしない。




