枝話「藤野颯と転落1」
先生はカバンから書類を出して俺に見せた。それは、何かのメールを印刷したものだった。
内容は——俺が不純異性交友をしているという告発。内容を理解した瞬間、軽い吐き気とめまいに襲われた。
「なん……ですかこれ……」
声は自然と震えた。
「これは中間テストくらいから始まった」
先生が続ける。これは、学校の電子質問箱に送られてくる匿名メールを印刷したもの。
持ち物で分かるので、生徒の部活や学年を提示してくることはある。しかし、このメールのように個人名が書いてあることは珍しい。
一朗のような特定の分野で有名な生徒ならともかく、俺のような無名の生徒だと非常に稀。
学校は親にすぐに連絡を入れて話をした。家庭と学校から見て、俺に不良行為はない。
「さっき伝えた通り、海鳴では『不純異性交遊』に誠実な交際で起こることは含めていない。学校HPにも、そういう掲載をしている」
匿名メールに、学校は基本的に返信をして公開している。在校生やその保護者、受験生たちに向けた発信として。
最初のメールにも、俺の個人情報を除いて、学校としての方針を返信した。
メール主は回答に不満を抱いたようで、似たようなメールを続けた。しかも、また俺を名指ししたメールだ。
メールが三つになったところで、学校と俺の親は『事実無根な告発。嫌がらせ』と決めて、開示請求を実施した。
先生の心配げな眼差しに胸を撫で下ろす。
俺は悪事を働いたと疑われていない。むしろ守られている。そのことに、倒れそうなほど安心した。
剣道部の藤野颯は何月何日は何時から何時まで、ふしだら女の家に連れ込まれていた。そんな文言がある。
この内容は学期末テストの時期のこと。このメールが送られてきたのは、つい昨日だ。
誰かに見張られているなんて夢にも思わない。恐ろしさに襲われて声が出てこない。
誰がこんなことを——その時、天宮さんの顔が脳裏をよぎった。
「その顔……。やっぱり、ストーカーに気づいてなかったか。ご両親も息子に変な様子はないと言っていた」
「周りで変なことは特に……」
高松は大丈夫だろうか。メールを全部見て、高松の名前がないか確認していく。
どのメール文にも、高松という単語は見当たらない。
「親に話したくないことがあるかもしれないから、まず私だけが聞く場を設けた」
「話したくないことは……。いえ、まず先生と話したいです」
両親はどちらも過保護ではない。しかし、親が口を挟むと言えなくなることもあるかもしれない。
「こうして教えられたら心当たりがあるとか、実は困っているとか、ネットの動画は関係ありそうとか、何かあるか?」
最初は俺が不純異性交友をしているというメールなのに、日付が進むごとに内容が変化している。
高松のたの字もないけど、俺が不純異性交友しているのは女子生徒とか、その子は嫌われているみたいなことが書いてある。
俺とそれなりの交流がある人が読めば、『藤野颯が不純異性交友をしている女子生徒』が高松を示していることはすぐに分かる。
「あの人、こんなことまで!」
天宮さんならやりかねない。そんな思いが込み上げて、大きな声を出してしまった。
「メール主に心当たりがあるのか?」
「いえ。すみません。何の証拠もない思い込みです」
涼を見習って冷静であれ。そう強く念じても、ふつふつと怒りが湧き出てくる。
俺は天宮さんを傷つけたから、俺の悪口を言いふらすくらいのことは許す。
自分の正しさは、日頃の行いが証明してくれる。
現に、学校も両親も俺が悪いと決めつけず、調査したり様子を見てくれて「藤野颯は問題ない」という結論を出してくれた。
しかし、何も悪くない高松のことを悪く言うことは許さない。絶対に許さない。
「藤野。心当たりの人物がいて怒ったようだから、なぜなのか教えて欲しい」
「当たり前じゃないですか! こいつは高松をつけ回して大嘘をついたり、悪口を言ってるんですよ!」
抑えようと思ったのに、大声が喉から飛び出す。つい、立ち上がっていた。
「落ち着け藤野」
先生に両手で座れと示された。こんなの、冷静でなんていられない。
「こんなことを広めるなんて、早くこいつを捕まえて止めないと!」
「藤野、大丈夫だ。この電子質問箱に送られてきたメールはうちの学校の一部の教員しか閲覧できない。最初の一通以外には返信をしていないから非公開だ」
先生にもう一度座るように言われた。ゆっくりと息を吸い、ため息のように吐きながらソファに腰を下ろした。
「聖廉にうちの学校絡みの迷惑メールがないかも確認してあって、この件と結びつくようなものはない」
「高松を名指ししたメールもないですか?」
「藤野のご両親が高松さんのご両親にそれとなく聞いて何もない。彼女も藤野のストーカーに気づいていない。メール主は、ほとんどネットの中だけで行動しているようだ」
「これとか、ずっと家の近くで見張っていたってことですよね? ネットの中だけじゃありません!」
つい、語気が荒くなる。
知り合いの中で、俺に恨みがあって高松を嫌っている人間は天宮さんしかいない。
俺がほとんど入れない女子高の校舎内に、こんな陰湿なことをする人間がいる。高松にお門違いの悪意を向けている。そんなの最悪だ。
「それは先生たちもご両親も分かっているから落ち着きなさい」
「……取り乱してすみません」
学校と親は話をしていたと言ったけど、高松の危険を二ヶ月ほど放置されていたようなので酷く不満だ。
組織は順序に従わないとならない。しがらみもある。おそらく、そんなところだろう。
「藤野は高松さんと毎日、一緒に登下校しているから、彼女が元気なことを良く知っているな? 彼女は大丈夫だ」
だからなんだ。今は元気でも、明日も元気だなんて保証はない。
高松と天宮さんが同じ敷地内にいるなんて、傍観されていると、怒りは全くおさまらない。
天宮さんが俺だけを攻撃するのは構わない。反論したり、やめろと言うだけだ。
高松は自分の初恋のことは横に置いて、優しくされたことがあるという理由で天宮さんを応援した。
一方、天宮さんは高松を敵視している。
恩を仇で返すような真似——陰湿な嫌がらせをするなんて頭がおかしい。
「証拠無しの思い込みでいい。藤野はこのメールを誰の仕業だと思ったのか教えて欲しい。君が大切にしたい女の子のためになる」
「……聖廉二年の天宮っていう、例の動画に映っている子です」
「藤野たちが助けてあげた生徒さんか。なぜその天宮さんが犯人だと思った」
「動画の件でなぜか好かれたみたいで……。勝手に俺の連絡先を手に入れて、電話してきたことがあるんです」
「どんな電話だった?」
「出てません。勝手に連絡先を入手されて怖いからブロックするって宣言して、返事が来る前にブロックしました」
「それが天宮さんとの初めての接触か?」
「いえ。合同遠足の時に、前に助けてもらったお礼って話しかけられて……」
「それで?」
「手紙に書いてあった連絡先にLetl.をしなかったら、またお礼品と手紙を渡されて……。人伝てで渡されて、人伝てで返しました」
「他には何かあるか?」
「勝手に連絡先を知られて、Letl.が来たから無視して、その次がさっきの電話のことです」
「そうか。気持ちに応えられないから交流しなかった。勝手に連絡先を手に入れられて怖かったから、本人に『怖い』と伝えて拒否した。そうなんだな」
「そうですけど……。今のを踏まえて、彼女が犯人かどうか調べるってことですか?」
濡れ衣かもしれないけど、俺の中で天宮さんの好感度はゼロだからいいや。
学校が調べた結果、彼女が犯人なら高松と接触しないようにしてもらおう。
「ご両親と相談して開示請求をかけて、発信者が誰なのか分かったんだ」
そういえば最初の方にも先生はそんな単語を口にしていた。
開示請求——それは今日、親や涼と受けた講義で学んだばかりの知識だ。
「濡れ衣でした?」
「いいや。メールの送り主は藤野の予想と同じ人物だった」
予感的中なのに、俺は目を見開いて息を飲んだ。唇が微かに震える。
つい少し前の講義の『ネットは匿名ではない』とはまさにこのこと。
悪質な投稿には法的な抗議——開示請求をして裁判をできるとはこれだ。
あの講義は動画のプチバズや剣道部のテレビ出演のことがあるからではなく、この件のために行われた気がする。
「先生たちが調べた限り、藤野と天宮の接点は、痴漢逮捕時しかなかった。だから、なぜこんなメールに発展したのか謎だった。しかし、話を聞いて分かった」
先生は神妙な顔に険しさを滲ませた。
「恨みを買うような断り方をした俺が悪いってことですか?」
天宮さんと直接話すことは、悪口を言うようなものだと考えて、沈黙と拒否を選んだことが裏目に出た。
「いや、問題ない話だった。法的に問題無い拒絶に対して、法を侵すようなことをした。悪いのは彼女だ」
フラれた腹いせに相手の社会的地位を貶める行為をすることは、常識を逸脱している。先生はそう言い切った。
「もう一人、最近、天宮香織のグループと親しくしているオガサワラという、うちの生徒もメール主の一人だった」
誰だ……と口の中で呟く。
「その人は誰で……なんでですか?」
「調べた限りだと藤野と接点は無かった。その感じだと、君の知らない生徒なんだな」
「小笠原なんて人は知りません」
「彼は五組で野球部員だ。天宮香織の兄もうちの野球部で、二人はリトルからの先輩後輩だから彼女とも親しい」
海鳴にも高松の敵がいると分かり、俺の怒りは倍増した。体の震えが止まらない。
「ご両親に聞かれたくない話はないか? なければここに呼ぶ」
「聞かれたくない話というか、絶対に許さない……いえ」
許したくないけど、高松の性格だと「自分のせいだ」と傷つく。
俺が嫌がらせされたことも、天宮さんが悪事に走ったことも、彼女は自分に責任があると背負ってしまう。
「何かあるんだな。先生には話せるか?」
額に手を当てて視線を落とす。
「高松に……絶対に知られたくないです。自分のせいだって傷つくから。親がなんて言っても穏便に済ませたいです」
父はひょうひょうとしていて朗らかだけど、弁護士として色々な人間を見てきたからか罪には罰だと厳しい。
清田に圧をかけるために証拠をすぐに揃えて書類を用意したことと、ストーカー疑惑の人物を開示請求したことは同じだ。
清田の時は、高松の親が「娘のために」と強く言って穏便に済ませた。父は「相手をつけ上がらせる」と強めに反対していた。
今回は高松の親よりも父の方が立場が強い。
父を止めたいけど、父が強く出る理由は息子のためだから、その気持ちは無視したくない。
高松のために、涼のように冷静であれと自分に言い聞かせたら、こういう気持ちをきちんと先生に伝えられた。
「そうか。藤野の一番大切なことが何か分かったから、それを守るためにみんなで考えよう」
二人での話は終わり、両親とスクールカウンセラーも増えた。
先生は俺に説明させず、俺から聞いた話を伝えた。
俺の希望は「高松小百合の心身の安全」で、父親の正義感や息子を想う気持ちは嬉しいけれど、表沙汰にしたくない。そんな風に父にも寄り添った説明をしてくれた。
話し合いが終わる——まさにその時、剣道部の顧問が訪ねてきた。
「木村先生、この後、別の生徒のこともいいですか?」
顧問は渋い顔をしている。
「構わないですよ。藤野のことは、今日のところは終わりですので」
顧問は両親に会釈をして、俺に「大丈夫だからな」と笑いかけた。情報共有されているようだ。
顧問と生活指導の先生がヒソヒソと話す。二人はやがて俺に視線を移した。
「藤野。田中が動画の件でかなり心配しているそうだ。彼と話してあげて欲しい。先生たちも付き添うから」
「あっ、はい」
一朗は俺の心配をしてくれていたけど、先生を巻き込むほどではなかった。実は、自分のせいだと気に病んでいるのだろうか。
両親はスクールカウンセラーと共に退室した。三人で面談しそうな気配を感じる。
入れ替わるように、顧問が一朗を連れてきた。
一朗はどこからどう見ても不機嫌で息も荒い。両手の拳を握ってわなわな震えている。
顧問が木村先生に事情を説明していく。
海鳴剣道部は悪い噂を流されているか、誤解で変な噂を立てられている可能性がある。
「先生! なんで言わないんですか! デマを流している聖廉生は、俺の彼女を階段から突き落とそうとしたんです!」
それは、あまりにも衝撃的な言葉だった。




