転落
私たちに話しかけた天宮さんは、見知らぬ海鳴生と一緒にいた。
天宮さんは両手を胸の前で握りしめて、見るからに辛そうな顔をしている。
海鳴生は短髪でかなり日焼けしているから、外で活動する運動部だろう。刺すような目で一朗君を見つめている。
「……こんにちは。天宮さん」
どう見ても二人は友好的ではなく、心臓がぎゅっと締めつけられ、小さな掠れ声が出た。
「こんにちは。相澤さんたちと、少し外で話したいです」
「君はいいけど、そっちのやつは何?」
天宮さんは困ったように、隣にいる海鳴生を見上げた。
一朗君は立ち上がって私を隠すように動いた。
彼は自分のせいで痴漢被害者の天宮さんが世間に晒されたと心配して、親を通して聖廉に確認していた。
いくら顔が見えない状態でも晒されるのは嫌だろう。あの日——事件を思い出すのは辛いかもしれない。そんな風に心配していた。
返事は「問題無い」だったと聞いたけど、今の彼女の表情はそうではないから、大丈夫というのは天宮さんの強がりや我慢なのだろうか。
「それをこれから話すから、俺たちと外に出て欲しい」
「知ってそうだけど俺は二組の田中。君は? 天宮さんの彼氏?」
「五組のオガサワラ。彼女は俺の先輩の妹さん」
「ふーん」
不穏な空気が張り詰める中、貴重品だけ持ってオガサワラ君たちと受験室の外へ出た。
建物から少し離れた校門近くへ誘導される。雲一つない夏空は、じりじりと肌を焼くように眩しい。
日焼けで火傷のようになるから木陰に入れてホッとした。
「話って何?」
一朗君は初対面のオガサワラ君になぜか喧嘩腰だ。
私が話を聞かずに嫌なことを言った時の何倍も威圧感が強い。
まだ何の話か分からないのに、とても怒っているように見える。
応酬するかのように、オガサワラ君も一朗君を強く睨んだ。
「彼女がすごく困っているから、変な噂を流すのはやめて欲しい」
「どんな噂か知らないし、身に覚えもない。そういうことは親と学校に相談しろ。直接言うな」
低い、威嚇するような一朗君の声に、オガサワラ君がたじろぐ。
「……剣道部は最近、素行が悪いらしいから海鳴生として気をつけてくれ」
「俺らはここ最近、ヒーローだって人気者だ。何がどう素行不良なんだよ。証拠があるならそれも俺に言わずに学校に言え」
一朗君はずっと敵意を露わにしている。
「でも……」
オガサワラ君は狼狽しながらチラッと天宮さんを見た。
その天宮さんは両手で顔を覆って鼻をすすった。肩も震えている。
けれども、泣いているとは思えない。
幼い頃に律が私を困らせた、あの嘘泣き特有のわざとらしさを感じる。
「その子、剣道部絡みの誤解で困っているみたいだから、親から学校に相談しておく。じゃあな。この件では二度と話しかけてくるな」
一朗君は「行こう」と私の背中を軽く押して校門の外に出た。
天宮さんたちから見えない位置まで移動すると「なんだあれ」と吐き捨てた。
「俺さ、ああいう意地悪な目をした女子は嫌いだ。前に琴音ちゃんや颯に嫌なことをしたし。受験室を出る前にニヤって笑ったから、何か企んでる」
「えっ? 天宮さん、そんな風に笑ったんだ」
一朗君は天宮さんを助けたことがあるのに、変な呼び出しだった。
オガサワラ君の態度も好意的ではなかったから、今の発言はしっくりくる。
彼が二人を威嚇するような態度だったのは、受験室を出る前に違和感を感じたからだったようだ。
「動画の件は悪いと思ってるから、その話なら真剣に聞こうと思ったけど、違そうだった」
「私も違う件だと感じた。動画のプチバズは投稿した人のせいで、一朗君たちのせいじゃないよ」
「ありがとう。中学の時に威生にあんな奴らがたまに絡んできてたんだ。男子を味方につけた女子が逆恨みっていうか、なんていうか」
ため息を吐くと、一朗君は肩をすくめた。
「決めつけだけど、俺はあの子の話は信じない。変な噂が何か気になるから、先生に言って調べてもらおう」
「私もそれがいいと思う。何も悪いことをしてなければ自然と証明されるよ。天宮さんは……私もね、苦手なの」
「大噴火して俺には『大嫌い』って言ったのに、この辛そうな顔で『苦手』としか言わないって、言葉選びに気をつけてるんだな」
ツンツンと眉間を指でつつかれた。
「大嫌いって言ってごめんね」
「ごめん。蒸し返したかったんじゃなくて、我慢すると疲れるよって言いたかっただけ」
私が彼につけた心の傷がまだ癒えていなかったら良くなりますように。彼の耳に顔を寄せて「ありがとう。大好きだよ」と囁く。
「……俺も。あー、早くデート日にならないかな」
「イタリアン、楽しみだね」
「ピザもだけど、俺は琴音ちゃんも食べる」
おどけ顔で、手で鼻をパクパク食べられた。
「あはは、サメに食べられちゃう」
手を同じ形にして応戦。ふざけ合っていたら、人が通ったので、お互い我に返った。
天宮さんのことは気になるから、先生に報告すると決めて、受験室でまた仲良く過ごすことに。
天宮さんとオガサワラ君も受験室にいた。見た感じ、グループ学習をしている。
私は気まずいと感じたけど、一朗君は素知らぬ顔だ。席に着くと一朗君に耳打ちされた。
「うちの野球部と吹部って、海鳴だとあるあるって話なんだけど聖廉でもそう言われてる?」
「うん。試合応援とかで絡むから」
「天宮さんって颯にちょっと粘着してただろう? でも今は野球部とああやってつるんでいるから心変わりしたのかな」
「そうだと思う」
私のこの予想には、『そうだといい』という願望も含まれている。天宮さんからまたLetl.がきたり、呼び出されたら嫌だから。
一朗君は「違うかもしれないけど」と言いながら藤野君にLetl.をした。
藤野君の気まずい相手——天宮さんがいるから、このまま部室で勉強しているといいとアドバイス。
藤野君は今日、一ノ瀬君と二人で剣道部の部室で勉強している。
二人とも、動画の件で先生と親と面談があるから受験室には来なかった。
部活を始められる時間になり、みんなで受験室の階段を降りていたら、ドンッと人がぶつかってきた。
よろめいて、階段から落ちる恐怖に襲われる。
体がぐらついて激しく揺れた視界の中、天宮さんの姿が見えた。
とっさに手すりを掴んだけど、支えきれなくて滑る。
『あら、相澤先生のお嬢さん。ごめんなさいね』
なんで今、昔の記憶が——「ごめんなさい!」と天宮さんの叫び声が響いて幻聴と重なる。
階段にぶつかり、体のあちこちに痛みが走った。
みんなに心配される中、「ごめんなさい、ごめんなさい」という大きめで泣きそうな声が耳に届く。
腰あたりと背中、それに左手が痛くてならない。
「本当にすみませんでした」
天宮さんはぺこぺこ謝りながら外へ出て行った。
彼女と同じグループの人たちも、「大丈夫かな」と言いながら去っていく。
去り際、天宮さんが両手で隠している唇の口角が鋭く上がったのが見えた。何かが背中を這うような恐ろしさにゾッとする。
自然と体が震えて涙が目からこぼれた。忘れたはずの昔の嫌な記憶が次々と蘇って、耳を塞ぎたくなる。
すると、ふわっと体が持ち上がった。
「大丈夫だと思うけど、誰か先生に見てもらおう」
泥沼に引き込まれかけていたのに、一朗君に抱き上げられたおかげで心まですくい上げられた。
抱っこされた驚愕と羞恥で思い出した過去が全部、吹き飛ばされる。
「運動部の先生なら判断できそうなので、誰か呼んできます!」
小百合の叫び声がして、真由香の「私も」という声が続く。
一朗君は「人が多いと嫌だろうから」と言い、受験室の外へそのまま抱っこで運んでくれた。
「逞しい」とか「重くないかな」という感想が頭の中をぐるぐる回る。お互い半袖だから、触れる肌も薄いシャツ越しの体温も熱くてならない。
一朗君は私だけに小さく囁いた。
「あの子、さっきのはわざとだ」
一朗君の腕に力が入る。
「……あの」
わざとぶつかられたなんて、きっと気のせい。だからそんなことは言ってはいけない。
けれども、理性で疑念を払拭できないほど、あの目や唇は敵意で満ちていた。
彼に話をできる、聞いてもらえるという安堵でますます涙が出てきた。
「俺がついてるから大丈夫。絶対、大丈夫だから」
優しくも力強い発言に、何かがストンッと音を立てた。夏の晴れ渡った空に、なぜかキラリと星のような光が横切る。
この後のことは少し記憶が曖昧だ。




