星が流れる
あの喧嘩で琴音ちゃんが見せた怒りは、まるで「こんなに好きなのに」と叫ぶような感情だった。
誤解が解けたあとは、その想いに気づいて強い喜びに包まれた——だからこそ、思い切って気持ちを伝えたのに、返ってきたのは素っ気なさだった。
どうやら、俺の言葉は気持ち悪かったらしい。思い返すだけで、胃の奥がキュッと痛む。
ぐるぐる考えていたら、つい口をついて出た言葉なので後悔している。しかし、過去には戻れないのでどうにか挽回するしかない。
明日、彼女はコンクールに出場するので、気の利いたことを言おうと考えていたら駅に着いた。
歩く時の距離は、喧嘩直前はかなり近かったのに、今夜も付き合い始めた頃のように離れている。
彼女は俺の発言に引いたが、別れるほどでもない。
嬉しい反面、近づいていた心が遠のいたのは悲しい。
何かいいことを言うぞと、駅へ続く階段を登る前に深呼吸をして、足を止めた。
「あのさ」
勇気を出して今夜はもう少し時間が欲しい。そう言おうとしたら、ポロシャツの裾をつままれた。喉から出かけていた言葉が行方不明になる。
この行為は喧嘩の後、初めてなので、安堵で胸が締めつけられた。
「あっ、遮ってごめんね。何ですか?」
申し訳なさそうに見上げられたので首を横に振る。
「いや、琴音ちゃんこそ何?」
「一朗君からどうぞ」
隣から正面に移動した彼女に微笑みかけられた。
「いやあの。明日は頑張って。緊張してない? どこかで息抜きでもしていく?」
感謝の言葉と笑顔を予想したのに、彼女は困ったように眉尻を下げた。微笑んでいるのに、どこか影がある。
「……実はね、少し怖いんです」
ぽつりと言うと、琴音ちゃんはうつむいた。
「そう……なんだ。どうして?」
俺の制服をつまんだのは、「話を聞いて」という意味だったようだ。
「我儘……言ってもいいなら、まだ帰らないでもいいですか? 少しだけ……」
遠慮がちな、とても小さな声に胸が痛くなる。俺はまた、無意識に彼女を傷つけたのだろうか。
「もちろん。それは我儘じゃないからいつでも」
それでもなお、彼女の顔は明るくならず、むしろさらに悲しげになった。
「……ありがとう。それなら、あそこでどうですか? その前に何かごちそうしますね。話を聞いてもらうお礼に」
この表情は俺に対してではなくて、どうやら明日のコンクールが不安でならないようだ。
『あそこ』と示されたのはベンチで、彼女はコンビニへ向かって歩き出した。
「いつでも話は聞くし、それは当たり前のことだからお礼なんて要らないよ。あのさ、むしろ俺が『元気出して』って何か奢る」
隣に並んで、自分に『笑顔』と言い聞かせて彼女の顔を覗き込む。ホッとしたように笑ってくれた。まだ悲しげだけど、さっきよりはいい。
「じゃあ、甘えてアイス。半分こしよう」
彼女が口角を上げた。その笑みを見ただけで、胸の奥がふわりと温かくなる。
「そうしようか」
コンビニに入ってアイス売り場へ行き、どの商品にするか二人で選んだ。
半分こと言われたけど、二つ買えない程の甲斐性無しではない。でも「これなら分けられるね」と笑顔で言われたから「二つ買う、それで奢る」と宣言できなかった。
アイスが嬉しいのか、笑顔を取り戻した彼女の様子に胸が温まる。
ベンチに座ってアイスの入った箱を開けて、「どうぞ」と差し出した。
「ありがとう」
彼女が小さい串を手に取り、四角いアイスに突き刺す。眺めていたら「はい、どうぞ」と笑いかけられた。
素っ気ないは勘違いで、コンクールのことで頭がいっぱいだったようだ。「はい、あーん」なんて可愛すぎる。感激——と口を開いてアイスにパクついた。
「えっ?」
驚いた琴音ちゃんが身を引き、アイスから串が抜けた。
「ん?」
食べ終わらないと上手く喋れないので口を動かしながら、ドン引きしたような彼女を戦々恐々とした気持ちで見つめる。どうやら俺は解釈を間違えた。
ごめんと謝るのは滑稽というか、傷ついたのに更に謝るなんてもっとだから、言葉が出てこない。
「男の子同士でもそういうことをするの? すごく自然というか、当たり前みたいな感じだったけど」
俺の行動に引いたのではなく、『男子同士でいちゃつくことがあるようでそれは嫌』——ということのようだ。
「まさか。男なんかにこんなことしたくない」
「じゃあ、妹ちゃん?」
「いや。あの、彼女限定。『よっしゃー』って張り切ったからさっきの感じ。違ったみたいで……」
ごめんと謝って「平気」と言われたら凹むので言えなかった。中途半端に言葉を切る。
「今のは違ったんだけど、そう見えたんだね……。じゃあ、今度はちゃんとどうぞ」
彼女は照れくさそうに、串に刺したアイスを差し出した。全然素っ気なくないし、避けられていない。俺の彼女はちゃんと俺のことを好きだ。死ぬほど嬉しい。
「ん。ありがとう」
アイスを口にして、恥ずかしくてそっぽを向いたら、衝撃的なことに松谷先輩と目が合った。
俺を睨みながら近寄ってきた先輩は無言でしゃがんでメンチを切ってきた。
「えっ? 何?」
いきなりガタイのいい男子が近寄ってきて、俺たちの足元でしゃがんだ。琴音ちゃんが明らかに怯える。
初めて腕を両手で掴まれてくっつかれて嬉しいのに、状況が状況で喜びきれない。
「どうもこんばんは〜。剣道部三年の松谷でーす。たなかぁ〜。夜遅くになーにをしてるんだ?」
立ち上がった松谷先輩に襟首を掴まれて立たされ、引きずるように連れていかれた。先輩たちがいて、愉快そうに笑っている。
「や、山本先輩。笑ってないで助けて下さ——」
松谷先輩の太い腕が肩に回り、視界がぐらりと揺れた。やばい、完全に捕まった。
「おい、田中。あれはお前の彼女か?」
「……そうです」
同級生なら「苦しいから離せゴリラ!」と叫ぶのに。助けてくれそうな山本先輩に目で訴える。
「勇吾。可愛い後輩の邪魔をするな。モテないからって僻むのはやめろ」
さすが山本先輩だと心の中で拍手を送った。
「ふざけんな。俺はモテるだろう」
見た目詐欺ですぐ逃げられる、モテそうでモテてないゴリラだと、先輩たちが松谷先輩の地雷を踏んで遊び始めた。
「あっ。マヤマさん! こんばんはマヤマさん! あっ、ユサさんも!」
俺を腕で羽交い締めにしながら松谷先輩が叫ぶ。見たことのある聖廉生が「松谷君、こんばんは」と笑顔で返事をした。続けて、他の女子も挨拶と品の良い会釈をする。
スクールバスから降りて、友人たちと駅へ向かっていたという生徒たちだ。
「部活の後なのに、そんな風に遊べるなんて元気ですね」
マヤマと呼ばれた女子の笑顔に、松谷先輩の顔がデレる。
「運動部だから体力には自信があるんすよ。最近、変質者が出たらしいんで、ここから駅までだって危ないから、女子の皆さんを送ります」
「ありがとうございます。変質者だなんて、早く捕まって欲しいです」
女子に弱い松谷先輩の手が緩んだので、この隙に脱出。誰だか知らないけど、ありがとう聖廉生。
そうっと琴音ちゃんのところへ戻ろうとしたら、彼女は俺の横を通り過ぎた。
「ユサ先輩、マヤマ先輩、お疲れ様です」
今の発言からして、松谷先輩が話しかけた聖廉生は箏曲部のようだ。
「あれっ。相澤さん、まだいたんですか? しかも一人? 危ないですよ」
彼女の後を追いかけて戻ったら、彼女がユサという先輩に「こらっ」というように怒られたところだった。
「いえ。あの、少し息抜きでその、彼と話していただけです」
琴音ちゃんの先輩二人の視線が松谷先輩に集まる。
「えっ? 俺? 俺と話したくて田中に相談してたの?」
勘違いして照れてるんじゃねぇーよ、このゴリラと心の中で毒づく。人の彼女をジロジロ見て、胸のところで視線を止めるな。すぐに目線を移動させたけど俺は見ていたぞ。鼻の下を伸ばすな!
「直接、俺に話しかけてくれていいのに」
イケメンゴリラの爽やか笑顔に対して、琴音ちゃんは後退りして俺に近寄った。
「初めまして、田中君がお世話になっています。箏曲部二年、相澤と申します」
「すみません、うちの部長はちょっと頭が女子に弱くて。むさ苦しい男子校生活のせいで、彼は悪くないんです」
山本先輩の腕で、松谷先輩は女子たちから遠ざけられた。
「どう見ても田中の彼女だろう。なんでお前と話したがるんだ」
河田先輩が松谷先輩に突っ込みながら、カバンで軽く殴る。いいぞ、もっとやれ。
「彼女ちゃん、困らせてごめんね」
山本先輩が手を合わせると、琴音ちゃんの先輩二人が俺を見て「噂の彼氏君!」と叫んだ。
「可愛い凛々しい系って聞いてたけどそうかも〜」
「剣道部で一番強いようには見えない〜」
女子——しかも先輩二人が距離を詰めてきたので戸惑う。彼女が俺に『可愛い』という評価をつけていたことにも。
「……海鳴高校二年、剣道部の田中一朗です! いつも相澤さんがお世話になっています」
礼儀正しくを心掛けて挨拶をしたら「噂の真面目君ってこれなんですね」と笑われた。
「噂なんてしていませんからね。同期が勝手に少し話しただけなんです。行きましょう、田中君。数学のことでしたよね」
慌てた様子の琴音ちゃんが俺を手招きして、しれっと嘘をつき、小走りでベンチへ戻っていく。
「俺、勉強はイマイチで。失礼します」
逃げるように琴音ちゃんに近寄り、二人分のカバンを持って「向こう」だと指で示す。
背中に琴音ちゃんの先輩の、「遅くならないようにね」という声がぶつかったので振り返って会釈を返した。
不機嫌そうな松谷先輩と目が合ったので、慌てて顔を背ける。明日はきっと、松谷先輩に吊し上げられるだろう。
琴音ちゃんの胸の大きさを確認なんてしたから、練習試合で返り討ちにしてやる。
☆
思い切って一朗君に胸の内を打ち明けようとしたのに、とんだ邪魔が入った。
彼に「こっち」と言われて着いていき、二人で逃げた先は広場だった。初めて来たし、こんな場所があることも知らなかった。
「松谷先輩に会うなんてビビった。そういえば、三年はまだ残ってた」
「駅前だとああいうこともあるんですね」
あっちと言われてベンチに座ると、まだ溶けてなかったからどうぞとアイスを勧められた。
早く歩いて息が上がっていて、すぐには食べられなさそう。理由を告げて「お先にどうぞ」と、渡された箱を返そうとした。
「邪魔されたから、もう一回」
おねだりされて、ドキドキしながらアイスに串を刺して彼の口に運ぶ。
強敵朝日ちゃんは存在しなかったと判明して、一朗君の気持ちの大きさも実感したので、あれからときめきがすごい。
彼のことを自粛しないと色々サボると思った時以上になっている。
無邪気な顔でアイスを頬張った彼を、「可愛い」と眺めて目が合い、慌てて下を向いた。
「話したいことがあったんだけど、どうでも良くなりました」
胸がいっぱいで食べたいという欲求はないけど、溶けてしまうので、アイスを口に運ぶ。
「さっきのは驚いたもんな。でも、それで『やめよう』は良くないんじゃない? 溜め込むタイプだから気をつけてって志津さんが言ってたよ」
とても優しい目と笑顔で胸がキュンっとして、明日の不安について、もっと話せなくなった。
「だって、もうそんな気分じゃなくて」
「前はどんな気分で、今はどんな気分なの? ゆっくりでいいから教えてよ」
柔らかな眼差しがくすぐったくて嬉しい。だから、勇気を出して言葉にしてみた。
予感があるから、明日のコンクールで私の人生は多分、音楽の世界へ転がり始める。
音楽の神様が、一朗君を使って私と真由香の時計の針を動かしたように。
「今ね、真由ちゃんのお父さんは密着取材を受けているんです。それでね、真一さんの指揮者人生にはお父さんがくっついているからお父さんにも」
「そうなんだ」
「その関係で、普段は来ないような人たちも会場に来るはずです」
私と真由香は計画は取りやめたけど、さり気なく誘導して動かしてしまった人たちのことは止められない。
「それで……緊張するし怖い?」
「……私はきっと、世間に見つかるんです。真一さんもきっと黙ってない。あの人、欲しがりで我儘ですから」
「佐島さんのお父さんってそうなの? 明日の琴音ちゃんの演奏を聞いて、なにか言いそうってこと?」
「多分、何か言うと思う……。話さなくていい気分から、また話したくなってきました。ありがとう」
この人はきっと、頓珍漢な話はしない。そう信じて、彼の制服の袖をつまんで少し引っ張った。
「どういたしまして。話したいならどうぞ」
何から話していいのか分からなくて、質問をしてみた。剣道という、人より秀でているものがあり、辛いことはなかったかと。
「例えば、嫌なことを言われたり……」
「人ってさ、同じAっていう物を見ても、感想は色々だからまぁ。性格診断も二種類や三種類じゃないだろう? さらにそいつらは、気分で意見を変えるんだ」
彼は続けた。気にしないことは難しいけど、気にしないようにしていると。
「他人の感情には付き合ってられないから流してる。自分の壁をこっちのせいにするなって」
「そうだよね。自分のことなのに、自分自身の課題なのに、人のせいにするのは違うよね?」
思わず、大きな声が出てしまった。
「おっ。なんか良さげ。琴音ちゃんの性格だと、そういうことを言うと自分も傷つくんだろうけど、吐き出した方がいいよ」
「……そう思ってくれるの?」
「琴音ちゃんだと言われそう。そんな言い方をしないであげてみたいなこと。お兄ちゃんなんだからと同じ感じで」
「そういうことも言われたし、上手くなりたいって言うから教えたら怒られた。調子に乗るなとか、天才だからいいよねとか言って、私の努力を想像すらしないの」
「面倒だよな〜。上手くなるための正論や客観的意見が欲しいんじゃなくて、『頑張っているはずの自分』を肯定して安心させて欲しいとか、頑張ってるって褒められたいだけの奴が多過ぎる」
やはり、彼と私にはこうして通じ合えるところがある。別のことで好きになったのにこれだから、運がいいというか、奇跡みたいだと感じる。
「そのくせ、頑張っている人を腐すよね。才能がなくても努力できる、一生懸命な人をバカにするの」
「かなりの怒り顔。友達をバカにされたことがあるの?」
つんっと眉間を指でつつかれて我に返る。
「あっ、ごめん。つい、勢いで喋っちゃって」
「話してって言ったのは俺だから、たくさん喋っていいんだよ」
「ありがとう。話せて楽になってきた」
もういいと思ったのに、私の中の怪獣はまだ消えていないようだ。
「こういうことって、自分で乗り越えるしかないし、正解も不正解もないと思うけど……。元気が出るとか、気力が出る手伝いはできるかなぁと」
不意に、頭をぽんぽんと撫でられた。
「何かして欲しいことはある?」
「もうしてくれた……」
そっと肩を抱かれた瞬間、世界の音がすべて止まった。
真剣な眼差しには夏空が映っていて、昼間の太陽みたいにジリジリした熱が宿っている。
星がきらきら、降ってきた気がした——。




