それぞれの想い
いつもと変わらない一日を過ごすはずだったのに——。
相澤恭二は着替えながら、心の中で項垂れた。
疲れて帰宅したら、娘が男と手を繋いで歩いていた。ノックアウト寸前なのに、今からその男に挨拶だなんて。
心の準備もないまま、こんな日を迎えることになるとは。娘に彼氏がいることすら寝耳に水なのに、妻も母も彼の存在を知っていて、しかも歓迎ムードだ。
背中が自然と丸まる。そこへ妻が部屋に顔を出し、朗らかな笑顔で背中をバシンッと叩いた。
「恭二さん、しっかりしなさい」
「なんなんだこれは。いきなり、なんで!」
「だから言ったでしょう。あなたが勝手に早く帰ってきたからよ」
この台詞は今日、二度目だ。
「可愛さの種類が変わったんだから、彼氏ができたことくらい分かっていたでしょう?」
咎めるような表情で顔を覗き込まれる。
「分からなかった」と正直に答えたら、呆れられた。もっと子供を見なさい、と。
「演奏が……急に変わったのは分かっていた。演奏が変わったというより、隠すのをやめた、というか」
特別顧問として部活に顔を出した際、娘の演奏の変化に驚かされた。
「親友に誘われたからコンクールに出る」と聞いたときの、あの影のある表情が気になり、しばらく注意して見ていたが——特に変なところはなかった。
それなのに、娘には男の子との交際という、大きな変化が起きていた。
「隠すのを? そうなの?」
「あの子はほら、『いい子』の殻に閉じこもるから、下手につつけなくて。『たくさん練習したの』なんて、また嘘をついたし」
定期的に指導している立場から見ても、あの急な上達が『ここ最近の練習量』で説明できるはずがない。
しかし、自然な声と表情でつく嘘は、いつものように娘の心を覆い隠してしまう。
下手に触れれば閉じこもる——それも頑なに。
普段は妻に似ているのに、そういうところは自分に似てしまった。
「なんだか最近、麗華ちゃんや美由ちゃんより、真由ちゃん、真由ちゃんって感じなのよね。あれって関係あるのかしら」
「そんなに真由香ちゃんなのか?」
聖廉箏曲部の顧問・石塚からの報告が脳裏をよぎる。
真由香は『自分の編曲だ』ということを秘密にしていたはずなのに、娘とともに部員たちへ思いの丈をぶつけたらしい。
それもきっと、娘の変化と関係があるのだろう。
ただ、真由香こそ慎重に対応すべき子なので、彼女の両親にも連絡を取り、様子をうかがっている。——が、まだ何も分かっていない。
「そうなの。麗華ちゃんや美由ちゃんの話も出るから、喧嘩したわけではなさそう」
妻は「知らないうちに子供は成長していくものね」と、嬉しそうに微笑んだ。
「待たせたら可哀想よ。一朗君だって突然の挨拶なんだから、緊張し過ぎて倒れちゃうかも」
「……ああ」
「もう一度言っておくけど、彼氏を理由なくいじめたら、琴音に嫌われるからね」
「……理由があればいいのか?」
「あのねぇ。味方のふりをしていたほうが、琴音も一朗君も何でも話してくれるでしょう? 誘導もしやすいし」
「誘導? なにを?」
「真面目な二人へのご褒美に、夢の国や観劇チケットをあげたり。そういう『健全デート』をしていれば、間違いも起きにくいでしょう?」
「……ま、間違い?」
自然に頬が引きつる。
「お義母さんが交際初日に、琴音に釘を刺してくれたけど心配。海鳴生だから学校はきちんと教えているはずだけど、向こうの家の方針は分からないでしょう?」
「……家に呼ぶな」
「バカねぇ、逆よ逆。『どうぞ』って呼んで、軽く見張るの。琴音は今、私やお義母さんを味方だと思っているから、話してくれるのよ」
初めて彼氏の家にお邪魔した日は、両親に挨拶をして、彼の部屋を少し見学したらしい。
既に彼氏の家に行っているのか……と眩暈がした。
部屋の見学は、彼の両親が「息子が片付けをするようになるから」と勧めたそうだ。
よそ様の大事なお嬢様扱いをされ、二人きりの時間は、ほとんど許されなかったという。
「ほとんどってなんだ。ほとんどって」
「五分したら様子を見に来たって。息子さんとそういう約束をしているご両親みたい」
「そういう家なのか、向こうは」
「一朗君も、ご両親も今のところ好印象。娘との関係が悪くなると又聞きできなくなるから、気をつけましょうね。あなたもよろしく」
妻にもう一度背中をパシンと叩かれ、「行きますよ」と促される。
——娘に彼氏なんて、正直嫌だ。心配で仕方ない。別れてほしい気持ちしかないが、『別れろ』なんて言えるはずもない。
ああ、胃が痛い……。
★
彼女の両親が入室して、朝子さんは俺の隣の一人掛けソファに腰を下ろした。
まだ立っている恭二さんが目を見開いて、朝子さんを見下ろす。
「ぼーっとしてないで座ってちょうだい。一朗君を紹介するから」
「うむ……」
不満げな様子の恭二さんは、二人掛けソファの端——妻の前にゆっくりと着席した。
二度目の自己紹介をする、礼儀正しくと意気込んでいたけど、朝子さんが俺のことを紹介してくれた。
海鳴高校二年の剣道部員で、娘が通学路で勇気を出して声をかけた——そんな経緯まで語られた。
恭二さんは真剣な眼差しで妻を見つめて、何も言わないし頷くことすらしない。
「琴音も優しいから、一朗君も似た理由で気にかけていたんですって」
夫は何の反応も示さないのに、朝子さんは続ける。
俺は外部生で、スポーツ推薦で海鳴に入った。海鳴を選んだ理由は、部活だけではなく、勉学にも励める環境が整っているから。
彼女はさらにスマホを出した。画面には、俺と威生の二人が昔、警察から感謝状を送られたネットニュースが表示されている。
剣道のことでパブサされて何か言われることには慣れているけど、このような検索はされたことがない。多分、だけど。
「心配だから、付き合ってすぐ家に呼んだんだけど、好青年で安心しちゃった。だから今日も、我が家で勉強会を許可しました」
朝子さんはずっとニコニコしている。褒められて、味方されて嬉しくてならない。それに、自分で喋らなくて済んで安堵している。
恭二さんが俺を見た。緊張するから見られないまま終わりたかった。玄関で会った時と同じく、拒否や拒絶を感じる目をしている。
娘の彼氏——しかも根回しなしで会うことになった男なんて嫌だろう。
何もしていないのに……と不満を感じるけど、父と話をしたし、この目は『娘は宝物』という意味だから、イライラはしない。
「そうか、おほん。驚きでご挨拶が遅れました。琴音の父親の恭二です」
「お仕事、お疲れ様でした。お邪魔しています」
会釈をされたので、こちらも頭を下げた。
うつむき続けたり、視線を彷徨わせるのは失礼だろう。これは推薦入試の時の面接と同じだと、自分に言い聞かせる。
何か言われると思って黙っていたら、誰も何も言わないので、沈黙が横たわった。非常に気まずい。
「質問がないなら終わり」
重たい空気を消すように、朝子さんがパンッと軽く手を叩いた。
「インハイ予選で優勝したお祝い……は明日だから、今夜は前祝いね。私たちも焼肉店へ行きましょう」
ここでようやく、恭二さんが「待った」と声を出した。
「朝子さん。『明日だから』ってなんだ」
「明日も琴音は一朗君と勉強するから、お昼をご馳走するのよ」
「そんな話、聞いてないんだが」
どう見ても不服そうな顔や声だ。
「そうね。言ったじゃない。あなたと一朗君との挨拶は、年末か年始にしようと思っていたって」
「インハイ予選で優勝したって、そうなのか?」
恭二さんは俺ではなく、朝子さんを見つめ続けている。
「そうよ」
「それは……頑張っているんだな」
恭二さんはチラッと俺を見て、朝子さんに視線を戻した。今の言い方や態度だと、褒められた気はしない。妻にちょっとした感想を告げたという感じだ。
「琴音も練習が佳境で帰宅が遅いでしょう? 駅まで送ってくれるから、とっても安心。去年は最終のスクールバスに乗り遅れることもあって心配だったけど」
去年の今頃、琴音ちゃんの姿がなかった夜、『今日はいない』と思った日は、そういう日だったのかもしれない。
「……そうなのか」
「一朗君の剣道部のお友達が箏曲部二年を全員、駅まで送ってくれてるの。定期的に変質者の目撃連絡が入るから心配だったけど、最近は安心」
「それは……ありがとうございます」
恭二さんが俺を見たのはこれで何回目だっただろうか。軽く頭を下げられたので会釈を返す。
俺と恭二さんは、朝子さんに促されて立ち上がった。「一朗君と焼肉〜、琴音が喜ぶ〜」と朝子さんは上機嫌。
どうしよう……と悩みながら、勇気を出して「あの!」と声を掛けた。
「どうしたの?」
朝子さんに問われ、恭二さんは無言で俺を見据えた。
気に入らない、品定めしてやるというような視線が続いているので、いくら朝子さんが気遣ってくれていても、気力は消耗している。
「父に……お父さんと会ったら伝えなさいと言われていることがあります」
恭二さんと俺は背は同じくらいなのに、見下ろされているような感覚に陥る。
「なんでしょうか」
「あの……」
☆
私たちが焼肉店で食事を始めてしばらくすると、一朗君たちが合流した。
彼と席が遠いし、喧嘩した律や両親に囲まれて心配していたけど、取り越し苦労だった。
母と律は楽しそうに彼とお喋りしている。父だけは、相変わらず機嫌が悪そう。
真由香に「一緒にきたから、田中君の挨拶は一応、成功なのかな?」と耳打ちされた。
「お父さん、嫌なことを言わなかったかな」
「後で要確認だね」
食事が終わり、電車で帰ると送迎を固辞した一朗君を自宅の最寄駅でお見送り。
二人で話したいのもあり、改札まで送ろうとしたら「近くても夜は危ないから」と言われて、そのままお別れ。
電車に乗ったと連絡が来て、「お父さん登場は緊張した」と続く。
父は失礼ではなかったか。そう問いかけたら、意外な返事がきた。
一朗君【娘は宝物だって分かる言動は失礼にはならないよ】
一朗君【いつか娘をよろしくお願いしますって言われるように頑張る】
覗き見していた真由香に、ニヤニヤされて腕を指でつつかれた。
「恭二さん、娘を大事にとか、節度のある付き合いをとか、釘刺ししたんだろうね」
真由香は母に聞かれないように、小声で告げた。
「そうみたい」
「私たちに大事にしますって宣言したし、絶対フラれたくないだからね〜。長い付き合いになりそう〜」
そうだといいので、次は爆発しないように気をつける。真由香にそう言ったら、「頼るように」と笑いかけられ、軽い体当たりをされた。
「そうだ、琴音。お母さん、言い忘れていたけど、一朗君はよそ様の大切な息子さんだから、きちんとしたお付き合いをしなさいね」
「うん。分かってるよ」
「年頃の男の子を過剰に誘惑しないように。真由香ちゃんも、彼氏ができたら気をつけなさい」
祖母は最初に念押しされたけど、母はこれまで何も言わなかった。それなのに今、このタイミングということは、両親は一朗君にそういう話をしたのだろうか。
「一朗君に何か言ったの?」
「いいえ。一朗君から大切な話がありました。しっかりしてて、ますます気に入っちゃった」
「そうなの?」
「改めて思ったけど、きちんとしたご両親に育てられているのね。彼の親に顔向けできないことをしたり、させないように」
「朝子さん。田中君は真面目君です。友達にプールデートをして、他の女子や自分たちも呼んで欲しいって頼まれたのに、ダメって断っていました」
そんな話、私は知らない。
「あら、そうなの?」
「友達に『琴音の水着を見てよ』ってからかわれて、彼女を利用して遊ぶな、見せないって激怒していました。聖廉に向かって土下座しろって」
「真由ちゃん。私はそんな話、知らないよ」
「教えた方が良さそうだから今、言った」
「プールデートは健全だから好きにしなさい。琴音は室内じゃないとダメでしょう? 二人でも、皆でも、行くなら車を出してあげる」
「やったー。琴ちゃん、皆で行こうよ。水着なら洋服みたいなものもあるから」
「一朗君に聞いてみる。あの、お母さん。ありがとう」
「お礼なら自発的に礼儀を尽くした一朗君に言いなさい」
あんなに腹が立つほど嫉妬して、自分の気持ちの強さを自覚したばかりなのに、これだとますます好きだ。
この夜、真由香が入浴中に一朗君に電話をして、挨拶時に両親、特に父が失礼では無かったか確認した。
「失礼でいいんじゃない? 娘が大事なら心配するものだから」
「えっ? ということは、お父さんは失礼なことを言ったんだ。お母さんは愛想良くしてるのに」
「ううん。言われてない。先回りして、『責任を取れないことはしません』って話したから。父親にも、挨拶の時に宣言しろって言われてて」
「……そうなんだ。あの、すごく嬉しい。ありがとう」
真面目だな。そういうところも、ハッキリ親に言ってくれたところも好き。
「あのさ。今日、バレたように俺は相当好きだから……」
好きという単語に胸が跳ねる。心臓はそのままドドドッと暴れ始めた。
「私も……好きだよ」
今すぐ会えて、直接言えればいいのに。
「ん。というわけで、責任が生じないこと、手前までは全部したいから、心の準備をよろしく」
「へっ?」
「嫌とかまだとか、ちゃんと言うように。ヤキモチも今後は早めにぶつけて。我儘も歓迎」
わりと一方的に電話を切られてしまった。
「どこまで?」という疑問は妄想になり、わーっと慌ててしまった。部屋をうろうろしていたら、真由香が部屋に戻ってきて、「顔が赤いけど」と突っ込まれた。
今日、相談は大切だと感じたので、今された話を共有する。
「ってことは、そのうちあちこち触られるね。胸とか特に」
「そんなの死んじゃうよ!」
真由香しかいないのに、思わず両腕で胸を隠した。
「『まだ』って言えるように、可愛い断り方を練習したら?」
「……可愛い断り方?」
「さっきの、真っ赤になって『死んじゃうよ』は可愛かったからいい感じ」
真由香はそのまま、今回のことについても指摘した。
可愛く「朝日ちゃんと仲良くしないで」とおねだりしていたら、朝日ちゃんではなくアサヒバヤシだと分かったのにと。
「可愛くって、どんな?」
「どこか引っ張って、上目遣いで『お願い』とか? 漫画とかだとそうじゃん」
真由香を練習台にしていたら、父が来て「まだ起きているのか」と咎められた。
「真由ちゃんがいるのに、夜遅くに部屋へ来ないでよ。部屋は遠いからうるさくないでしょう?」
何も悪くないどころか誠実だった一朗君に愛想良くしなかったし、失礼なことも言ったようなので、つい、反抗してしまった。
「恭二さん。娘は彼氏をいじめられて怒ってます」
真由香の前でぷち親子喧嘩をしそうになったので、気遣われてしまった。
「ごめんね、真由ちゃん。気を遣わせて」
「全然」
父は顔をしかめて横を向いた。首の後ろに手を当てて少しうつむく。その仕草を見て「あれ?」と心の中で呟く。
「別にいじめてない。朝子と違って人見知りなだけだ。……大事にしてもらって、大事にするんだぞ」
そう告げるやいなや、父は部屋を後にした。真由香にそっと腕を撫でられる。
「きっと、あれを言いに来たんだね」
「……うん。謝ってくる」
追いかけて廊下で「ありがとうございます」と言ったら、泣き笑いみたいな顔を向けられた。父は何も言わずに背を向けて遠ざかっていった。
その背中はとても寂しげで、すんっと鼻先が冷たくなった。明日の夜は、喜びそうなことを何かしてあげよう。




