枝話「藤野颯ととある下校」
部活を終えて校門を出ると、もう校庭の向こうは群青色に沈んでいた。
箏曲部を待っていたら、やって来たのは演奏会組だけで、大会組はまだ居残り練習中だと告げられる。
一朗が彼女を待つと言い出すより先に、和哉が軽口を飛ばした。
「それなら、一朗は残留決定だな」
からりと笑った彼が、当然のように俺へ視線を向ける。
「女子校前に一人じゃさすがに可哀想。颯、一朗を頼んだ」
「おう」
和哉たちは演奏会組と一緒に街灯の並ぶ通りへ消えていった。談笑する影は徐々に伸び、やがて闇に呑まれていく。残ったのは、一朗と俺。二人きりになるのは久しぶりだ。
「なぁ、気になってたんだけどさ。映画、どうだったんだ?」
一朗がふいに口を開く。
「……かなり楽しかった」
答えながら、胸の奥にあの日の空気が蘇る。まだ誰にも話していないが、最高の時間だった。
最初こそぎこちなかったものの、次第に緊張もほどけて、冗談を言い合えるほどに変わっていった。映画は、相澤さんのおすすめという理由だけで選んで、お互いに予習していなかったので内容に驚いた。
俺はホラーやグロが苦手だから内心ひやひやしたが、それ以上に——同じ場で、同じ瞬間を共有できたことも、彼女が怖がるたびに俺に近寄ることも嬉しかった。
「あの映画さ、思ったより怖かったよな。モンスターものっていうより妙にリアルで、海行くのが怖くなるくらい」
一朗はそう言って、急に吹き出した。
「どうした?」
「いや、俺さ、怖がってくっつかれたりしないかなって、ちょっと期待してたんだ。なのに……あはは」
肩を揺らして腹を抱えて笑っている。期待外れだったはずなのに随分と楽しそうだ。
「相澤さん、そんなに面白かったのか?」
「表情とか仕草がさ、サメを応援してたんだ」
「サメを?」
思わず聞き返すと、一朗はますます笑みを深める。
彼女はスクリーンに夢中で、頷いたり首を振ったりして、サメを応援するみたいな反応をしていたらしい。ときに人間側に肩入れする素振りを見せたけど、大半はサメの行く末を気にしてそうだったと。
彼女は背筋を伸ばしてスクリーンを凝視して、一度も隣に座る彼氏——一朗を見なかったという。
「映画の後でお茶したんだけど、琴音ちゃん、『サメはもっとこうすれば良かった』って熱く語ってさ」
「やっぱりサメの味方なんだな」
おっとりした彼女からは想像できない発言に、笑みがこぼれる。
「しかも音楽にダメ出しをするんだ。ポーチをサメに見立てて、即興で歌いながら解説してさ」
あの曲はここで盛り上がりが足りなかったなど、辛口評価だったと、一朗が肩を震わせる。
「動物園のときもそうだった。普通の動物より爬虫類館で異様に盛り上がってさ。あれは完全に見た目詐欺」
一朗はまた吹き出した。ふと、彼の目が後ろへと動く。つられて振り返ると——そこには相澤さんが立っていた。
彼女は一朗の肩を軽く叩いて人差し指を突き出して、彼の頬をつっかえさせた。
「引っかかりましたね」
いたずらっぽい声に、一朗の顔がぱっと綻ぶ。夜が明けたというくらい明るく。
相澤さんの後ろにいた高松と視線が合う。胸が跳ね、思わず照れ隠しのように会釈した。
「この間の仕返しをされた」
一朗はとても嬉しそう。しかし、相澤さんは唇を尖らせて問いかけた。
「見た目詐欺って、私のことですか?」
一朗は一瞬迷ってから、笑いながら白状した。
「そう。……でも、いい意味で」
「詐欺なのに、いい意味なの?」
「だってさ、蛇とかサメに夢中になるようには見えないから」
高松が、「ああ、あの映画のことですね?」と会話に加わる。
「おすすめを信じて怖い目に遭いました。よく考えたら、琴音さんが強く勧めたり、観たいって映画はそうだったなって」
「小百合さんはあの映画のことを調べずに行ったんですね」
佐島さんが高松の顔を覗き込む。
「調べ忘れてつい。琴音さんの『おすすめ』をそのまま信じてしまって」
「えっ? 面白かったでしょう?」
「面白かったけど……あれは覚悟が必要です」
「調べなかったのなら、小百合さんが悪いですよ。私たちの初映画が"グレムン"だったのを忘れたんですか?」
「懐かしい。あれも予備知識がないと怖くて、夜、一人で寝れなくなりました」
高松に、いつの話か聞いたら小学校三年の時で、その映画は、相澤さんの家で三人で観たという。
「私も琴音さんの家から帰ってすぐ、お母さんに泣きついて一緒に寝ました」
「えー! ギズムンが凄く可愛いし、ちょい悪パーティータイムとか、楽しいところが沢山の名作映画なのに?」
一朗が、あの悪の集大成のようなシーンを『ちょい悪』で済ませるのかと腹を抱えて笑い始める。
俺はその映画を観たことがないので、これだけだとどんなシーンなのか想像がつかない。
「ちょっ、なんでツボに入っているんですか」
「もし、もしかして、もっと悪いことをしろってグレムンを応援したの?」
「そんなことはしません。ギズムンが可哀想でしょう?」
スマホで検索してみたら、ギズムンは見たことのある可愛らしい生物だった。一朗は何がツボなのか不明だが、ますます震えている。
「もうっ、笑いすぎです。帰りましょう」
歩き出すと、一朗は自然と相澤さんの隣を歩き、「古い映画だよね。今度、一緒に観ようよ」と彼女の腕を軽く肘でつついた。やはり、二人の親密さは増している。
佐島さんが俺たちの後ろを指で示し、足を止めたので俺と高松も歩くのをやめた。一朗たちは気づかずにどんどん進んでいく。
「仲が良くてなによりです」
ふふっと、佐島さんが肩を揺らすと、高松も微笑みながら頷いた。
「本当に」
しばらくして歩き出したら、一朗たちが俺たちを待っていた。相澤さんが、気遣わなくていいと笑う。
「仲良しぶりに照れるから離れただけでーす」
「イチャイチャしているからでーす」
「してませんよ」
「それなら、もっと仲良しになりなさーい」
「イチャイチャしなさーい」
「もうっ」と相澤さんが憤慨する。それを一朗がとても眩しそうに眺めていた。彼のこういう顔は初めて見る。
「お互いしばらく部活なので、登下校しかしません」
「私たちは二人で帰るから、毎日二人でどうぞ。ねー、小百合さん」
「そうですね」
「やだぁ〜、仲間外れにしないで〜」
女子三人が楽しそうに横に並ぶ。
「仕方ないなぁ」
「しょうがないですね」
「あはは、両手に花」
相澤さんは、高松と佐島さんに腕を組まれてとても嬉しそうだ。
「俺さ、なんとなく、高松さんと佐島さんは昔からの仲で、琴音ちゃんは後からって思っていたんだけど、昔から三人?」
「私と琴音さんが少し早くて、すぐ後に小百合さんが増えました」
「そうそう、あんまり変わらないです」
中学校で知り合ったと思い込んでいたけど、さっき小学生の時のエピソードが出てきたので、俺も気になる。
「二人とも、俺らと同じ小学校じゃなかったけど、どこで知り合ったんだ?」
俺の問いかけに答えてくれたのは高松だった。
「私と真由香さんは同じお教室で出会ったんですよ」
佐島さんと仲良くなって誘われた演奏会で相澤親子が演奏していて、楽屋挨拶へ行って知り合った。高松がそう、とても懐かしそうに語る。
「私の父も琴音さんのお父さんも音楽関係の仕事をしているので付き合いがあって」
「指揮者と演奏者の娘だよね」と一朗が確認のように言う。
「そうです。うちのお父さん、私に似て人見知りで、留学はしたけど怖いって引きこもって、琴音さんのお父さんが巻き添えになったんですよ」
「真由香さんが真一さんに似たんでしょう? 父が、向こうで知り合って、なぜか懐かれたって言っていました」
「あはは、私が娘でした。今もたまにテレビや取材に『恭二を呼べー』って我儘を言うんですよ」
「父はたまに面倒って言うけど、それ以上に慕われて嬉しそうです」
「うちのお父さん、音楽以外はダメ人間なんですよ。公演があるのに娘が恋しいって帰ろうとするし。今はお姉さんが一緒に向こうにいるから大丈夫ですけど」
佐島さんのお姉さんはプロのピアニストを目指して留学中。これは、初めての話題だ。
こう聞くと、佐島さんは高松にベッタリという印象が変化する。二人は同じクラスだから親しいけど、相澤さんと佐島さんこそが親友なのかもしれない。
話題はそのまま、『佐島真一』のことになった。彼は人気指揮者で海外公演が多いことや、それで佐島さんや相澤さんは海外へちょくちょく行っていたと知る。
高松家は一度、佐島さんの母親に「夫が仕事を放棄して無職になるから」と頼まれて、佐島家と相澤家と合同のオーストリア旅行をしたそうだ。
「『夫を働かせるためなののでお土産代以外は要りません』って言われて、お父さんもお母さんも困惑していました」
「お父さん、あれからずっとブツブツ言っていますよ。なんで誠さんは遠慮して来てくれないんだって」
「去年の夏も、小百合さん家は来なかったですからね。お父さんも残念がっていました」
「昔からあれこれ連れて行ってもらっているのに、毎年海外なんて、そんなたかりのようなことはできません」
三人の思い出話が始まる。相澤さんと佐島さんは嬢様だと確信した。高松の両親の仕事はなんとなく知っていて、高松家は我が家寄り——いわゆる庶民だ。
「琴音ちゃんはやっぱりお嬢様じゃないか。俺と琴音ちゃんって、普通は知り合わない別世界の人だよな。佐島さんもだけど」
一朗の言い方には、卑屈まではいかないけど、寂しげな響きが含まれている気がした。
「別の世界なんてありませんよ」
「ねー」
相澤さんの発言に佐島さんが相槌をうつ。
「そうやって区別して壁を作ろうとするのは良くないですよ」
佐島さんは、嗜めるように告げた。
「壁を作ろうなんてしてない。剣道が上手くてラッキーって言いたかっただけ」
一朗は照れくさそうに、それでいて屈託なく笑った。
「琴音さんに出会えたからですね。このこのっ」
佐島さんは一朗には心を許し始めているのか、高松や相澤さんにするように、彼の腕を指でつついた。
「ん、まぁ」
「きゃあ〜。愛されてるぅ〜」
佐島さんが相澤さんに抱きつく。改めて思うけど、女子って女子同士でかなりベタベタする。
「ん、まぁ、My fave is Kだし」
「フェブ? 何ですか? Kは琴音さんですか?」
「さぁ……」
「照れ屋男子〜!」
佐島さんが相澤さんに「何かいいことを言われましたよ。追求しなさい」と促す。
しかし、相澤さんは照れてうつむいているだけ。そんな彼女の頬を、高松と佐島さんがつつきまくる。一朗は羞恥の限界なのか早歩きになった。
駅に着いて、相澤さんだけが別のホームへ。
スマホをいじっていた佐島さんが、愉快そうな声を出した。
「さっきのはfavoriteか。好きだ、推してるとはやるな、田中の旦那ぁ〜」
「ん、まぁ……。前向き幼馴染の真似。何も言わなくて、好かれてないって誤解されてフラれたら困るし」
「フラれたくないんだ」
「絶対に嫌だ」
この言葉には、かなり力がこもっていた。顔にも心底嫌だと書いてある。
「琴門ちゃんは可愛いですもんね」
「それだけじゃないけど……ああいう子は、他にはいなかった」
一朗はぽそりと呟く。何かを思い出すように、瞳を揺らしている。
「そうですよ。琴門ちゃんみたいな子は滅多にいません。小百合さんもだけど。前に大事にしますって言っていたから、大切にしてくださいね」
「人ってさ、それぞれ誰かの特別なんだ。だから相手を蔑ろにしたら、その向こう側にいる人たちにも悪さをすることになる。それって、きっと人生の大損になる」
「つまり……一人失うと、大勢を失うってことですか?」
「そう。琴音ちゃんと喧嘩しそうになっても、友達になれた佐島さんや高松さんや、箏曲部や剣道部のことを思い出す。待て、そんなこと、本当に言っていいのか? って」
「いい喧嘩防止策ですね。田中君って普段はわりとふざけてるけど、真面目君ですよね」
「よく言われる。融通がきかないとかさ。じいちゃんが二人ともうるさいし、長男だからかなぁ」
電車が来たので乗り込む。車内で、俺たちは相澤さんの珍言動話で盛り上がった。俺は彼女とのエピソードが全然ないので、主に聞き役だ。
俺らより早く降りる二人を見送り、高松と二人になると、どちらともなく、田中——相澤ペアの話になった。最初はぎこちなかったのに、すっかり親しげだと。自然と「ないだろうけど、喧嘩したら仲裁しよう」という言葉を交わす。
俺たちは、この時はまだ知らなかった。
——近いうちに、本当にその『喧嘩』が勃発することを。




