田中一朗は選択を誤る
自分が普段いる空間に、彼女がいる──それだけで、不思議な感覚が胸を満たす。
教室の出入り口から、椅子に座っている琴音ちゃんを見つめる。彼女は同じ班らしい男子や女子と笑い合っている。
校門前で待ち合わせをしないで「教室に迎えに行く」と言ったのは、同じ班になった男子を牽制したかったからだ。
緊張で心臓が喉のあたりで跳ねるのを感じながら、「よしっ」と小さく気合を入れる。教室へ足を踏み入れ、彼女に近寄った。
人の視線は気になる。だが勇気を出して、彼女の肩を軽く叩きながら「お待たせ」と言った。
人差し指を伸ばして彼女の頬をつっかえさせる。琴音ちゃんは振り返ると、すぐに何があったか理解して、愉快そうに笑った。
「小学生みたいですね」
琴音ちゃんの肩が小さく震え、髪が俺の手の甲をそっとくすぐる。
「引っかかりそうだったから」
周囲の目を気にして、近くの人たちに軽く会釈する。女子三人は驚きつつ楽しげで、男子二人は驚いていて、一人は少し悲しげだ。
悲しそうな表情をした濃い顔の彼は、琴音ちゃんの可愛さに心を奪われ始めていたかもしれない。
「相澤さん、彼氏ですか?」
ボブヘアの女子がちらちらと俺を見ながら、琴音ちゃんに向かってニコリと笑いかける。
「あの、そうなんです。これからお出掛けで……」
琴音ちゃんが頬を赤くして答える。声は少し震えたけど、口の端は甘い味がついたように上がる。
「こんにちは。二組の田中って言います。打ち上げに行く人が多いみたいなんですけど、俺たちは今日、映画を観に行きます」
「こんにちは。相澤さんのクラスメートの井口です。相澤さん、いつからなんですか?」
「私も気になります」
今回の特別授業の班は女子三人、男子三人が基本なので、彼女に話しかけた二人は同じ班のメンバーだろう。
「まだ全然で、四月からです……」
彼女が恥ずかしそうにうつむく。
「は、恥ずかしいので失礼します。皆さんは打ち上げを楽しんで下さい。田中君、行きましょう」
慌てた様子で鞄を抱えて歩き出す琴音ちゃんを、そっと追いかける。廊下に出ると、横並びになった。
「わぁ……。共学だと、きっとこんな恥ずかしいことがよくあるんですよね」
「違う学校で良かったってこと?」
「今だけは。本当にすぐ赤くなるから余計に恥ずかしいです」
そう言って琴音ちゃんは目を伏せた。頬が薄紅に染まり、胸の鼓動が見えるんじゃないかと思うくらいだ。俺はその顔を見て、つい笑った。
「……ん、まぁ、俺としてはいいと思うよ」
そこがまた可愛いのだけれど——その軽口は、喉につかえた。こういう時は、ホストみたいになった幼馴染の軽快さや、あの勇気、あるいは世間の目に対する鈍さが羨ましい。
「そうなの? それなら損な体質じゃなくて得かも」
柔らかな笑顔が向けられて、心臓がまた大きく跳ねる。最近、彼女に慣れてきていたのに、一昨日の動物園デートでほとんど手を繋いでいたことで、振り出しに戻っている。
「いつも男ばっかりの教室や廊下に女子がいるから変な感じ」
「私も。きっと、みんなもそう思っていますよね」
廊下を二人で歩くと、ちらちらと視線が集まる。
逆の立場なら、俺もそう観察するだろう。こんなに男子がいて、その多くが聖廉生を気にしているのに、琴音ちゃんは今、俺と歩いている。それはやはり、運命的で奇跡だと心の中で惚気てみた。
自然に今日の特別授業——英会話の話題になる。日本語禁止や、翻訳機無しで海外旅行計画を作るなど、先輩から教わった内容だった。
俺と一緒の班が良かったという発言にニヤつきそうになる。
「一朗君の班はどの国に行くことにしました?」
「サッカー部がいて、好きなチームがイタリアって言ったら、女子たちが賛同してイタリアになったよ。琴音ちゃんたちは?」
「井口さんが夢の国が好きで、上田さんも私も好きだから、海外の夢の国から選びました」
井口さんが「アメリカ、パリ……」と夢の国の所在地を口にして、パリ——フランスに決まったらしい。
「モンサンミッシェルも行きたいってなって調べたら、パリからけっこう遠くてびっくりしました」
「そうなんだ。モンサンミッシェルってなんか綺麗な島だっけ?」
「あそこは修道院ですよ」
「あっ、せっかくだから英会話しようか。How do you say 修道院 in English?」
「えっと、OK. 修道院 is abbey.」
同じ教室で同じ班で楽しむことはできなかったけど、付き合っているから、こうして二人で特別授業のようなことをできる。
俺はあの日、ワクドで自分の名前を耳にしなかったら、彼女に話しかけることができただろうか──そう考えると、勇気を出した結果が今の交流だと実感する。何度も、強く。
だから、弱気はできるだけゴミ箱に捨てることにしている。
「I want to save money and go on a trip together. First of all……」
強気でいこうとしたけど、決意とは裏腹に声が小さくなっていく。
「Together? わぁ……。なんかいいね。かなり未来の話って」
琴音ちゃんは本当にすぐに顔を赤くする。耳のわずかな熱さや、呼吸に混じる緊張の匂いまで伝わってくる。そのたびに、好意を感じて嬉しくなる。
「Thinking of something naughty?」
ここまでのふざけは許されるのか気になって、口から飛び出ていた。
俺はエイドを通して学び、学校ではまず教わらないから、伝わらないだろうけど、あとで調べるに違いない。
「ノーティ? ノーティについて考えてた……? ノーティはなんでしたっけ」
「あはは、You used Japanese. You'll have a penalty.」
「つい。今日はペナルティの課題を二枚も貰ってしまいました」
「そうなんだ。ランチの時に終わらせる? 手伝うよ」
「私につられて日本語だから、一朗君もペナルティですね。なんて」
驚いたことに、腕を指でつつかれた。『このこの』というように。恥ずかしそうにしながらで、可愛らしい。
「琴音ちゃんが俺に与えるペナルティって何になるの?」
「なんだろう? なにをされたらちょっと嫌?」
これは——チャンスかもしれない。
「連絡が全然ないとかかなぁ」
「それなら喧嘩したら数日は無視……したら仲直りできませんね。私も一日一回も連絡なし、挨拶すらないとかは嫌だなぁ」
ここ最近の連絡頻度の低下を彼女は意識していない様子だ。橋本さんが、彼女は俺を“自粛”しているみたいだと言っていたが、琴音ちゃんはそういう発想に至っていないようだ。
「じゃあ、忙しくても疲れてても『おはよう』か『おやすみ』って送るよ」
「私もそうします。最近ね、前より……自制しているんです。集中すると他のことを忘れがちだから、一朗君に集中すると練習も勉強もできなくなるので」
意識していないというのは勘違いで、意識的に連絡をしていないと、これで確定した。
「……そうなんだ」
彼女は手の甲を頬に当て、恥ずかしそうに視線を落とした。
「自制心は強い方なんだけど難しくて、スマホを袋に入れて、おもちハウスに預けたりしています」
「そこまでしてるの?」
「一朗君はそこまでしなくて平気ですか? 私は前よりもっと仲良くなった気がしてるから、トークや電話も、前より沢山したくてならないです」
それならそうしてほしい。溺れてほしい。
けれども、そうしない彼女を尊敬して、唇をきゅっと結んだ。
自ら「自制心が強い」と言った通りだから、あのようなすごい演奏ができるし、成績も優秀なのだろう。それは見習うべき素晴らしいことだ。
「俺は……。連絡がないのが当たり前だったから、うん、今くらいでも別に」
口から出かかった言葉——自分の我儘さを飲み込んでそう言った。
連絡が少ないと嫌だとごねるのは格好悪いし、おまけにそれは彼女の生活の邪魔になるから、なおさらだ。
「そっか。私だけ浮かれたり、気をつけようと空回りしてるんですね」
彼女のあまりに素直な言葉と、悲しげな瞳を見て、「回答を間違えた」と後悔した。
「……ごめんなさい。本当は死ぬほど不安で……。俺、嫌われるようなことをしたかもって思って、橋本さんと高松さんを呼び出しました」
うつむいていた琴音ちゃんが、戸惑った声を漏らしながら、ゆっくりと俺を見上げた。
俺は逆に、罪悪感で顔を上げられず、視線を自分の足先に落とした。
「まだ付き合えている実感が足りないみたいで……」
「……それは大変です。もっと仲良くならないといけませんね」
予想外の返事をした琴音ちゃんに、軽く体当たりされた。ぶつかった瞬間、制服の生地が腕に触れ、その向こうの温もりがじんわり伝わる。
「……ん。ありがとう」
袖をそっと引っ張られた。
「一朗君には彼女がいて、その彼女は相澤琴音ですよ」
コソッと囁かれて、死ぬかと思った。彼女は紅葉みたいに真っ赤な顔で照れている。
彼女にここまで言われたら、俺も素直な気持ちを伝えないと。
「……うん。それも初の彼女。だから死ぬほど大事にする。きっと間違えたり失敗はするだろうけど……。絶対、大切にします」
「うわぁ……嬉しい。ありがとう。私もね、色々失敗するから嫌なことは言ってね。すぐ直すから」
「俺もすぐ直す。なんでも言って」
「それなら……」
彼女は何かを言い淀み、「ノーティはなんですか?」と尋ねた。
「アルファベットのGの次の文字っぽいニュアンス」
「……そ、そんなこと考えてないよ。旅行は楽しいだろうなって……あーっ! 私を赤くするのが楽しいんでしょう! 皆みたいに!」
「まぁ、うん。俺に照れてるって、安心するのもあって。っていうか、制服なのに敬語は?」
「もうっ。でもいいですよ。一朗君のからかいは許します。彼氏は特別ですから……」
頬にキスされて「彼女だもん」と言われたかと思えば、次は「なるべく手を繋いでいられるデート」とおねだりされ、今日はこれ。この幸福に眩暈がする。有頂天とは、こういうことを言うのだろう。
(なんで俺……。ゴミを拾ったから俺……)
それなら俺は一生、ゴミ拾いをする。
ゴミだけではないことは聞いている。彼女は『自分に優しい男子』は選ばず、話したこともない俺を、『誰かに親切にしている』と見つけてくれた。
俺こそがそうで、ずっと朝日ちゃんを追い求め——その話をしたら、今の彼女ならきっと喜んでくれる。
せっかくなら記念日に……となると一年記念日だろう。
☆★
人は、一つの決断を誤っただけで、望まぬ結果に襲われることがある。
田中一朗はまだ知らない——この日、自分が選択を間違えたことを。
——相澤家——
お風呂に入る前の、琴音の息抜きタイム——おもちを撫でながら、小さくため息を漏らす。
『なんでも言って』
あの時、自分の声は誰かに奪われたみたいに出なかった——眉尻を下げ、肩の力を抜きながら、琴音はそう思った。
(朝日ちゃんとは、あんまり仲良くしないで……)
それだけのことなのに、言えなかった。
写真の裏にわざわざ書かれた願い、「また会えますように」という文字は、まるで彼の宝物のように光っていたから。
来月、彼は一ノ瀬君と朝日ちゃんと、食べ放題のお店に行くらしい。
何気なく誰と連絡しているのかと尋ねると、そんな答えが返ってきた。
聞けば答えてくれるから、"朝日ちゃん"は"めぐ"のような女子の友達の一人にすぎないのだろう。
でも、自分は彼女だから大丈夫。
真っ直ぐ気持ちを伝え続け、彼を大事にすれば、「大切にします」という約束はきっと守られる。
彼を傷つけなければ、『やっぱり朝日ちゃんがいい』なんてことにはならない。
自分たちの仲が良好なら、"朝日ちゃん"のつけ入る隙もない。だから、大丈夫。大丈夫——。
琴音はそう、自分に言い聞かせる。
信じたいと願うその心は、不信や自信のなさの裏返しだというのに——そのことには、気づかないまま。




