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今日から君と待ち合わせ  作者: あやぺん


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枝話「佐藤政道と新しい世界2」

 胸の内側からドクドクと音がするのは久しぶりだ。公式戦のメンバーを決める部内試合以来かもしれない。

 橋本さんが、自分の名前を口にした男子に向かって「ヒノハラ君……」と呟く。


 ボーリング場にいる女子たちの視線が、彼へ吸い寄せられている。背は俺と同じくらいだがかなり色白だ。

 シャツの袖を無造作に捲り、黒に近い紺のズボンに、濃い灰色のスクールベスト。その下から白いシャツが少しだらしなくはみ出しているのに、顔が整っているせいか洒落て見える。


「剣道部たちとボーリングって聞いたから、サプラーイズ。会いたかった。今日も最高に可愛いね」


 思わず咳き込みそうになる。同年代の男子が、こんなふうに堂々と褒める場面など、見たことがない。


「あの、ありがとうございます」


 橋本さんが照れたように前髪をいじり、視線を泳がせる。その仕草はひどく可愛らしいのに、軽いめまいと吐き気がした。


「何にありがとう? 褒めたから?」


「……褒めてくれたからです」


「事実を言っただけで喜ぶなら、いくらでも。今日の髪型、似合ってて可愛いよ。前のも可愛いけど、俺はこっちがもっと好き」


 は?

 俺は自分の耳を疑った。同い年の男子が女子にそんなことを言うなんて、想像すらしていなかった。

 橋本さんは両手で三つ編みを撫で、顔を背ける。白い耳が、じわじわと赤く染まっていった。


「……ありがとうございます」


「俺こそありがとう。そのままでも可愛いのに、さらに可愛くなってくれて」


 橋本さんは小さく震えてうつむいた。隣の佐島さんと細谷さんが目を見合わせ、橋本さんの制服の袖をつんつんと引っ張る。


(俺だって、とても似合ってるって……)


 心の中で思うだけで、言葉にしていない。友達どころか知り合い程度の男子が、あんなふうに褒めるなんて不自然すぎる。言えるはずがない。

 けれどもし、言えていたら——どうなっていたのだろうか。


「ねー、美由ちゃん。パッと見、一朗も琴音ちゃんもいないけど、二人でどこかへ出掛けてる?」


「……あの、琴音さんと田中君は二人でデートなのでいません」


「えっ? そうなの?」


 ヒノハラ君は軽快に喋り続けた。怪我で部活がないならと幼馴染に誘われ、一朗の話題も出た。

 試験勉強と彼女に夢中でLetl.の返事をほとんどしない薄情者を冷やかそう、彼女も見てみよう、そんな流れで池梟へ来たらしい。

 

「それなら、幼馴染さんたちもいるんですね」


 橋本さんが、おずおずと遠慮がちに周囲を見渡す。


「美由ちゃんを取り囲んだら嫌だから、ゲーセンに置いてきた。いきなり大人数で押しかけたら、一朗も怒るし」


「そうなんですね」


「あいつ、俺以外には琴音ちゃんの写真すら見せないんだ。今なら気持ちが分かる。こーんなに可愛い彼女は隠しておきたい」


 ヒノハラ君は、指鉄砲を構えて橋本さんを撃ち抜くような仕草をし、ウインクまでしてみせた。

 ……なんだ、今の台詞と動きは。本当に同い年の高校生か? いや、一応制服は着ているけれど。

 なんだなんだというように、他のレーンの女子が集まってきた。それに続くように男子たちも。

 彼は「一朗の幼馴染のヒノハラです」と自己紹介をして、事情をさらりと説明する。

 ただし、橋本さんに会いに来たという部分はなぜか省いた。ヒノハライオは一朗の幼馴染。市船の柔道部員で、肋骨を骨折しているそうだ。


「あと……俺は美由ちゃんに片想い中〜。ゴネたら『試してもいい』って言ってくれたから、一応、彼氏。仮彼氏。よろしくどうも」


 白い歯を輝かせて、ピースを決めたヒノハラ君の前で橋本さんが縮こまる。


「……はぁあああああ⁈ はし、橋本さんって彼氏がいたの⁈ しかもこんなイケメン! 一朗から、『幼馴染を紹介した』なんて聞いてない!」


 俺の心の叫びを、和哉がそのまま口にしてくれた。


「彼氏じゃなくて仮彼氏。美由ちゃんは俺にノーラブ。俺はラブだけど。一朗に紹介なんてされてない。運命的に知り合えただけ」


 和哉が口をぱくぱくさせながら、橋本さんとヒノハラ君を交互に見る。


「運命……的に? 橋本さん、そうなの?」


 和哉が目をぱちくりさせながら尋ねる。橋本さんは低い位置で両手を握りしめた。


「……いえ。田中君に電話を繋いでてほしいって頼まれて。少し話したら、会いに来ました」


「電話を繋いでて?」


「えっと、買い物中にスマホを持ってて、的な」


「骨折が痛い俺に突然のご褒美。すぐに人を助けて優しいし、可愛い声だから胸に矢がぶすって刺さった。善は急げですぐ会いに行った!」


 ヒノハラ君は誇らしげに胸を張り「告白してゴネた」と笑ってから、親指で自分を指しながら宣言した。


「アイムア、スーパーラッキーボーイ!」


 ……やっぱり、この言葉も仕草も、俺が知っている"普通の高校生"とは違いすぎる。一朗の幼馴染なんて肩書きから想像できる人物ではない。


「せっかく池梟まで来たのに、一朗も琴音ちゃんもいないとは。はい、差し入れ。お菓子はみんなでどうぞ」


 カバンを近くの椅子に置いたヒノハラ君が、橋本さんにお茶と、お菓子のバラエティ袋を差し出す。

 橋本さんは、それをおずおずと受け取り、「ありがとうございます」とはにかみ笑いを浮かべた。


「受付で『友達に少し用事』って言ったら、通してくれて。だから俺、客じゃないから長居できない。じゃあ、楽しんで」

 手を振りながら、彼は軽やかに離れていった。——カバンを置いたまま。


「あっ……」


 橋本さんが小さく声を上げた瞬間、自分でも信じられないことに、俺はもう椅子からカバンを取って歩き出していた。


「俺が届けてくる」


 背中に「……あの」と橋本さんの声がぶつかる。東さんの「噂の彼氏さんなんですね」という囁きも聞こえたが、どれにも振り返らなかった。

 どうせすぐ気づくだろうと思いながら歩くと、エレベーター前に彼が立っていた。腕を組み、じっとこちらの様子をうかがっている。

 さっきまでの笑顔は消え、無表情に近い顔。目が合った瞬間、思わず足が止まり、胸の奥でざわめきが広がった。


「あのっ、忘れてましたよ」


「俺のカバン、ありがとう。でもさ、空気読んでくれない? 美由ちゃんに追いかけられたかったのに」


 計画犯なのかよ。謝るのは癪で、軽い会釈だけしてカバンを差し出す。


「どうも。名前、なんていうの?」


 笑いはしたけど目は笑ってなくて敵意を感じる。


「佐藤です」


「佐藤、なに?」


 声がさらに低めになった。明らかに警戒されている。


「政道です」

 

 瞬間、ヒノハラ君はなぜかニコッと笑った。——表情や雰囲気の落差に、胸がざわめいて心臓がバクバクし始める。


「次期部長の(まさ)ね。いつもうちの一朗が世話になってます」


「いえ、こちらこそ」


 お辞儀をされたので、会釈を返した。突然、彼は俺の肩に腕を回してきた。小声で、秘密の話というように、話しかけられる。


「八つ当たりして悪かった。美由ちゃんが追いかけてくれないからつい」


「いえ……」


「俺さ、実は一人で来たんだ」


「……えっ?」


「一朗たち剣道部との集まりだから、あいつと琴音ちゃんを口実にして、美由ちゃんに会いに来たんだ。せっかく会えたのに帰りたく……」


 ヒノハラ君は声を出すのをやめて、ゆっくりと体を起こした。彼の視線の先には、橋本さんがちょこんと立っていた。困惑した表情に、少し戸惑いの光が混ざる。


「うわっ、やっぱり美由ちゃん。足音というか、雰囲気でそうかもって思った」


「……あの、一人で来たんですか?」


 押しかけてきたことがバレて、ヒノハラ君の顔色が曇る。


「嘘をついてごめん! 会いたくてつい……。俺が混ざるのはおかしい会だから、一朗と琴音ちゃんに会いに来たって言えば、少しは喋れるなって……」


 彼はゆっくりとしゃがんで、くしゃりと自分の髪を掴んだ。


「会えたから帰るんだけど……。欲が出てまだ帰りたくないなぁと……」


「……あの」


 橋本さんがヒノハラ君の前でしゃがみ、柔らかく微笑む。

 二人の目が合った瞬間、胸の奥で心臓を握りつぶされたような感覚に襲われた。


「……まだ仮なので、ご友人に紹介されるのは困りますが……逆はどうですか? 私の友達はヒノハラ君に興味があるみたいで……」


「そうなの? もしかしてそれで迎えに来てくれた?」


「あの、はい」


「っしゃあ! 美由ちゃんとの時間ゲット! 遠路はるばる来て良かった! 最高だ!」


 飛び上がって腕を振り上げたヒノハラ君は、「痛てて」と腹をおさえた。骨折している肋骨が痛んだのだろう。


「大丈夫ですか? ボーリングはできないでしょうし、もうすぐ終わるんです。どこかで休んで待ちましょうか」


「心配してくれてありがとう。ボーリングのあとの予定は?」


「ゲームセンターで軽く遊んで、他の部の人たちと演奏会の打ち合わせをして解散です」


「演奏会は関係ない剣道部はゲーセンで終わり?」


「その予定です。三人でラーメンを食べるそうですよ」


「三人? 涼とそこの政と……颯はいなかった。あとは確か和哉だ。合ってる?」


「ええ、その三人です」


「俺、和哉に挨拶してない。一朗が世話になってるのに、美由ちゃんが可愛くて忘れた。政とはたまたまここで挨拶できたけど」


 橋本さんが、「さっき喋っていましたよ」と小さく笑う。


「ああ、あいつ。これでようやく剣道部全員とこんにちは〜。一朗はデートで、颯はなんでいないの?」


「用事があるそうです」


 ヒノハラ君は橋本さんの顔を覗き込んだ。俺の前で、彼女に近づかないでほしい。


「ふーん。寂しい?」


「いえ……」と否定したのに、橋本さんは悲しそうに笑った。この微妙なズレはなんだ。

 彼女は何か言いかけたのに、唇をキュッと結んだ。


「……そうやって指摘されたら考えてしまいます。忘れてたのに……」


 橋本さんはため息混じりでうつむいた。会話の流れと彼女の表情の変化を考察して、まさかと息を飲む。


「……えっ? 橋本さんって……」


 颯が好きなのか。言いたくなくて、その言葉を飲み込む。


「佐藤君、それ以上言わないで、聞かなかったことにして下さい。もう、ヒノハラ君のせいですよ!」


 いつも可憐でふわふわした橋本さんの睨みは、意外と怖い。キッと睨まれたヒノハラ君は、明らかに狼狽している。


「今のは俺が悪い。平気な顔をするか試したんだ。試したというか、そうであって欲しいって願ってつい。考えなしでごめん……」


 橋本さんは怒りを宿した顔で、彼の目の前に立った。


「イオ君。そういうことはやめて下さい。得意の『俺にしなよ』にして」


 彼女はそう言ってから、彼を睨むのをやめ、両手をそっと組んでモジモジと指を動かした。


「……うわぁ、可愛い。好きだ。俺にして」


「うん。私、荷物を持ってきますね。打ち合わせの時間になったら戻るって伝えてきます。せっかく来てくれたから、二人で遊びましょう」


 彼女が軽やかに歩き出す。その去り際に残した可憐な笑顔に、俺は崩れ落ちそうになった。


(いつからだ……。橋本さんは、いつから颯で……)


 分からなくて途方に暮れる。俺は鈍感すぎて、好きな子の傷に気づけなかった。今もまだ、理解が追いつかない。


「うわぁ……。死ぬ。美由ちゃんに殺される。可愛すぎて死にそう……」


 ヒノハラ君はよろめきながらしゃがみ、呆然と立ち尽くす俺の足にしがみついてきた。


「あっ、あの……」


「なんなのあの生物。尊い。この世に生まれてきてくれてありがとう……」


 片手で俺の足を掴み、もう片方の手で口元を押さえ、涙目になっている。彼はかなりの変わり者だ。

 足を振り払えば骨折が悪化するかもしれない。俺は困り果てるしかなかった。

 しばらくして橋本さんが戻ってきた。足にしがみつくヒノハラ君を見て、明らかに引いた顔になる。


「なにをしているんですか……?」


「痛み止めが切れて疲弊してる」


 俺の直感が、今のは嘘だと告げている。


「大丈夫ですか? 薬はありますか?」


「多分ある。探してくれる?」


 騙された橋本さんはヒノハラ君のカバンを調べ、「なんですかこれは」と批判の声を漏らした。

 橋本さんは、丸めてカバンに押し込んだというようなブレザーをカバンから取り出した。


「女子が抱きついてきて、匂いがついたのが嫌で押し込んだ」


「……抱き? 抱きついて?」


 瞬間、橋本さんの頬が引きつる。


「最悪だよね。俺は美由ちゃんのものなのに。あっ、そうだ」


 消毒と称して、ヒノハラ君は橋本さんの肩にブレザーをかけ、カバンから飲み物と薬を取り出した。


(……本当に痛かったのか)


 彼が薬を飲むのを見守る。橋本さんはブレザーの袖に腕を通し、「大きい」と笑った。その笑顔に、胸がじくじくと痛む。


「よし、行こう」


「効き目が出るまで休んだ方がいいですよ」


「平気、平気〜。美由ちゃんが痛み止め〜」


 彼は俺に「じゃあ」と手を振った。橋本さんがおずおずと会釈をする。


「あっ、うん」


 ひどく間抜けな声が出た。鉛のように重い足は動かず、ただエレベーターが来て二人を乗せていくのを見送るしかなかった。


「待っ……」


 手を伸ばしたけれど、扉は完全に閉ざされた。伸ばした手は宙を切り、何も掴めなかった。


 ★


 今年の春、俺がうじうじしている間に、好きな子の隣にはもう別の男子がいた。

 一度あることは二度ある——そんな言葉が脳裏をかすめる。

 運のせいでも、神様に祝われなかったせいでもない。

 幸運の女神には前髪しかない。70万分の1という奇跡を、掴めなかったのは俺自身だ。

 だからこそ、三度目は絶対に逃さない。いや、二度目はまだ間に合うだろうか。

 ヒノハライオはまだ"仮彼氏"で、橋本さんの心にまだ颯がいるなら、俺にもまだチャンスは残されている。

 このまま、何もしないで終わりにしたくない。


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