枝話「佐藤政道の新しい世界1」
一匹の蝶が羽ばたきが、全く別の場所の天候を荒らすことがある。
佐藤政道は、自分の心を荒らすきっかけが、かなり昔、田中一朗が恋に落ちた時から始まっているなんて、知る由もない。
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中間試験が終わった翌日のHRで、担任が「特別授業に向けた注意」を始めた。
数学の先生らしく、黒板に数式を書きながら世界人口や国の数を持ち出す。
何の話だろうと思っていたら、それは『同じ都内で生まれ、同じ小学校に通う確率』の概算だった。
「ざっくりだけど、約70万分の一です」
高校は学区が広いから確率は上がる。それでも、俺たちが同年代と知り合うのはせいぜい0.0001〜0.0002%らしい。
「つまり、隣の聖廉生と知り合う確率は、競馬で儲けられる可能性よりも低いです」
三連単の理論上の的中率は0.02%程度。馬の調子や騎手で変わるが、数学的にはそうなるらしい。なぜ競馬と比べる。
それを皮切りに担任は競馬の買い方、競馬場の楽しいイベント、恐ろしい負け額、依存症の話までし始めた。
「先生、競馬ですったんすか?」
こういう時に声を出せる和哉が茶々を入れる。
「俺は使用額を決めて守れる理性的なギャンブラーだ」
「すったんですね」
教室に笑いが響き渡る。海鳴には「我が校の卒業生には豊かな人生を」という理念があるので、社会の落とし穴話はたびたびされる。
「本題に戻ると、奇跡的な確率で知り合う聖廉生は女性だから、全員、うっすら男性が嫌いです」
女性は、他に席が空いているのに隣に座られるだけでストレスを感じる。本能的に男には勝てないと意識するからだ。
一方、男は無意識に、時に意識的に女性の隣に座りたがる。もちろん全員ではない。
要するに——生物学的に男は本能的に女が好きで、女は本能的に男を警戒している。
「でも君たちは海鳴生だから印象がいい。全員、うっすら好かれている。先輩たちが積み上げてきた信頼ですから、壊さないように」
担任は具体的な注意に入った。合同遠足前と似たような話しだ。
「観察されているから、他人にこそ、優しく親切にしなさい」
隣の生徒は、大学の同期や職場の同期になることがある。取引先にいるかもしれないし、顧客かもしれない。政治に関わるようになるなら彼女たちは投票者だ。
海鳴の印象が良ければ、聖廉出身者が味方してくれることもある。全体としての印象を良くしておくことも、個別に人脈として手に入れておくことも、大変、お得。
「つまり、悪さをしないように。酷い素行不良者は個別に呼び出します。今回の全体への注意事項は以上です」
またこの話と思ったけど、違う話もあってわりと面白かった。
「早坂君は発言できていいけど、爪が長くて汚い。面倒がらずにこまめに切って汚れを落とすように」
「えっ? あっ、本当だ」
「佐々木君、サッカー部はナンパ男子だと隣から警告が来た。二年部長と副部長の君は呼び出しだ。今日の放課後、職員室に来なさい」
「……えっ? そんなことをしてる部員はいないですよ!」
「いるから呼び出しです」
こうした“晒し”は一年通して全員が何度か受ける。
HRが終わり、和哉と教室を出ると彼は爪を見せてきた。俺たちはとりあえず手を洗ってから出発した。
「サッカー部の誰がやらかしたんだろうな」
「一朗が昼にサッカー部とたまに遊んでいるから、聞いてみるか」
涼を迎えに行けば一朗もいるはずだったが、もう帰っていたらしい。颯と二人で下校したそうだ。
三人で駅へ向かいながら、和哉のお喋りに耳を傾ける。颯は高松さんが来ないから、打ち上げに来ないという予想話だ。
「あいつにこそ、谷垣先生の"人脈話"を教えるべきだ」
「人脈話?」
涼は違うクラスなので、俺が内容を説明すると「先週、似たような話を担任にされた」と笑った。
「でも颯は今、高松さんしか見えてなさそうだからなぁ」
「涼もそう思うよな。剣箏部の部則はどこへいった」
「迷惑をかけなくて、真剣ならいいんだろう?」
俺の問いかけに、和哉が大きく頷く。
「まぁな。女子たちは明らかに高松さんを応援してる。あれはきっと、高松さんが相談しているんだ。俺らは颯に無視されているのに」
面白くないというように、和哉は唇を尖らせた。
「忙しいからじゃないか? あのストーカーの件が落ち着いた後から部活がないから、雑談する暇がないよな」
「確かに。部活が始まったら俺らに何か言うと思う?」
「和哉にだけ言わないなんてないから安心しろ」
和哉は陽気で元気な性格なのに、ときどき仲間外れにされることを恐れているように見える。とても嫌がっている様子を見せることもある。
もちろん、誰だって友達グループからのけ者にはなりたくないものだが、和哉の場合は少し様子が違う。彼の話の端々から察するに、中学時代の部活動で何かあったのだろう。
駅に着いて、最近少し交流のある和太鼓部の五人と合流。少しして、合同遠足や勉強会で知り合った舞踊部の三人がきて、箏曲部の六人も集合。
池梟のボーリング場を予約してあるので、まずはみんなで電車に乗った。
誰ともなしに男女別、部活別に分かれ、車内では別の集団のようになった。
俺はなんとなく橋本さんを見た。今日は緩めの三つ編みの日だ。相変わらず、よく似合っている。
(ボーリングは来た……)
彼女がグループトークで参加表明をした時と同じように、心の中で呟く。
橋本さんは、なぜか俺らの勉強会に、一回しか来なかった。
気になって東さんに確認したら、「追い込み時期は大人数だとあまり集中できない」という理由だった。
今日も「聖廉生はみんな可愛い」と思いつつ、ついつい視線が橋本さんの動きを捉える。
初めて会った時から、彼女の動きは柔らかくてフワフワしていて目を引く。
乗り換え駅で一度降りて、人数が多いから別々にランチへ行き、再集合して目的地へ。
到着後は四チームに分かれて開始。勝敗は二の次で、楽しむのが目的だ。チーム分けあらかじめ決めてあるので、さっそく開始。
俺と涼は、まず橋本さんと細谷さんの四人チームで、初心者の二人に教えながら遊ぶ。
涼が、「俺たちは勝負にしよう」と言ったので、そうすることにした。
隣のガチ勢を参考にして、負けた方が、部活のある日に300円以内で何か奢ることに。
「グッパで、どっちの女子と組むか決めて先生勝負もしよう」
「自分の教えた生徒の勝敗が俺らの勝敗?」
「そう、最大500円の負け。二回勝つと減額で、引き分けで相殺」
「よーし、二回勝つぞ」
グーとパーでチーム分けをしようとしたら、橋本さんが「グッパとは、なんですか?」と首をかしげる。
この仕草だけで、ほわほわしているって本当に不思議な雰囲気の女の子だ。
「グーとパーで分かれっこって、チームを作るんですよ」
細谷さんも、箏曲部の中では橋本さん寄りのほんわか系なので、今の歌うような言い方はとても似合っている。
「グーとパーで分かれっこ、ですね」
「そうそう。グーとパーで分かれっこ」
俺は今、目撃した。他校生の男子が二人に注目して、可愛いというようにヒソヒソしたところを。
涼はときめかなかったのか、普通に二人に話しかけ、「細谷さんに合わせよう」と言い、俺は橋本さんとチームになった。
俺と涼はもうボールを選んであるけど、女子二人はまだなので選びに行き、彼女には、この軽いボールで重いんだと驚く。
続けていくうちに細谷さんは上手くなっていった。一方、橋本さんはあんまり。
「歩きながら腕を振るって難しいのに、みんな出来ててすごいです」
腕の動きとチグハグなちょこちょこ歩き。「えいっ」という掛け声。ヒラヒラと揺れる制服のスカート。どれもこれも、やたら可愛くて困る。
(なんか俺、そんな感想ばっかり……)
好きだった子に何もできないまま失恋して、落ち着いてきたら、みんな可愛い状態だけど、橋本さんのことは、その中でも少し特別な気がする。
剣箏部の部則があるけど、真面目なら良いので、今の曖昧なところから抜け出して「真剣だ」と感じたら、どうするか考えるつもり。
それまでは今みたいに、皆で何かの時に、他の男子と同じように接するだけ。自分の気持ちが曖昧だと何もできない。
涼との直対決は勝ったけど、先生対決には負けて引き分けた。
他のチームが全部終わるのを待ち、メンバーを入れ替えて新しいゲームを開始。
今度のチームは、勉強会で知り合った和太鼓部の満島、それから佐島さん、橋本さん、香川さんの五人だ。
チーム分けは事前に女子が決めたので、二回とも橋本さんと一緒なのは、偶然なのか、わざとなのか気になってしまう。
「女子対男子の勝負にしましょう。負けたチームは……どうしますか?」
香川さんの提案に、佐島さんが「モノマネは?」と提案した。
負けても俺ができるモノマネはない。それなのに、満島が「それでいこう」と賛同したので負けられなくなった。
佐島さんは、スカイタワー以来、わりと大人しくて今日も。
歩くと男子が振り返るような美少女が、今日が初だとは思えない綺麗なフォームでボールを投げる姿は非常に絵になる。香川さんの溌剌とした感じも可愛い。
(でも橋本さんがなんかつい……)
彼女が視界に入ると世界がスローモーションになる。「もしかして」と思うけど、まだまだ話したことがないので、ハッキリさせず、ゆっくりでいい。
そう思ったのに——。
「美由さん、今日ってヒノハラ君は何をしているんですか?」
ヒノハラ君って誰だ。
「普通に授業ですよ。もう終わったと思います」
「真由香さん。ヒノハラ君って誰ですか? 美由さんの気になる人ですか?」
「結衣さんはまだ聞いてなかったんですね」
女子三人が、なんか気になる会話を始めたのに俺の番!
急いでボールを投げて、二投目の準備をしながら耳をそばだてる。
「——です。一応……」
「わっ! 琴音さんに続いて二人目! 何組なんですか? あれっ、でもこの時間に授業が終わった? 他校生なんですか?」
「他校生さんです……」
橋本さんに彼氏? と目の前がチカチカした。心臓もやたらバクバクしている。
不自然にならないようにボールを投げたらガーター。
失敗したと半笑いしながら満島と交代して、椅子に座る。女子たちは俺の結果をまるで気にしていない。
「内部生の美由さんが他校生とどうやって知り合ったんですか? 付き合ったきっかけは?」
「あの、恥ずかしいので……」
「ヒノハラ君は田中君の幼馴染なんですよ」
佐島さんの発言を聞いた俺は思わず、「一朗のやろう!」と叫びそうになった。慌てて唾を飲んでうつむく。
一朗どころか誰にも、「橋本さんが妙に気になる」みたいな話をしていない。
(でも、知り合ってすぐ男子を、それも他校生を紹介するなんて……)
佐島さんが香川さんに、橋本さんと日野原君とやらの出会いを説明していく。
皆で勉強会をしている時に、お腹が減ったと、一朗と橋本さんは買い出しに行ったらしい。
(高松さんの家で、一朗がいる勉強会ってなんだ……)
それも知らない。そこにはきっと、相澤さんもいたに違いない。それなら納得というか……それなら一朗は彼女と買い出しに行くはず。頭にハテナが浮かんでいるうちに話は進む。
買い出し中に、ヒノハラ君から一朗に電話があった。一朗は会計の間、「預かるついでに喋ってて」と橋本さんにスマホを渡した。
すると、人が倒れて、慌てて助けようとしたら、ヒノハラ君は電話越しに彼女を手伝った。
(一朗の幼馴染だけあって、いいやつだな)
満島の投げる番が終わったけど、女子がワイワイ話して動かないので、彼は俺の隣に座り、「何かあった?」と尋ねた。
「橋本さんの彼氏話っぽい……」
「彼氏……」
満島が橋本さんを上から下まで見て、チラリと佐島さんを見たのはなんなのか。
「それでそれで?」
「そうしたら、ヒノハラ君は美由さんに会いにきて、好きになったって告白したんですって」
は?
はぁあああああああ⁈
「えっ、あの、橋本さんはそれで付き合うことにしたの?」
俺はつい、口を挟んだ。橋本さんは困ったようにうつむいて、両手を握りしめて小さく頷いた。
「変わってて面白い人でしたし、琴音さんが田中君と楽しそうなので、彼氏がいるっていいのかなって……」
は?
好きとかそういうのではなく、「変わってて面白いから」とか「彼氏がいるといい」ってなんだ。それなら俺も候補になるというか、俺でもいいのでは。
「そうなんですよ、結衣さん。美由さんたちは仮交際なんです。彼氏と彼女になれるかお試し中なんですよ。ねっ、美由さん」
「毎日30分電話してみています。Letl.は朝、昼、帰宅後、寝る前で、必須ではないです」
世の中には、こういう始まりもあるのか。
俺が「試しに付き合ってみますか?」と言ったら、今の羨ましい特権を得られたのだろうか。
「呼ばれてないけどこんにちはー! みーゆちゃん!」
すぐ近くで大声がした。「みゆ」は橋本さんの名前なので、馴れ馴れしく名前呼びした男は誰だと目を、体を動かす。
そこには、モデルか俳優だと思うくらい顔の整った男が立っていて、満面の笑顔を浮かべていた。
それが「ヒノハラ君」だと理解した瞬間、胸の奥で何かがぐらりと揺れ、一拍、呼吸が止まった。




